8.幻覚魔法は重要ですか
王は思案に暮れていた。八代目の討伐に失敗し戻ってきた者達の言うことには、魔王は人族に対し怒りをおぼえている風ではなかったという。それよりも、頭の狂った発言が目立ったとの報告を受けた。魔王が怒っていないということはローラスにとって朗報であったが、同時に何故魔人達の反応が魔王が現れると同時に掻き消えたのかの謎が闇の中に隠れてしまった気がして、彼は頭を抱える。
魔人は魔王の眷属であるから、魔王が殺すことなど普通に考えてあり得ないのだ。それなのに、魔王は恐らく魔人達を殺した。これはどういうことなのか。もしや歴代の王国民の認識が間違っているのではないか。自分が先王に倣ってやってきた魔王討伐という所業は、実はとんでもない愚行だったのではないか。
勇者達からの報告を受け、少しは気を確かに持つかと思えば余計に悩みこんでしまった王を見て、イニヌアーレも途方に暮れていた。王の心の中で負の連鎖が生じている、そのことだけは彼の様子を見ていれば理解できたイニヌアーレは、まずはお心を聞かせていただこうと勇気を振り絞って王に声をかけた。
「王よ、今貴方が何をお考えなのか、どうかこのイニヌアーレに聞かせてはいただけませぬか。」
「…イニヌアーレ。」
先ほどからずっと執務机の木目を見つめていた視線が、ようやくイニヌアーレの瞳を捉える。しかし顔を上げても一向に喋ろうとしない王に、イニヌアーレは少し焦れつつも王が口を開くのを待った。ローラスの視線が緑の瞳から謁見の間へ繋がる扉へ、そして再び緑色へとゆっくりと移動した後、彼はそうだな、と少し肩を下げた。
「一人で背負い込んでいて良かったことなど一度もない。余の話を聞いてくれるか、イニヌアーレ。」
「はっ。私にできることなどたかが知れておりますが、王のお心を知りたいと存じます。」
胸に手を当て軽く頭を下げながらそう言うイニヌアーレに、王は良い側近を持ったと僅かに笑んでから語り始めた。
「余は先代の王たちに倣い、勇者に頼った魔王討伐を続けてきた。魔王討伐に成功すればその評価が国力に繋がり、王国民はより豊かな暮らしができる。更には神のご加護も賜われる。国民の為であると思えば、そこに迷いはなかったはずだった。」
このことはローラスが再三イニヌアーレに語ってきた内容だ。彼はいついかなるときも国民の暮らしを第一に考えた選択をし、王城での暮らしはこの国より貧しい国の王城でのそれよりも質素であった。ローラスが王になった頃からは平民にまで城に入り要望を王に伝える機会を与えたため城内の様子は国中に知れ、王国民は現国王に絶対的な信頼を寄せている。
改めて目の前の王の素晴らしさに胸の内で小さく感動するイニヌアーレの耳に、ローラスのしかし、という薄暗い声が届いた。
「しかし…今代の魔王は魔人を殺したと思われる。考えてみれば魔人は魔王の死後、かつ次代の魔王が産まれる前までしか現れなかったのだ。もし…もしだぞ、魔人どもが魔王の眷属でなかったなら?もし、魔王が人族を魔人から守ったのだとしたら、王国が過去に繰り返した所業は…」
そこで言葉を途切れさせたローラスに、イニヌアーレは一瞬の思考の後はっと目を見開いた。その顔からはどんどん血の気が引いていく。普段であれば王の聡明な考えに感銘を打たれていたであろうが、今回は話の規模が違う。ローラスも、自分達が恩人に対し仇を返し続けていたという可能性に思い至ったのだ。
「イニヌアーレ…余のしていることは、正しいのであろうか…。」
「…まず…そのようなことを王お一人に抱えさせてしまった無能をお許しください。」
何を言うべきか迷っているものの、まずは何か話さなければ王のお心は重くなる一方だと判断したイニヌアーレ。脳内で王の言葉に対する回答を探す間彼はそんな使い古された謝罪で時間稼ぎをし、今度はおおかた纏まった意見を進言するべく口を開いた。
「王のしておられることが正しかろうとそうでなかろうと、今魔王討伐を急遽中止するのは得策ではないかと。」
「それは何故だ?」
