16.和平の証と不和の音
和平会合。それは過去に起こった悲惨な宗教大戦に終止符を打った協定が未だ制約力を持つことを示すための会合である。今年の主催国はウーダ帝国であり、皇帝の住まう城が会合の場に指定されていた。
会合は何ら問題なく終わり、その後城の大広間では例年と変わらず舞踏会が開催されている。その片隅で、白髪の少年が俯き気味に佇んでいた。アウデンバルド王国の第十四王子、フラン・アウデンバルドである。彼はこういった場は苦手なのだが、この舞踏会には各国の王族は喋れる歳の者は全て招待され、参加を拒否すれば猜疑の目で見られる為本人の意思とは関係なく出席せざるを得なかった。
ああ、早くこんな時間は終わらないかと、くるくると異国の姫とダンスをする第一王子をぼんやりと見上げるフラン。彼の無限に周回する思考を終わらせたのは、隣国の皇帝の側近、ガトリー・ロビンソンであった。
「王国の第十四王子様であらせられますね。お初にお目にかかります、私はウーダ帝国の皇帝側近、ガトリー・ロビンソンです。」
「え…はい、フラン・アウデンバルドと申します。この度はお招きいただきまして感謝いたします。」
「こちらこそご来場いただき誠にありがとうございます。」
少しの帝国語訛りの混じった敬語。皇帝の側近が、何故自分なんかに話しかけたのか、その真意を測りかね困惑しながらも、フランは礼節通りの挨拶を交わす。老人の目はぎょろりと浮き出て、そこに宿る光が彼の意思を隠さんとしているように見えた。
「このような場所は苦手でおられると聞き及んでおります。どうです、バルコニーに出て外の風に当たりながら、少しばかりお話など。」
この老人の目つきはどこか恐ろしい。自分を政治的な目的で利用しようとしているのかもしれないということだけは、幼いフランにも理解できた。しかし、気を抜けば胃液を戻してしまいそうな緊張感の中過ごすよりは幾分かましだろうと、フランはその誘いに乗ることにした。
人々の吐くお世辞の息が苦しい広間からバルコニーに出ると、フランは少しだけ先ほどより深く息が吸えた気がした。しかしそれも、先導していたガトリーが振り向いたことによってまた押さえつけられることになる。老人の目から視線を少し下ろし、フランは彼の言葉を待った。
「フラン様は、王国では随分と息苦しい扱いを受けていると聞き及んでおります。」
聞き手によっては不敬ととられる発言に、フランは驚きをあらわにした。周辺諸国では周知の事実ではあるものの、面と向かって言ってきた猛者は今までいなかったのだからその驚きも当然というものだ。小さく息を飲みこんだ後にこくりと頷くと、目の前の老人は頬骨を浮かせた。
「そのような綺麗な髪と瞳をお持ちなのだから、我が国でありましたら神の御子が降臨なさったと大層喜びますのに。」
先ほどとは打って変わって優しい声色、笑み、雰囲気。何もかもを変えて見せた老人は、一瞬前の印象との差異も相まってフランの目には聖人…もしくは神のように映った。
「そんな…恐れ多いです。」
「そのようなことはございません。貴方の持つ物は何もかも、本当に美しい。」
「美しくなど…。」
「いいえ…私は本心からそう思うのです。貴方が我が国に産まれてくださっていればと、こうして貴方をお見掛けする度に思わずにはいられません。」
口では否定に近い言葉を述べるものの、まだ十歳に満たない年齢のフランにはガトリーの言葉は甘すぎた。彼はみるみるうちに老人の甘美な言葉に陥落していく。その様はまるで洗脳されているかのようであった。いや、実際にフランはガトリーに洗脳されてたのかもしれない。
「私は心から貴方様のお力になりたいと思うのです…ですが私は皇帝の側近を務める身、フラン様のお傍にいることは叶いません。」
「はい…。」
どこか寂しそうにガトリーの顔から視線を下げたフランは、老人の口角が更につり上がった瞬間を見逃した。
「ですがせめて、せめて何かあった際にお助けできるよう…こちらを渡しておきたく、このような場所までお呼びした次第でありまして。」
そうガトリーが懐から取り出したのは、小さな手鏡のようなもの…念話鏡という魔法道具。この道具は対で作られ、その片割れとはどれだけ距離があっても映像付きで会話ができるという高価な魔法道具だ。こんな貴重な道具を自分などに預けても良いのかと念話鏡を見て、それからガトリーの灰色の瞳を見上げたフランは、もうその眼差しに慈愛の念しか見ることができなかった。
「こんな貴重な物を…本当に、良いのですか?」
