ACT.1 Eve of Destruction part1
テーマ曲:Barry McGuire-Eve Of Destruction
読みやすいように一話を複数に分割してあります。
――東京と埼玉の県境、西ヶ原市――2014年5月30日
額に汗にじむ五月最後の金曜日。寝苦しさから西宮綾子は目覚めた。
世間が夏に移行する準備をしている最中だというのに東の空から照りつける光は赤く燃え、綾子の下着をほんのりと濡らしていた。近隣の西森高校に通う彼女にとって、学校までの道のりは決して億劫なものではなかったが、夏服が解禁されていないことは彼女の憂鬱な気持ちに一票を投じた。
何気なく枕元に無造作に置かれていたスマートフォンを手に取る。ディスプレイには午前六時の文字。
登校時間まで余裕があると知った彼女は、シャワーを浴びるべく、自室のドアを開けて、近くにある階段を下っていった。一階のリビングでは、彼女の母親が朝食の支度をしていたので『おはよう』と軽く声をかけ、洗面所に足を進める。
起きてすぐにシャワーを浴びることは彼女の習慣となりつつあった。綾子は特段、身なりを意識したり、かえって粗雑な性格の持ちぬしであったりしたわけではない。が、思春期特有のセンシティブさは彼女にもあった。
服と下着を脱ぐと洗濯籠の中にそれらを放り込み、浴室のドアをあけ生ぬるい室内に入っていった。
蛇口をひねった彼女の体に冷たい水が纏わりつく。セミロングの綺麗な髪から首に流れたそれは、彼女の汗と一緒に背中や胸に抜けていき、地面へと落ちる。口角の上がった小さな口から噛み締めた白い歯がチラリと顔を出し、体は小さく震えていた。が同時に、快感にも似た爽快感を彼女の脳裏に残していた。
決して彼女の体には、無駄な肉が付いているわけではないが、以前にやっていたテレビでダイエットに効果があると見てから、朝のシャワーに限って冷水を浴びることにしているのだ。
格闘技の呼吸法のように短く息を吐きだす。吐息だけが水の音に逆らっていた。蛇口を締めるとその声も水の滴りとともに消える
体の熱を冷まし終えると、ふぅーともう一度息をしてから、立ち上がった。それから、洗面所の手近なところにあったタオルで体を拭き、腰に巻き付けると浴室を後にする。
体重計に乗るだとか歯を磨くといったルーチンを済ませると下着だけ身に着け、さっそうとリビングに向かった。
ダイニングテーブルからリビングにあるテレビを見ていた綾子の母親は、綾子の格好に驚いた。
「綾、シャツぐらい着なさいよ」
「別に、家なんだし問題ないでしょ。楽なんだよ」
年頃の娘が半裸同然の姿で家じゅうを歩き回っているのを見れば、親として注意の一つは言いたくなるものだ。
「社会に出てそんなんだと苦労するよ。学校でもそんなにだらしないんじゃないでしょうね」
「TPOくらい弁えてるって」
綾子は、母の心配を邪険にしながらダイニングテーブルにつき、用意してもらった朝食にありつく。
「来週から夏服でしょ。ブレザーとかクリーニングに出す?」
「いいよ、そんな着てないし」
「まぁいいけど、ちゃんとハンガーに掛けておきなさいよ」
生返事だけが母のもとに返ってきた。
「そうだ、中間テストの成績はどうだったの? 来年は受験に備えないといけないし、成績はしっかりとっておかなきゃダメよ。指定校だったり、色々と選択肢が広がるんだから」
「分かってるって、心配しなくても成績は良い方をキープしてるから」
「そういって、一年の学期末あんまり良くなかったじゃない」
痛いところを突かれたと綾子は唸る。
「それから、塾とか行きたくなったら早めに相談するのよ。お父さんにも相談しないといけないし」
「大丈夫だって」
そういいながら食パンを頬張る。食べながら辺りを見渡すといつもの食卓に父と妹が居ないことに気づいた。
「あれ、お父さんと里沙は?」
「昨日も朝言ったじゃないの。お父さんは出張で一週間留守にして、里沙は水泳の強化合宿に行ってるって」
「そうだっけ。忘れてた」
「あっ、そうだ。お母さん今日も遅いから、ご飯の用意だけしといて。二合でいいわよ」
「はいはい。了解でーす」
「それから、最近物騒な事件が多いから、早く帰ってくるのよ」
「心配いらないって」
「また、そう言う。そういう所が心配なのよね」
綾子は、母の心配事を気にも留めない様子で朝食を平らげた。
『ごちそうさま』と一言告げると流しに皿を置き、一度、自室に戻った。のんきに漫画を読んでいると、寝過ごしたとき用のアラームが鳴った。時計を見ると、時刻はゆうに七時を超えていたので、急いで支度をし玄関に急いだ。
そのまま、扉を飛び出ると自転車の籠に鞄を投げ入れ、跨ってイヤホンを耳に押し当てた。
「里沙の奴、また私の自転車を使ったな」
