巫の都3
巫の都3
「まったく、あなたは。もう少し落ちついて下さい。動顛していいのはあなたではないですよ」
苦笑をにじませた男性の持ち上げたものを、体を起こしながら見て驚いた。作務衣のような着物を着た、五十代くらいの小柄な女性に見える。
しかも、泣いてる?
私は、転倒から守ってくれた背後の方の手を借りて起こしてもらった。
振り返って、その人の顔をじっくり見る余裕もないままガバッと頭を下げる。
「助けていただいてありがとうございました」
まずはお礼からと口にしてから、相手の顔をしっかりと見る。
すっかり陽の光が射さなくなった周囲から浮かびあがった白い美貌。ぱっちりした黒瞳。メイクしていないと思われるのに、プルンと艶やかな唇。長い黒髪をポニーテールにして、雰囲気は武士なんだけど、たぶん女性に思える。
「お怪我はありませんか。痛むところはどうでしょう。咄嗟だったのでうまく庇えたのか自信がないのですが」
美人は得ね。微かに眉が寄せられた以外に表情は変わっていないけれど、目の保養になる美しさの前には性別なんて二の次ね。
「はい大丈夫です。本当に助かりました」
本当はカバンを握りしめ過ぎていた手を地面で打っていたけれど、このくらいは我慢できる。
とにかくこれだけ美しい人にこれ以上の醜態を晒したくなくて痛みに耐え、微笑みを返した。
「何してるの。主を放る以上の用事なんてあるわけないでしょう。説明しなさい」
助けてくれた人の背後から、女の子のとても冷ややかな声がした。
ずいぶん高飛車な物言いだな、と美人さんの後ろへと身を乗り出した。
しかし相手の行動は私よりも速かった。
淡い灯りの下でも鮮やかな緋色の着物の彼女は、気付いた時には私の目の前に立っていた。
高めの声から推察できるイメージ通り、少女と呼んだほうがいい幼さが残る顔立ちは、身長も私より幾分か低い。まとう雰囲気は尊大で、いかにも私を値踏みしています、と視線で物語っている。
中学生くらいかな、と私も判断したが、着ている物の華やかさから見ても、セレブ階級と思われる。
居丈高な態度も物言いも当然な家の人なのだろう。
そこから分かったのは、階級のはっきりした国?らしいこと。この国に馴染むには、その点を気を付けなければ。
私を助けてくれた人も一歩引いて華やかな彼女に頭を下げている。
「誰?初めて見るわよね。変わった衣装だし、どこかの客人でもなさそうだし」
全く物怖じしない発言に、うらやましくなる。
私は人見知りしやすいので、とてもじゃないけど初対面の相手にこんな視線も言葉も向けられない。
そんな怯んだ心境が伝わったのか、コラコラと渋い男性の声が割って入った。
「東之條家の娘が初対面の女性への第一声がそれかい?お父様は泣けてしまうね。礼儀作法は厳しく躾けたはずなんだがなあ」
声も顔付きも渋いおじ様は袖を目に当てて泣きまねをしてみせる。
おじ様の娘らしい令嬢は、舌打ちしそうに顔をしかめた。
次の瞬間には真顔になって背筋をピッと伸ばす。右手を胸の真ん中にあて、左手でスカート部分を軽くつまんで少し腰を落とす。
顔は俯け、目線は下へ。
「お初にお目にかかります。東之條紗羅樹と申します。どうぞお見知りおきの程を」
ご令嬢は優雅に一礼する。
舞踊の一場面を見ているかのようで、危なく拍手をするところだった。
いけない、いけない、と気を取り直し、私も挨拶を返す。
「ご丁寧にありがとうございます。藤原咲紀と申します。よろしくお願いいたします」
真由の家で教わっていたお作法の通りに、慌てずゆっくりと上品に、と胸の中で唱えながら頭を下げた。
「おお。ふじわらさきさんですね。私は東之條雅幸と申します。この都の東の長であり東之條家の家長を致しております。今後あらゆる事柄の相談にのらせていただくことになりますので、気軽に声をお掛けください」
おじ様は渋い声の割にニコニコと、本当に気軽そうな調子で自己紹介をした。
やっと周囲を落ち着いて見られるくらいにはなったけれど、私の視線はおじ様の体の前に支えられている人物に釘付けになった。
私の体の上でヒクヒク泣いていた小柄な女性だった。
身長は150センチくらい。灰色の作務衣のような物を着て、やせているのが服の上からも分かる。
……やっと泣き止んだみたい。
先程までの取り乱した様子も穏やかになり、地面に自力で立ったら落ち付いた物腰で私に丁寧に頭を下げて一礼をして下さり、笑顔でこちらを見上げてきた。
「飛来、と申します。元の名前は小林直子です。私も日本から来ました。麻布は分かりますか?自宅はそちらにあるはずなんですよ」
「――――――」
「東京の地名は詳しくないかしら。東京は分かります?」
もちろん分かりますとも。分かるんだけど、麻布にご自宅ってすっごいお金持ちじゃないですか。どう反応していいのかとまどってしまう。
とりあえず頭を縦にブンブンと振ってみた。――――驚きすぎて言葉が出てこない。
「まあ分かるのね。嬉しいっ。あらあら、立ちっ放しでごめんなさい。服の泥を落とさないといけないわね。あの洞窟……」
洞窟と聞いただけで背筋がゾワゾワして、怖気が迫ってくる。もう首を上下させるくらいしか意思表示が出来ない。
自分でも説明できない複雑な表情をしているだろうと想像したが、小柄な飛来さんは、分かる分かる、と頷いてみせた。
「家の中へどうぞ。ここでは暗くてお顔も見にくいし、明るい所でお話ししましょう」
にこやかな飛来さんに対して、私は返答に詰まった。
だって東の長を名乗った渋いおじ様は、きっと偉い人。都の規模は分からないけど、きっと上から数えたほうが早いはずの人物だと思われる。その人を差し置いて飛来さんが取り仕切っていいの?
チラッとおじ様へ視線を走らせると、おじ様はすぐに分かったのか、ニコッと微笑んで小さく頷いた。
私もおじ様に微笑み返して、飛来さんへ、よろしくお願いします、と頭を下げた。