第8話「飛べない空」
「まだ飛ばせていないのか?」
神戸空港の管制室に、スーツ姿の男が足早に入ってきた。
県の危機管理課・高梨修一。
彼は、先に到着していた県職員・松本を見つけ、まっすぐ歩み寄ると小声で尋ねた。
「副知事の指示だろう? なぜまだ準備が進んでいない?」
松本は困惑した表情を浮かべながら答えた。
「……管制官が、許可を出さないんですよ。レーダーが機能していない状態での離陸は危険すぎると」
「そんなことは分かってる」
高梨は腕時計を見て、苛立ちを露わにした。
副知事は神戸市役所の会議室で呆然としながらも、QTモバイルの回線を使って情報収集を続けている。
県庁にいる関係者との電話も、ようやく不安定ながら繋がった。
「このままじゃ、神戸も大阪も何が起きているのか分からないままだ。今すぐヘリを飛ばす」
高梨は胸ポケットから藤井から手渡された、元の持ち主が不明であるが必要不可欠なアイテムと化したQTモバイルの端末を取り出し、
耳に当てながら管制室に入り中央へと進んでいく。
「……ああ、こちら神戸空港。現在、消防航空隊のヘリを飛ばす準備をしているが……」
その様子を見た管制官・吉村達也は、思わず眉をひそめた。
「……なんだ? 今、電話してるのか?」
隣にいた神戸新聞の記者・田島も声を聴き、驚いた表情で振り返り高梨を見つめた。
「おいおい、待てよ……何で電話が使えるんだ?」
「関西圏は通信が遮断されてるんじゃなかったのか?」
松本が小さく肩をすくめながら答えた。
「……九州電力グループの回線です。QTモバイルってやつ、知ってます?」
「QT……?」
吉村は一瞬、聞き慣れない名前に戸惑ったが、すぐに理解した。
大手キャリアの通信は完全に死んでいる。
だが、この小さな回線だけは生き残っていた ということか。
「高梨さん!」
不意に、神戸新聞の田島が高梨に駆け寄った。
「ああ、田島さん……」
「助かったよ、あんたが来てくれて! こんな状況、何も情報が取れなくて困ってたんだ。話を通してくれよ!」
「いや、俺に言われても……」
「いつも便宜図ってるじゃないか。ほら、神戸港の件とかもさ! 俺も今回巻き込まれたようなもんだ、本来の取材とは違うが何かネタがいるんだよ。幸か不幸か、TVクルーも連れてきてるから、役に立てるかもしれんよ」
記者が少し恩をきせるような口調で迫ると、高梨はますます困った顔になった。
「いやいや、これはそんな簡単な話じゃ……」
「待て」
吉村が、硬い声で遮った。
「そもそも、今この状況でヘリを飛ばすのは……」
しかし、その言葉を遮るように高梨が言い放った。
「副知事の判断だ。すでにヘリは準備が整っている」
「お言葉ですが、レーダーが使えない状況での離陸は航空機事故の可能性がある。
GPSも使えない、通信も不安定。いわば、勘で飛べと言われているようなものだ!」
「そんなことは分かってる! だが、このままじゃ何も掴めない!」
高梨はQTモバイルの電話を耳に当てながら、苛立ちを滲ませた声を上げる。
「大阪に何が起こってるのか、誰も知らないんだぞ! 誰も分からないまま、ただ手をこまねいているだけじゃ、ますます混乱が広がる!」
「……」
吉村は奥歯を噛みしめた。
管制官としての本分は、安全を最優先にすること。
だが、県の判断は「何も知らないままでは動けない責任はとるから飛ばせ」ということだ。
「責任を取る? 誰が?」
吉村は冷たい声で問いかけた。
「副知事? それとも、あんたか?」
高梨が一瞬言葉を詰まらせる。
すると、後ろから消防航空隊の隊長・榊原が一歩前に出た。
「吉村管制官」
吉村は隊長の厳しい表情を見た瞬間、嫌な予感がした。
「私は、部下の命に責任が持てない。
現場の状況もわからず、航空ルートも見えず、指示も出せないまま飛ばせば、最悪の事態になる可能性が高い」
「……消防隊のヘリは、救助のためのものだ」
榊原が続ける。
「このヘリが墜落したら? それでも責任を取るのか?」
高梨は言葉を失った。
状況が覆らない、一歩も前へ進めない。
「こんな状況では、通常の状態とは言えません。
それでも飛ばしたいなら、副知事をここへ連れてきてください」
管制室の空気が凍りついた。
「……どうすればいいんだ……」
松本が小さく呟いた。
誰もが黙り込んだ。
状況は変わらず、情報も得られず、ただ時間だけが過ぎていく。
しかし、この空港の空は――依然として、沈黙したままだった。