妹の里沙は時たま自分の自転車の鍵を失くしては、綾子のを使っていた。里沙の方が背が低く、サドルが下げられているので、綾子はそのたびに里沙に文句を言っていたのだ。一度自転車をおり、サドルを調整してから、公道へ駆け出した。
鼓膜を通してからだの中に広がるポップの曲を口ずさみながら、青く晴れ渡った空を切る。ペダルの回転数をあげればあげるほど、彼女のほおをこる風が、美しくゴムで纏め上げられたポニーテールをさらさらと靡かせる。
胸元にはすでに粘り気のない汗が彼女の熱を冷ますべく流れ出ている。家から高校までの間に架かる橋を自転車で駆けながら音楽だけで彼女はハイになっていた。
「新大陸に最初にたどり着いたのは、コロンブスとされているよね。でもそれよりももっと先にアメリカ大陸に植民地を作っていた民族がいたんだ。誰だと思う? おい、西宮。起きろ」
四限の世界史の授業。若さがまだ残る教員、社会科の滝本は、寝ている綾子の机を軽く蹴って、綾子を起こした。突然の事態に、よだれを教科書に垂らしながら綾子は飛び起きた。
「西宮、ここはお前の家のベッドじゃないぞ。よだれを拭け」
クラスの中からくすくすと笑い声が漏れる。
「もういい、アメリカに到達していたのはノルマン人だ。覚えておけ」
そう言い終えると、綾子の机を離れ黒板の方へ踵を返す。何歩か歩き出すと就業のチャイムが鳴り始めた。
「今日は午前授業だから担任の松山先生をそのまま待っていろよ。後、来週の中間は、前回渡したプリントを復讐すれば難なく解けるから、しっかり復習しておけ」
それだけ言い終えるとそそくさと教室を後にしていった。クラスの何人かが席を立ち、各々の友達の机に歩み寄る。綾子の机に仲の良い藤宮鈴がやって来た。彼女は地元でも有名な邸宅に住む令嬢らしいが、なぜか綾子と仲が良かった。
「盛大に寝てたね。あや」
「滝本の授業ってつまらないわけじゃないけれど、なんか睡魔に襲われるよね」
「どうせ、中間の用意もしてないんでしょ。ヤバいんじゃない」
「鈴はあたしのお母さん? 何とかするって」
「まぁ、そんなことは置いといて。今日さぁ、帰りに、カンザス寄ってかない?」
「カンザスって駅前のファミレスでしょ? 仲町街道沿いのやつの方が近くない」
「いやぁ~、夏限定のパフェがもう出るらしいんだよね。だから駅前の方に行きたいの」
「ホント、甘いものに目がないよね。鈴さぁ。よく太らないよね」
「失礼ね。それこそあんたに言われる筋合いないって」
「そりゃそうね。で、メンツは?」
「いつものメンバーの香はもう決まっているよ。それから、あまり、話したことないけど、エミリーさんを呼ぼうと思っているの」
そういうと、二人は後ろの方で突っ伏して寝ているエミリー・ブラントを見る。今学期の初め、突然、転校してきた謎の金髪美少女に、クラス中が湧いていた。しかし、当の本人はつっけんどんにそれを返し、全く相手にしないことから、次第に誰も相手にしなくなっていった。今では、学校に来ても手持ち無沙汰そうに突っ伏して寝ていることが彼女の常だった。
先生達でさえ、出欠や大事な用がない限りは彼女の相手をしないので、二人はどうもエミリーという存在が気になって仕方がなかった。
「エミリーさんってアメリカから来たんでしょ。だから英語はペラペラじゃん。日本語も上手いし、英語の課題、彼女が居れば百人力じゃない?」
鈴がそうやって、彼女を誘う口実を繕ているところから、暗に私に誘いに行けといっているのだなと綾子は悟った。
「じゃあ、私が行こうか?」
間髪入れずに鈴は「お願い」と綾子の顔をまじまじと見ながら言った。
仕方ないと綾子は席を立ち、一番後ろの窓際の席に陣取っているエミリーのもとに向かった。机の前に立った瞬間、その気配を察したのか、エミリーは瞬間的に顔を上げ綾子の顔を軽く睨みつけながら言った。
「何?」
シンプルなその一言に綾子の思考はフリーズし、次の言葉を探し出そうと必死の脳をフル回転させていた。エミリーは、瞬時に状況の分析をはじめ、綾子の肩越しに見える鈴がこっちを見守っていることから、彼女の差し金だなと理化した。エミリーは少し体を倒し、綾子の体を避けるように鈴を見た。
藤宮は綾子の席からエミリーに向かって軽く手を振ると、エミリーの席までゆっくりと歩みだした。
綾子はようやく、本来の目的を思い出し、エミリーの顔を見据え、慎重に言葉を選びながらランチに誘おうと奮闘した。
「あのさ。あたし、西宮綾子っていうんだけど」
「知っているけど、それが?」
「あー、知ってる? ありがとう。で、もし良かったらでいいんだけど、今日、午前授業でしょ。だから、その、帰りにファミレスでも寄って帰らない?」
「後ろのその子も?」
鈴は、綾子の背中からひょいと顔を出し、エミリーに自己紹介した。