「世論でございます。大々的に公表している魔王討伐を中止するのであれば、その理由を国民に示さねばなりますまい。ここで本当の理由を言ってしまえば国民は我らの業を憎むことになりかねません。かといって嘘の理由を言うとしてもねつ造が難しく、更には本当の理由が漏れてしまうのは時間の問題です。」
なるほど、と頷いたローラスの顔色は、先ほどより良くなっている。
「ですから、ここは慎重に動かねばなりません。今代の魔王は狂っているとの報告もありましたから、ひとまず討伐の中止はせず、今代が討たれるまでの間に策を練るのが得策かと、愚考いたします。」
「なるほど。よかろう。では、このことはくれぐれも内密に。余とお前でよくよく熟考してから他の者に伝えるとしよう。」
「はっ。」
その表情に普段のたくましさを少し戻した王に、イニヌアーレはほっとしたような、喜ばしいような気持ちで返事をした。
国王と聖人が重すぎる話をしている頃、魔王は溶け菓子屋のお兄さんと談笑していた。
「はい、溶け菓子六箱で九百バルド…だけど、お嬢ちゃんがお顔を見せてくれたら八百バルドにまけちゃおうかな。」
「やだー!きゅうひゃくバルドでいい!」
「えー ?そんなに可愛い声のお嬢ちゃんのお顔を見てみたいんだけどなあ。」
ローブを目深に被り顔を全て隠したシャルと、その顔を見てみたいと言い募る店員。そのやりとりを後ろで眺めるルナは正直店員に若干苛ついていたが、シャルが楽しそうなので気にしないことにした。ひらりはらりと店員の手を躱しつつ九百バルドを台に置き、商品をかっさらったシャルがばいばいと手を振りながら店から遠ざかるのを見てルナもそれに続く。
最初はエラルデについて来てもらっていたものの、王国語に慣れてきてルナと二体でも大丈夫だと判断したシャルによってエラルデは任から解放された。二体だけで都市へ来たのは今日で三回目だ。今日も今日とて全身ローブの怪しげな姿なのは、シャルが幻覚魔法が苦手 で克服する気もないからである。
『王国語には「ロリコン」という単語があるっていうけど、ああいった者のことを言うのかな。』
シャルのことを少し名残惜しそうに見送る店員から視線を前に戻したシャルが、不意にそんなことを言う。らりこん?と首をかしげるルナに、シャルが単語の説明をしようとした、その時。
「ひったくり!!!!」
と、女性の悲痛な叫び声が辺りに響いた。偶然近くを警備していた騎士団が人混みを掻き分けてこちらへ来るのを見て、ルナは危機を感じてシャルを抱えて逃げようとする、が。
『お嬢、失礼しま…』
「どけッ!!」
『わ!』
ルナの手がシャルを掬い上げる直前、人々を押しのけながら逃走するひったくりの犯人がシャルに体当たりをした。 シャルのローブのフードが落ち白い髪がさらさらと舞い降りるのが、ルナにはスローモーションで見えた。もちろん綺麗な髪だなあなんていう単調な感動ではなく、しまった、という焦りからだ。
シャルを抱き上げる際に両手を使ったルナにそれを防ぐ術はなく、シャル自身も突然ぶつかられ持ち上げられた驚きで咄嗟に動くことができない。ルナの、引っかかって止まれと念じた願いも虚しく青空に消え、シャルの相貌はひったくりを追っていた騎士団員に丸見えになってしまった。
「おいあれ、白い髪に薄いヘーゼルの瞳…!」
「魔王じゃないか!?」
「魔王だって!?」
「いやあああ!どうして魔王がこんなところにッ!!」
『あ。あーー…。』
自分が魔王であるとバレてしまい騒然となる周囲に、状況に似合わない腑抜けた声を出しルナを見上げるシャル。そんな主に若干の呆れの視線をプレゼントしてから、ルナはシャルを抱えたまま混乱する街道から逃げ去る体制に入る。
「待て!!おい、捕まえろ!お前は援護を呼んで来い!」
「はい!」
見回りをしていた騎士団員のまとめ役らしき男が指示を飛ばすと、団員たちがこちらへ向かって来る。シャルは再びフードを深く被りなおしたが、それでも怪しい恰好ということで目立ってしまい彼らが二体を見失うことは無い。
