9.魔王は王国の脅威か
オリエス騎士団長は事態を重大視していた。事態というのは、つい先日王都から南へ約七日、魔領に最も近い都市で魔王が目撃されたという事件についてである。魔王があの都市、サオガでしていたのは情報収集で、酔狂で王国を乗っ取るつもりなのではないかと彼は思い至り、今謁見の間でその考えを王に述べた。
「あのような狂った魔王を放置すればいつ王国に攻め入るか分かりません。国民が危険です。討ち取るまではいかずとも、せめて魔領内にとどめるよう動くべきであると考えます。」
そう王に進言したオリエスの瞳は真剣そのもの。彼もローラスと同じく、国民のことを最優先に考える者の一人である。だからこそ、王国民に被害が及ぶ可能性のあるものを放置するのは彼の矜持が許さなかった。その顔つきを細めた目で見定めた王は、うむ、と頷き許可の意を示す。
「そうであるな…。危険を放置するのは賢い選択ではない。よかろう。勇者が討伐へ行く際の護衛以外でも、魔領を攻めることを許可する。」
できうる限り戦力を削げ、と言い退出の許可をした王に、オリエスは嬉しそうに返事をした。
その頃、アルノは城の中庭で数少ない友人の一人と話をしていた。その友人の名前はエルス・アウデンバルド。この王国の第一王位継承者、第一王子である。幼い頃から王宮でほとんどの時間を過ごしてきたアルノははじめ、自分の仲良くなった黒髪黒目の美少年が第一王子だとは思いもせず、王族の親戚にあたる貴族か何かだろうと思っていた。エルスはアルノより三つほど年上で、今や美青年と呼ばれる容姿とその権力、更には魔法の扱いも国内で最もすぐれているということで、媚を売る女性は後を絶たないらしい。
「で、その魔王は剣士が怒ったら喜んだのかい?」
「そうなんです。何故か嬉しそうに、“もっとちょうだい”とかなんとか…。」
「それは…すごい魔王が産まれたものだね…。」
エルスは魔王の態度の話に若干顔を引きつらせながらも、興味深そうにアルノの話に聞き入っていた。
「にしても、まさか君があの百年に一人の子だったとはね。」
「俺もその話を聞いたときは驚きました。」
アルノは自分が魔族の言葉を理解できるらしいという話もしていた。むやみやたらと話すようなことではないが、それだけ彼は第一王子のことを信頼しているのだ。
「ああでも、その魔王が王国語を話すのならありがたみも半減かな?」
そう苦笑して言うエルスに、アルノは少しだけ拗ねた。そうなのだ。あの魔王は、自分が魔族の言語を理解するまでもなく、生まれて数日で王国語をそこそこ話せていた。おそらく今はあのときよりもはるかに上達しているだろうと考えると、早く話をしたいと逸る気持ちと上達しなくても自分が魔族語を話せるのにと惜しむ気持ちが同時に湧き上がる。そんな二つの思いで胸を満たすアルノに、次にエルスが言った言葉は宣戦布告のように聞こえた。
「それにしても、天使の容貌を持ち王国語を話す魔王か…僕もその魔王と話してみたいな。魔王の名前は分かるの?」
「…話したときに聞けばいいでしょう。」
「なんだよ、拗ねてるのかい?安心して、横取りしたりなんかしないから。」
「う…」
子供の癇癪をなだめるような声色でそう言われ、なんだか居心地の悪くなったアルノは話題を変えることにした。
「…そういえば、色素欠乏症の第十四王子の調子はどうですか?以前気にしていたでしょう。次代勇者についても何か分かったことは?」
一気に二つの質問をしてきたアルノに、エルスは感情を隠すのが下手だと苦笑してから一つずつ答える。
「第十四王子は…フランはね、相変わらず城の居心地が悪いみたいだよ。黒髪に黒目が基本の王族で白い髪と赤い目で産まれてきたんだ…その負い目もあるだろうし、周囲で世話をしている者達も無駄に気を遣っていてね。」
そこまで話すと、エルスはフラン本人を思い浮かべ視線を下げた。
「まあ、あれは将来毒にも薬にもならない男に育つだろうと思ってるよ。」
