79 深夜の訪問者
その日は、楽しく終わると思っていた。ところがその日の深夜、私のいる客間の扉が乱暴に叩かれる。
私は眠りを妨げられて、不機嫌に目をこすった。
「ん……、何事かしら? ミーシャ……」
修道院の客間には侍女用の控えの間はなくて、代わりに来客者ベッドのそばに小さなベッドがある。そこには、酒に酔ってガーガーといびきをかき、お腹をぽりぽりと掻いているミーシャがいた。ミーシャにとって初めてだったというお酒は、楽しい夢を見せているようで、「お嬢様……」と言いながらだらしない笑顔を浮かべている。飲んだのがリンドウラ・エリクシルなので、明日の朝は普段よりもすっきりとした気持ちで目が覚めるだろう。
私はため息を一つつくと、ベッドから抜け出して、重い扉を開けた。
「アリーシア先輩?」
そこには夜中だというのに、しっかりと修道女見習いの制服を着こみ、緊張した様子のアリーシア先輩がいた。エメラルドグリーンの蛇型魔物、従魔のリフも襟元から首を出し、長い舌をチロチロとさせていた。アリーシア先輩は、私の顔を見ると、崩れるようにほっと力を抜いた。
「ユリアさん。 あなたは大丈夫だったのね。よかったわ」
アリーシア先輩は何か私のことを心配していたようだ。何かあっただろうか? 私は困惑しながら、先輩に尋ねた。
「先輩……、こんな夜更けにいったいどうしたんですか?」
「ううん、無事ならいいの。あ……、ねえユリアさんも貴族なら魔力回復ポーションは持っていない?」
魔力回復ポーションは魔力を持つ貴族なら緊急時に備えて持っていることも多いが、私は自分で調合するには材料が足りなくてまだ作っていなかったし、味と臭いを考えると市販のものを飲む気には到底なれずにいた。
「申し訳ありませんが、持っていませんわ」
「……そう。お休みのところを邪魔して申し訳なかったわ。それじゃ!」
「え? いったい何があったかだけでもご説明ください」
急いでどこかへ走り戻ろうとしていたアリーシア先輩は、ピタッと足を止めた。そういえば、修道院の中が深夜だというのにざわざわとしている。私に向き直ったアリーシア先輩は、再び固い表情をしている。
「そうね。ごめんなさい。あなたにも警告しておかなきゃ……」
「警告?」
「ええ。この修道院で『食中毒』が発生したみたいなの。もう何十人もの人が吐き気や下痢で倒れているわ。中には高熱を出してけいれんを起こしている人がいるくらいよ。どうも、お祭りの時に悪くなったものが含まれていたようなの。具合の悪い人は大食堂に集められているわ。元気な人はその看病をしているの。ユリアさんも、侍女さんも、もし具合が悪くなったら、すぐに人を呼んでね」
なるほど、客である私の具合を気にしてアリーシア先輩は部屋を訪ねてくれたのだろう。
部屋の中のベッドで、のんきな寝顔のミーシャをチラリと見る。私にも、ミーシャにも症状は全くない。
「そうですか……。でも修道院なら治癒魔法を使える人がたくさんいますもの。すぐに回復しますわね」
アリーシア先輩は、答えるのに躊躇しているようだった。
「どうしたんですか? アリーシア先輩?」
「その……院長も他の治癒魔法を使える人も食中毒に倒れてしまったの。その中で一番症状が重いのはクラリッサ様よ」
「院長や、他の人も……。ということは何人が今、治癒魔法を使えるんですか?」
アリーシア先輩はさらに答えづらそうにつぶやいた。
「……だけなの……」
「え? 誰だけですって?」
一度伏せた目を、弱々しく上げて私と目を合わせ、おののいたようにまたすぐに目を伏せてアリーシア先輩は答えた。
「私……だけなの。無事なのは」
「…………」
私も思わず絶句してしまった。二十人ほどの教会籍のうち、治癒魔法を使えるのは十人ほどいると聞いていた。さらに『三人の聖女』は他の治癒魔法の使い手よりも魔力が多いとも。それなのに、無事なのはアリーシア先輩だけ……。いくら魔力が豊富だとはいっても、まだ学生のアリーシア先輩は、少しの魔力で十分な効果を引き出せるような効率のいい魔法の使い方をできるとは思えない。
「それで、先輩はどれくらいの回数、治癒魔法を使えるのですか?」
