過去からの亡霊。
ヘーゼルはそこで、信じられないものを目撃した。
病み上がりなのに、いつも通りちっとも大人しくしていない女主人……ウェルミィに付き合って覗き込んでいた本から目を上げた後。
振り向いた先に、『それ』は立っていた。
整った身なりをした、赤毛の男。
あの日見た、トレンチコートを羽織った姿。
目の下に濃いクマがあり、青白い顔をしたその男が、感情の浮かばない瞳でジッとこちらを見つめていたのだ。
ーーートールダム……ッッ!!
ヘーゼルは、悪夢か幻覚を見ているのかと思った。
伯爵家を、そして自分の父母を、復讐の為に破滅させて絞首刑に処された筈の相手。
そしてヘーゼルを虐げ、絶望のどん底に叩き落とした張本人だった。
息を吸うと、ヒュ、と喉が鳴る。
ヘーゼルが思わず胸元を押さえたところで、ミィもトールダムに気づいた。
「誰!? ……〝影〟ッ!!」
彼女が声を張り上げると同時に、フッと男の姿が掻き消える。
ミィの影から飛び出してきた護衛達……デスターム伯爵家で鍛え上げられた〝影〟らが振るった刃も、空を切った。
「本邸のこんなところにまで侵入してくるなんて……! どこに逃げたか分かる!?」
〝影〟らは、『最初から最後まで気配すら感じなかった』と応じる。
顔色が青ざめているように感じるのは、〝影〟らがこれを『自分たちの失態』だと考えているからかもしれなかった。
ヘーゼルは、冷や汗が吹き出す顔に手を添える。
かつてあの男を前にして、自ら刻んだ傷痕が、心臓の鼓動に合わせて疼いたような気がしたからだ。
「ヘーゼル、どうしたの? 大丈夫!?」
ミィの声に、力なく首を振りながら手を下ろす。
彼女を守るために身を挺するのも側付きの仕事なのに、混乱のあまり立ち尽くすことしか出来なかったのだ。
「ごめん……とっさに動けなくて」
「そんなこと聞いてるんじゃないわよ! 凄い汗じゃない。貴女、あの男を知ってるの!?」
ーーーミィ達にも見えてるなら、幻覚じゃない……。
ヘーゼルは、どうにか落ち着こうとしながら、ミィの目を見返した。
純粋にこちらを案じるような色を、その鮮やかな朱色の瞳に浮かべている。
出会った頃のような、ご令嬢の容姿に戻ってしまったミィを見つめて、ヘーゼルは余計に鮮やかに、過去の心の傷を呼び起こされてしまった。
ミィのせいでは、ないけれど。
治ったと思っていた、乗り越えたと感じていた心の傷を、自分が覆い隠していただけで全く忘れていないのだと、気付かされてしまった。
「あれ、は……」
涙だけは、堪える。
でも、声が震えるのだけはどうしようもなかった。
「あれは、トールダム・グリンデル……私の、義父だった男、よ」
ヘーゼルの言葉に、ミィは目を見開いて息を呑んだ。
「ル……トールダム?」
「ええ……」
「間違いないの?」
「……見間違いで、なければね」
鋭く真剣な目になったミィに、ヘーゼルがそう応じると、彼女は嘆くように額に手の甲を当てて眉根を寄せた。
「つまり、幽霊……ってこと?」
言われて、ヘーゼルはちょっとおかしくなった。
あまりにも現実味がなさ過ぎる単語が、ミィの口から出てきたからだ。
それに、何だかふわふわして、意識が体から少し離れているような感覚がした。
自分の感情と体を、ちょっと離れた自分が俯瞰しているみたいになって、どこか遠くの出来事に感じる。
「幽霊、だとしたら、初めて見たわね」
ヘーゼルが、ふふ、と笑うと、ミィがますます眉根を寄せながら、額に当てていた手をこちらに向かって伸ばしてくる。
「ヘーゼル」
「なぁに?」
「しっかりしなさい!」
彼女は、頭ひとつ以上高いヘーゼルの眼前に伸ばしてきた手に、逆の自分の手のひらを勢いよく叩きつけた。
パァン! と音が鳴り響くのと同時に、ハッとして意識が体に戻ってきた、と感じる。
「あ……」
「魂の存在は、魔導学上で実証されてるのよ。それが目に見えるようになるかどうかは、現在研究段階。私やお義姉様の瞳を含む、十二氏族の血統に『色々なものが視える』のは、それと関係があるのじゃないかと言われているわ」
いきなりそんな話を始めたミィを、ヘーゼルはまじまじと見つめる。
「え……何の話?」
「肉体を離れた魂が存在する場合、それを偶然観測する事例もあるでしょう。それを『幽霊』と呼んでいる、ともされているわ。それに、近頃は変化の魔術なんかも実用段階に入ってる、とエイデスが言っていたし、誰かが化けてたって可能性もあるのよ」
「ミィ……えっと……ごめん、本当に何の話?」
ヘーゼルがポカンとしていると、こちらの反応を見て、ミィが少しホッとした様子を見せた。
「落ち着いた?」
「意味が分からなすぎて、逆に冷静になったわ」
「本当? 見間違い以外に、現実としてそういう可能性もあるって理解出来た?」
「いやだから、その可能性があるから何なのよ!?」
ヘーゼルが思わず苛立つと、ミィがニッコリと笑う。
「別に話の内容に意味はないわ」
「は!?」
「貴女がちょっとおかしくなってたみたいだから、手っ取り早く引き戻しただけよ」
ミィは、そこでこちらの手を握って、笑みを消した。
「……トラウマの相手がいきなり目の前に現れたら、誰だって取り乱すわ。でも、『今、辛い目に遭っている訳ではない』し『言いたいことを言える場所にいる』ことを思い出して欲しかっただけよ」
「……!」
「目が……昔のミザリみたいになっていたし。貴女はこんな時にヘラヘラ笑う人じゃないでしょう?」
言われて、ヘーゼルは心配をかけていたことに気づいた。
「今の貴女の側にいるのは、あいつじゃなくて私よ。貴女は自分の意思で自由に生きられるし、貴女に手出しする人間には私が容赦しないわ。恐れて意識だけ逃すような真似は、しなくていいのよ」
ミィの朱色の瞳は、普通の人とは違う見え方をする特殊なものなのだ。
人の本質を見抜く、と言われていて、感情の動きやその人の敵意や好意などがある程度分かってしまう。
「あたし……おかしかったのね?」
「ええ。起きているのに、意識が体から離れているような感じがしたわ。本来は心の防衛本能によるものだとお義姉様は言っていたけど、ミザリみたいに、そういう状態が常態化すると危ない、って聞いていたから」
ごめんなさい、と謝られて、ヘーゼルは戸惑う。
「何で謝るの?」
「嫌なことから心を守ろうとしていたのに、少し荒っぽい方法で呼び戻したから。だってまだ、油断できないでしょう?」
「あ……そうね」
周りや書庫の外で、〝影〟以外にも執事や侍女を含む使用人の声が飛び交っている。
御当主様や侍女長への連絡、スフィーア様の安全確保などに関する声が。
結局、あのトールダムが何なのかは分かっていない以上、ショックで呆然としている場合ではないのだ。
「あたしこそ、ごめん……動くわ」
「いいえ、貴女は私の側にいて。そうね、少なくともエイデスが帰ってくるまでの間は」
「何で……?」
「何でもよ」
ヘーゼルの疑問に、そう答えたミィは。
こちらの手を握り締めたまま、厳しい表情でトールダムが立っていた辺りを睨みつけていた。