「そうですか…少し残念ですね。」
聞いているととげとげしい言葉に聞こえるが、他者に関して率直な意見を言えるのはエルスの良いところだとアルノは尊敬している。自分の腹違いの弟の境遇や将来を悲しんでくれる優しい友人に一つ笑いかけてから、エルスは次の質問への答えを返す。
「あと、次代勇者についてだっけ?それも変わらず情報は無いよ。」
実は、アルノの次に勇者になるべき者がまだ見つかっていないのだ。勇者は産まれた直後、へその緒から流れる黒い血でそれと分かるもので、我が子が勇者ならば国へ申告 し受け渡さなければならない。しかしながら、それを悲しむ親が大半を占める。勇者の寿命が短いのは魔王の討伐が原因と信じられているからである。そして王国も勇者の短命の理由を解明できておらず、その噂を否定出来ずにいる。そのため、他者の目の無いところで勇者を産んだ親がそれを隠蔽する、という事例は過去にもあった。
「父上は危惧しておられるが…またそろそろ新たな勇者が産まれるだろうから、俺はそれほど問題視していないよ。」
「それもそうですね。まだ俺がいますし。」
「頼りになることだ。お前は賢いからな。」
王子のお褒めの言葉にアルノが照れたように目を伏せたところで、エルスを呼ぶ側付きの声が届いた。彼はまだ王ではないものの、既に王の執務を手伝っており、おそらくその時間になったのだろう。二人はいつもの友人同士の礼で別れを告げ、それぞれ自室へと戻っていった。
魔王城の中庭で、ソルはシャルの幻覚魔法の練習の相手をしていた。羽を隠し、髪の色を変えるところまでできたところで、少し休憩にしましょうか、というとシャルはその場にパタリと倒れた。
「王!?」
「ああー…髪の色を変えるだけでこんなに疲れるなんて…。」
「ああなんだ、気疲れしただけですか…それでも苦手だったにしてはすごい成長速度ですよ。」
主を心配して駆け寄るも気の抜けた声に安心したソルは、地面に寝転ぶシャルの隣に胡坐をかいた。その膝はゆらゆらと僅かに揺れている。なんだか今の彼は全体的にそわそわしていて落ち着きがない。その様子にシャルは眉根を寄せるも、まあいいかと雲が筋を残す空を見上げた。
「…」
「…」
あれ?シャルは形をとらない雲を眺め和んでいた顔を再び固める。静かだ。分かりやすく言おう。会話がない。つーんと二体の間を吹き抜ける冷たいような熱いような空気が、シャルの心をざわめかせた。何だこの空気。何だこの空気。もう一度言おう。何なんだこの空気は。
魔王は思考した。自分は何か従者の気に障ることをしただろうか、と。しいて言うのならソルはシャルの髪の色を気に入っているようだったからそれを一時的にでも変えたことが思い当たったが、修練の為なのだから仕方ない。まさかそんなことでこんな堅苦しい空気を垂れ流すことはないだろう。
必死に脳を回転させるシャルの耳に、小さな声が届いた。
「…シャル様。」
「んー?…うん !!?」
ぐるぐると様々な可能性を巡らせていた頭は、一瞬ことの重大さを見落とした。
「も、」
「も?」
「もっかい!!シャルって呼んで、もう一回!」
そう、守護者ソルアルフィーは今まで一度も魔王の名前を呼んだことがなかった。気恥ずかしいというのもあったが、あまりにあっさりともう一人の守護者に先を越されてしまったため呼ぶタイミングを見失っていたのだ。そんな彼にとって二人での静かな休憩は絶好のチャンス。彼の多すぎる肺活量で目いっぱいの深呼吸をした結果、あの堅苦しい空気が出来上がっていたのであった。
「…シャルスティエルアドレーゲンタルクエシタリアカーデ様。」
「やだ、フルネーム覚えてくれてたの、我嬉しい。」
「当然です。…さ、そろそろ続きをやりましょうよ。次は顔の見た目を変える練習ですよ、シャル様!」
「ええー?もう少し休もうよ。」
赤くなった顔を隠すように立ち上がる守護者に、魔王は口では文句を垂れながらも楽しそうに目を細め立ち上がった。