「……普通なら五回。でも……昼間にリンドウラ・エリクシルの仕上げに魔力を使ったし、それに院長とクラリッサ様にも治癒魔法を使ったから、残りあと一回くらいしか……」
アリーシア先輩は気が付いていないようだが、秘匿しなくてはいけないリンドウラ・エリクシルの仕上げについて、魔力が必要なことを漏らしてしまっている。
私とて、クラリッサ様のリンドウラ・エリクシルの話を聞いた後では、そのレシピ、それも三百年前の原型の方のレシピに薬師として興味を引かれる。作り方を知りたくてうずうずしている。なにせ伝説の薬、エリクサーまであと一歩というところまでたどり着いた薬なのだ。犯罪を犯してまでも、そのレシピを手に入れたいという薬師もいるだろう。
とはいえ、今はそんな場合ではない。あと一回……。
「その一回使ったらアリーシア先輩は魔力切れになるのですね?」
「ええ……」
私も盗賊騒ぎの時に、魔力切れになったことがある。魔力が切れた瞬間にはひどい苦痛を感じ、その後、気を失ってしまった。魔力が少ない私でさえ、魔力が回復して気が付くまで丸一日かかったのに、魔力の多いアリーシア先輩が魔力切れを起こしたのならいったい何日眠りについてしまうか分かりはしない。
「魔力回復ポーションは、修道院に常備されていないのですか? 私は持っていませんが、貴族や教会籍の方はいざという時のために、備えているものですが……」
「実は、昼間のリンドウラ・エリクシルの仕上げの時に、私が不注意で魔力を暴走させてしまったの。それを抑えるのにみんなが魔力を限界まで使ってしまって、備蓄していた魔力回復ポーションを全部使ってしまったのよ。ユリアさんに治癒魔法をかけるのを明日にしたいって院長が言っていたでしょ? いつもなら仕上げをした後でも院長なら治癒魔法を一回くらいかけても問題ないと思うんだけれど、私のせいで……。だからなのか、私が治癒魔法をかけても、まだ意識が戻らないの。院長も、クラリッサ様も……」
「そうだったのですか……」
それはそうだ。常備されたものがあるなら、わざわざ私に聞いたりはしなかっただろう。
アリーシア先輩は、自責の念にかられて身を小さくしてうつむいている。従魔のリフは、先が二股に分かれた舌で、励ますようにアリーシア先輩の頬を舐めた。
「ところで、治癒魔法じゃないとしたら、病人の治療はどうやっているのですか?」
「ああ……それは、修道院の薬師が治療に当たっているのよ。食中毒って診断したのも彼女だわ」
「『修道院の薬師』?」
「ええ。ここは小さな村くらいの人数が住んでいるんですもの。いくら治癒魔法が使える人がいるとはいっても、薬師くらいいるわよ」
そう、治癒魔法は、病気でも怪我でもなんでも治してしまう強力な魔法だが、膨大な魔力を持っていても魔力消費量が多く、アリーシア先輩のように回数制限がある。その点、薬ならば作ってしまえば多くの人を助けられる。だからこんなに人が大勢住んでいる場所に、薬師がいるのは当然かもしれないが……。
私の記憶では、院長だったクラリッサ様は薬師が大嫌いだった。だから当然、薬師は前の人生では修道院にはいなかった。いろいろと符合しない事が多くて、頭がくらくらする。
「私は魔力回復ポーションの手持ちはありませんが、確か、クラリッサ様が庭の宿坊に商隊が来ていると言っていたはずです。どんな商会かは分かりませんが、もしかしたら魔力回復ポーションを持っているかもしれません」
アリーシア先輩はパッと顔を上げた。
「そうね。思いつかなかったわ。ありがとう。私、商隊のところに行ってくるわ」
「お待ちください。私も行きます」
「ユリアさんも? ユリアさんは、お部屋で休んでいてもいいのよ」
私は首を振った。
「もし商隊が持っていなかった場合、私の護衛に魔力回復ポーションを買って来るように指示を出しましょう。そのためにも私も庭の宿坊に行きますわ」
アリーシア先輩は、うるんだ目の端を下げた。
「あ……ありが……とう」
従魔のリフもお礼を言うように鎌首を下げた。リフは体は小さいが、知性の高そうな魔物のようだ。
すぐに走り出そうとしていた先輩を引き留めた。
部屋に戻って、ミーシャの額を一回叩いたが、寝たままニヘラと笑うだけだ。
「これはいらないわね」
私はもう一度、ミーシャの額をペシっと叩き、自分の薬箱を手にアリーシア先輩と走り出した。