生まれたての悪魔
縦書きの方がやや読みやすいかも。
「一敗地に塗れたからといって、それがどうしたというのだ。すべてが失われたわけではない。――まだ不撓不屈の意志、復讐への飽くなき心、永久に癒やすべからざる憎悪の念、降伏も帰順も知らぬ勇気があるのだ。敗北を喫しないために、これ以外何が必要だというのか。」
天使が言った。彼は、その背に生えた純白の翼は灰に煤け、体のいたるところから血が溢れ、立っているのがやっと、という体だった。しかし、その瞳にはなお高貴な野望が燃えていて、声には揺るがぬ自信と力強さがあった。
彼の周りには同様に満身創痍の大翼の天使たちが大勢集まっていて、皆その言葉に耳を傾けていた。
彼らが立つのは草木も生えぬ焦熱の大地であり、その滾る熱が足を焦がした。
彼ら天使たちは、かの空の主人の雷によって、あの天の宮殿の、空高きからこの忌まわしき大地に落とされたのであった。天使たちの清浄な衣裳は固まった血に暗く塗れ、土に汚れていた。彼らのひしゃげた羽では、再び飛び立つことも困難に思えた。
この状況に多くの者は落胆していたが、仲間を鼓舞する例の天使は密かに心に歓びを感じていた。この大敗は、彼にとってわかりきった結果であった。彼は、この叛逆の扇動者であると同時にその無謀を最も知る者であった。彼にとって勝敗は問題ではなかったのだ。
彼も以前は、真なる敬愛の情を携えて、あの者の最も親しき者として寵愛を受け、その側に仕えていたのだ。彼はあの聖なる王国で天使の身で最も大きな権威を帯びてさえいた。彼は自分の働きに誇りを持っていた。天使とあの男の2人の関係は数えるのが馬鹿馬鹿しいほど長きに渡って続いていた。
しかし、最後に彼はあの男に与えられる無限に深く包み込む愛に対し、痛ましい憎悪の牙で報いることを選んだ。
きっかけが何であったのかはわからない。彼はいつの日からか、あの男の深遠なる眼差しや絶えることのない穏やかな微笑にじわじわと嫌悪の情を感ずるようになっていた。はじめにはそれは少しの違和感であったが、しまいには、住居の装飾ひとつに対してさえあの男の吐息を感じ、破壊衝動を抱くまでになった。
彼は自分の感情に気づいた時、もはやそれを隠し立てることはしなかった。彼は自分に忠を尽くす天使達を集め、すぐさま叛逆を引き起こした。
結果彼は、愛と光、権威と安寧に包まれた暮らしを失い、闇の中、我が身を焼く業火のみに仄暗く照らされ、今ここに立っている。彼の胸にはしかし歓びが蠢いていた。ともすると彼の戦いの目的は勝利ではなかったかもしれない。その衝動の根源は自己の生き方や誇りの問題にあった。
彼の身に芽生えた歓びは、興奮、高揚感、陶酔などに結びつく、甘美な、あの光の王国では決して生じうるべくもない感覚だった。彼はその新しい感覚を愛おしく思った。
今となってはそれまでの自分のあり方全てが滑稽に思えた。
ーあの男の前に常に膝をつき、目を伏せ崇拝していたあの頃、あの振る舞いに何の価値があったというのか。
ーあの男はきっと今もあの微笑を絶やさずにいるのだ。あの底の見えない眼差しとともに。
彼はあの宮殿にはじめに足を踏み入れたときのことを思い出した。
あの男はその時微笑んでこう言った。
「あなたがたは今から自由の身だ。最も、生まれた時、全ての命は自由を携えるのだけれど。まあしかし今再び伝えておきたい。あなたがたはどこへなりとも行くことができる、各々、己の望むことを行うことができる。」
しかし、彼を崇拝する天使達は、皆こぞって彼の側に仕えることを熱望し、懇願した。あの男はその懇願を喜んで聞き入れた。彼はそのときの自分があの男に語ったへつらうような言葉を思い出して羞恥に震えた。
ーええい、「自由」。あの「自由」というやつ。
誰しも、最も自由であるとき、最も宿命に囚われる。
彼の闘争への執念、驕れる野望を生み出した原因のひとつは自由の渇望だ。
しかし、彼はまた結局自らの信念、尊厳が、自らを縛っていくのを知っていた。しかし、今回は何かそこには苦い心地よさがあった。
ー私は、あの男の全てを否定し、あの男の避けた道を通ろう。最も雑草が蔓延り、足に絡みつく道を通ろう。
ー凡庸な努力家を貶め、度はずれの間抜けと、度を越した智慧者の味方になろう。あの男の似姿を憎悪し、あの男から最もかけ離れた容姿の者たちを愛そう。日なたを避け、平穏を避け、怒りと憎悪と悲痛の激情に喜んで自ら身をまかせよう。
そのとき、世界に悪と善とが生まれた。
生まれたばかりの悪は未だ素朴で誠実だった。
ミルトンの失楽園は、文学としては(日本語で読む限りは)あまり好きではないのですが、そのテーマ設定は好きです。意外と昔の文学って宗教観念の懐が広くて素晴らしいなと。いつか、この設定でもう少しちゃんとしたものを書きたいなと思うけれど、難しいですね。
引用(最初の天使の言葉)は、平井正穂氏の翻訳を使わせていただいています。
本当に、ミルトンと訳者様、その正統なファンの方々には申し訳ないです。