更に、魔王がいるということで混乱しもみくちゃになっている人々の合間を縫って進むのは初心者にとっては至難の業であり、逆に慣れている騎士団員にとってはお手の物。団員達と二人との間はみるみるつめられていく。ルナが思わず鋭い舌打ちをしたとき、シャルが彼のローブをくいくいと引っ張った。
『こんなときになんですか、お嬢!』
『いやね、降ろしてもらったほうが動きやすいのではと思ってさ。』
『……あ…。』
主の言葉に表情だけ固めたまま進んでいたルナだったが、確かに自分も突然の事態に混乱していたとシャルを素早く地面に降ろし、その手を握った。
『ルナちゃん、屋根伝手に逃げようか。』
『…確かに、その方が逃げやすいっすね。』
自分がどれだけ混乱していたか思い知り苦い顔をするルナと、そんな彼をくすりと笑い面白いものを見る目で見るシャルが同時に地面を蹴る。小さく土埃を起こしながら屋根に跳び乗った二体の後ろから、民衆の叫び声と騎士団員の待てという声が聞こえた。誰が待つかと、人族の煽りの代表格たるあかんべえのポーズをしてみせてから、シャルはルナの手を引き次の屋根へと飛び移る。
『ふっっ…ふふふふふふ。』
『何すか、気色悪いですね。』
屋根から屋根へと飛び移るその最中に堪えきれないといった風に笑い出したシャル。それにローブの下で眉根を寄せて見るルナが文句を言うと、シャルは更に深い笑みを含んだ声で返事をした。
『たのしい!』
二体の移動スピードに耐え切れなったフードが外れ、その下から現れた楽しいを絵にかいたような顔にルナは目を見開く。楽しそうにしているとは思ったものの、ここまでの笑顔を浮かべているとは思わなかったのだ。そんな予想外に思わず絆され、同じくフードが外れ日に晒された唇に柔らかな笑みを乗せたルナは、シャルの手を引きつつ前…魔領のある方向を見た。
『ま、帰ったらお説教が待ってますから、それまで存分にお楽しみくださいね。』
『助けてくれないのか薄情者。』
『薄情者で結構。ちったぁ反省してくださいよ。』
そんな軽口をたたきつつ魔領へと急ぐ道のりは、二人にとってとても楽しいものだった。
そう、帰るまでの道のりは本当に楽しかったのである。
「…で、ご予定より早く帰られた、と。」
「あい…。」
しかし、早い帰りの理由を聞いた瞬間無表情の面を乗せた二体と一柱の様子は、そんな楽しい気分など一吹きで散らしてしまった。シャルはちらりとルナの方を見るが、どうやら彼もお怒りの対象らしく居心地の悪そう な顔をしていて助けを求められる状況ではなさそうだ。
「はあ…次からはもっと気を付けて行動していただきたいですね。」
どんなお小言が待っているのだろうと身構えていた二体に、ルダーはあっさり許しを宣告した。ソルとエラルデもルダーの言葉に同意だとばかりに頷いているのを見て、シャルとルナはぽかんと口を開けた。
「…怒らないの?」
「いつかこういった事態が起こることは予測しておりましたので。何も予想せずに事件をただただ待つというのは率直に申し上げて怖すぎますが、予測できているならばそれほどでもありません。」
「もう都市に行くのは禁止とか、言わないの…?」
「そう頼んでも貴女は隙を見て行くでしょう。ルナグジアも共謀しそうですし。」
恐る恐る聞くシャルに淡々と返すルダー。どうやら彼らは、いつか問題を起こすであろうと理解した上で、シャルが都市へ繰り出すのを見送っていたらしい。彼らの寛大さ、自分に対する優しさを知ったシャルは、嬉しくなると同時に深く反省した。
「幻覚魔法使います…。」
「幻覚魔法は苦手ではありませんでしたか?」
「修練で重点的にやるから…。」
飼い主に怒られたペットのように羽を項垂れさせるシャルに色濃い反省を見たルダーは、ふっと微笑んで承諾の意を示した。
「ソルアルフィーは幻覚魔法に長けております。彼に相手をしてもらうと良いでしょう。」
「!…うん…うんっ、ありがとうルーちゃん。ソルちゃんにエラルデも。」
初めて 見たルダーの優しい笑みに一瞬驚いた顔をしたシャルだったが、感謝の気持ちを伝えることは忘れない。幻術魔法をなんとしても克服せねばと意気込むシャルを、その場の者達が情愛を込めた眼差しで見つめた。