「貴方様の為と思えばこれくらい、安いものです。」
「……では、頂戴します。」
濁ったグレーを透き通った色に映すフランの脳は、既に拒否するという選択肢を捨てていた。最後にありがとうございますと呟き、フランは念話鏡を大事そうに抱きしめた。
時刻は少し戻って和平会合が行われていた頃の帝国西部。そこに建つ古い図書館では、シャルが皿を目のようにして歴史書を読みふけっていた。間違った。目を皿のようにして歴史書を読みふけっていた。あまりに目を皿のようにしていたので間違えた。
「お嬢、これで持ち出ししないの図書、全部です。」
「ん、ありがと。」
ここは旧セル共和国領に建つ、世界で最も古いとされる図書館である。宗教戦争の際に帝国に取り込まれてしまったものの最も古くに建国された国、セル共和国。そこに現存する図書にシャルが興味を持つのは当然であった。
机にどさりと本の山を置くルナに軽く礼を言いながらも、シャルの目は文字の羅列を離れない。古い文字を読みやすく改変した図書とはいえ、言い回しはやはり分かりにくく目を離す隙が無いのだ。それでもぱらりぱらりと異常な速度でページをめくるシャルは、朝からこの手の文章を読み続けていたことで大分文体に慣れてきていた。
シャルはこの日、実に九時間を図書館で過ごした。
神歴0年 セル共和国建国。神に祝福されし人類史上初の国家。
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神歴〇〇年 初の魔王討伐に成功。神はきっと人族の進歩に驚かれている。
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神歴〇〇年 天使様よりお告げを賜る。来年は凶作であるから貯蓄せよとのこと。
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神暦〇〇年 アウデンバルド王国建国。
神暦〇〇年アウデンバルド王国との国交を樹立。
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神歴〇〇〇年 ウーダ帝国建国。
ウーダ帝国との国交を樹立。
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神歴〇〇〇年 港町××で魔薬が蔓延。廃人と化す者が増え始めた。早急に対処せねばならない。
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神歴〇〇〇年 アウデンバルド王国、ウーダ帝国、……国との国交が崩壊。彼らは偽りの神を信じている。原初である我らが正さねばならない。
神歴〇〇〇年 宗教大戦開始。我らが神は勝利をもたらすであろう。
「っ、んんーー。」
伸びをしてパキパキと鳴る背中に快感を覚えながらも、シャルの心は残念な気持ちに覆われていた。そうかもしれないと予想はしていたものの、王国を守るために役立つ情報は得られなかったのだ。図書館に来る前に聖地カーゴトリムにも立ち寄ってはみたものの、そこにも取り立ててシャルが見たいものはなかった。しかし歴史書を作る為に有益な情報…共和国が存在した頃の王国との友好関係などは分かったから良しとしよう、とシャルは力を抜き逸らせていた背骨を反対側に曲げた。
「おつかれさまです。」
机に頬をつけ座骨に手をやるシャルの頭をさらりと撫でるルナ。シャルはその大きな手がお気に入りだった。猫のように目を細めるシャルに、ルナは嬉しそうに笑いつつ頭を撫で続ける。
「…そろそろ宿へ行こうか。」
「はい。お嬢は疲れている。今日、夜はたくさん寝ましょう。」
「そうするよ、ありがとう。本当はもう少し撫でてもらっていたいけど。」
「宿でいくらでも。」
少し名残惜しそうにシャルの頭から手を離したルナは、シャルが最後に読んだ本を掬い上げ返そうとつま先の方向を変える。
「あ、ちょっと待って。」
「?」
が、ルナの手元をふわりと見上げたシャルがそれに待ったをかけた。シャルはルナの右手から本を引き抜くと、その背表紙に描かれている五柱の天使らしきものの一柱を指差した。
「この手前右側の“天使”、エラルデに似てない?」
「言われてみれば…。」
ふわふわとカールする金髪に人差し指を添わせながら、シャルはエラルデへの土産話ができたと笑った。
思ってたより聖地さらっと流しちゃいました忘れてたわけじゃありません、決して違いますともええ。