「後、隣のクラスの島本かおりと四人でなんだけど」
エミリーは少し考えるそぶりを見せながら
「いいよ」と口調を弱めて答えた。
二人は意外な応えが変えってきたことから、笑みがこぼれ、にこやかな顔になって続けた。
「じゃあ、学校が終わったら四人で駅前の店に行こうよ。今日から夏の新メニューが入るらしいんだけど、エミリーさんは甘いものとか好き」
「エミリーでいいよ。西宮さん。綾子さんっていうのは違和感あるでしょ」
「そうだよね。じゃあ、エミリーって呼ぶね。私のこともあやでいいよ」
三人が打ち解け始めると、担任の松山が教室に入ってきて、皆に席に座る様に促す。全員が席に戻り、松山が連絡事項を回し始める。テスト週の前の午前授業とだけあって、内容のほとんどが内申の悪いものへの苦言やテストについてのものだった。
そうした松山の説教が終わると、三人はさっそく島本香と合流して、駅前に向かった。道中の会話のほとんどがエミリーの出生に関する質問で埋め尽くされていた。
「改めてで悪いけど、エミリーはなんでこの時期に転校してきたの?」
鈴が訊くと、あとから二人も「そうだよね」と同調した。
「まぁ、いろいろとね。親の都合ってやつ。別に私が望んだわけではないから、よく分からないわ。学校は、ここしか入れるところがなかったからっていうのが正しいかな」
自然と三人から相槌が漏れる。関心はあるが掘り下げても、大した返事は期待できないと彼女らは思った。やはり、三人にとってエミリーは少しとっつきにくい存在だった。
「日本語もうまいよね」綾子が訊く。。
「義父は日本人だったからね。四歳ぐらいまで日本に住んでいたことがるよ。たぶん、そのせいかな」
「へぇ、だからか。わたしも、子どもの頃に海外経験とかあったらよかった」
香が自然と会話に入る。
「今からでもおそくないんじゃない」
「小さい時じゃないと言葉って入ってこないじゃん」
「そんなの努力次第じゃないの?」
「うーん、そうなのかな」
そうこうしている間に、駅のロータリーに到着し、駅と対面にあるファミレスに足を進める。階段を上り正面玄関に入ると昼間だというのに席は空いていた。店員に促されるまま窓辺、明るい席に座る。
「みんな、何食べる?」
鈴が三人にメニューを回す。彼女はなんだかんだ面倒見のいい性格であり、エミリーに声を掛けようと思ったのもそのせいである。
エミリーが受けとったメニューからハンバーグセットを選択するとみんなで「同じものを食べよう」と香が言い、結局、みんなでハンバーグセットを注文した。
暫しの沈黙が流れる。店員さんと会話することによってペースが乱れてしまう例のあれだ。四人は物欲しそうにメニューに再度目を落としていた。
沈黙に耐えられなくなった香がエミリーの体を見ながら、会話の流れを作った。
「ねぇ、エミリーってさぁ、体つきいいよね。スポーツとかやってるの?」
「なんかエロいね、その質問」綾子がちゃちゃを入れる。
「とくにはないかな。走るのは好きだけど」
彼女の体は、服の上からでも丹念に鍛え上げられ、贅肉ひとつないような虚静の美を感じ取ることができた。それでいて、白く透き通った肌は柔軟さに長け、肉体はまろやかな曲線を描いているのだ。女の子の理想の美とは言えないが、芸術的な理想形であった。
「化粧水とか、肌ケアはどうしているの? わたしも参考にしたい」と鈴が真剣な面持ちで訊ねる。
「私、美容系にはうといんだよね。なにもしていないし」
「何にもしないでその肌なの! 羨ましい」
エミリーは困ったように笑って見せた。
「まぁ、しいて言うなら、ちゃんと寝るくらいかな」
「元が良い人は、これだからなぁ」とかおり。
「かおりや鈴も、可愛いと思うよ」
「「なんか、上から目線ポイ」」ふたりの意見があった。
「それいうなら、あやも肌白いとおもうけどなぁ」
エミリーは流し目を綾子に向ける。
「えっ、そう。うれしいな」
「はい、そこ調子にのらなーい」とかおり。
なんだかんだ、会話が弾んだところで鈴が思い出したように呟いた。
「そういえば、エミリー。もうすぐ中間テストがあるでしょ。だから、勉強会を使用と思っているんだけど。今日って時間ある?」
「四時ぐらいまでなら、時間あるかな」
鈴は嬉しそうに口角を上げた。
「で、お願いがあるんだけど。英語をおしえてください」
「えっ」
鈴は両手を顔の前で合わせ、お願いのポーズを取っていた。エミリーがちらっとほかのメンバーにも目をやると、全員が同じポーズを取っていた。
「Really?」
つい、口から英語が飛び出たエミリー。少し考えてから。
「わたしにひとりずつパフェをおごってくれたらかんがえてあげる」
「「「喜んで」」」
エミリーはつい苦笑いを浮かべてしまっていた。