73 分水嶺の修道院
背中に高く険しい山から湧き出る水が大きな湖を作り、その湖からは二つの川が流れ出ていた。西へ流れる川はオルシーニの領地を通り抜け、王都へとつながっている。そして東に流れる川は、海に通じ、その近くに私が過ごした森の家があった。
こういう水が一つの場所から異なる方向に流れる境界のことを分水嶺というそうだ。まさに前の人生においても、ここが貴族の私と平民の私との分かれ道だった。
「これから行く修道院はどんな所なんですか? なんでも前の人生でお嬢様が逃げ出したと聞いていますけど、そんなに酷い所なんですか?」
今朝にはすっかり体調の良くなったミーシャが、窓の外を気にしながら私に聞いてきた。
「酷いというか……。今となってみればよく分からないの」
「『分からない』ですか?」
ミーシャは、私の返事に首を傾けた。
「ええ。確かに、前は刑務所としても使われていた修道院の建物は、すごく堅牢で、雰囲気も暗くて重いのよ。でもそのおかげで、女性ばかりだからと簡単な獲物を狙うように、この修道院を狙う盗賊もいなくて安全だったわ」
「刑務所ですか……」
今は治安のいいこの国も、昔は度々戦争もあり、この辺りも脱走兵崩れの盗賊が跋扈して荒んでいたそうだ。
盗賊を捕まえると貴族当主か、その権限を一部委任された代官が捕らえた盗賊を裁判にかけ、最も重い死刑から、最も軽い罰金刑まで様々な量刑を決定した。それは今も変わらないが、二百年前までは禁固刑という刑罰が多く下っていた。牢に閉じ込めておくだけの刑だ。生活費を実家から出すことができる貴族や、裕福な家の者ならいざ知らず、生活に困って盗賊になったような受刑者へは扱いが悪く、最低限の生活だったという。しかし、いくら最低限であろうとも、人を監禁しておくには莫大な経費がかかるため、しだいに禁固刑の代わりに強制労働というように刑の形を変えた。そうして使われなくなった刑務所を再利用したのが、その修道院だ。
「その修道院には百人近くが住んでいるの。その中で修道女や修道女見習いで二十人程かしらね?残りは下働きよ。『前の人生』の話だから、今はどうか分からないけれど」
「そんなに!」
ミーシャは目を丸くした。王都の教会本部ならいざ知らず、比較的大きな街であるオルシーニの街の教会でさえ下働きを含めて三十人程度だ。そのうち、司祭や修道士、修道女やその見習いなど教会籍にある人は五人しかいない。それに比べると、こんな山奥の修道院にこれだけ多くの人数がいるというのは異様なことだった。
教会籍にあるというのは、それなりの特権がある。教会の豊かな資金に生活を支えられ、納税の義務はなく、治外法権を持つ。修道士、修道女ともなれば村長、町長と同等の権力を持つ。見習いでさえ、教会では大事にされ、属する街では大きな顔ができるのだ。最高権力の大司教ともなれば、一国の王と同程度の権力を持っているそうだ。
教会籍に入りたいと思う者は多い。しかしそのためには、資格が必要となる。まず治癒魔法が使えれば、それだけで教会籍に入る事ができる。しかし治癒魔法が使えるかどうかは、血統によるものが大きいため、望んで得られるものではない。次に治癒魔法を使えない人でも、教会に大きな貢献をすれば教会籍を得ることはできる。ただし、それには魔力を持っていることが条件付けられている。要は最低でも貴族ということだ。しかし治癒魔法を持たない者は、教会籍に入れたとしてもその地位は死ぬまでそう高くないそうだ。
「お嬢様もその『修道女見習い』だったんですか?」
「いいえ。下働きだったの……」
私はうつむいた。あの日々を思い出したからだ。少ないとはいえ、魔力のある私ならば修道女見習いになって、修道院でも楽な生活ができると思っていた。でも私に用意されていた地位は、ただの下働きだった。魔力があるとはいえ、伯爵家から勘当され平民に落ちたからかもしれない。
「甘やかされた令嬢の私には修道院での生活は厳しかったわ。指導係からは『教育』という名の下で、人の何倍もの洗濯や芋の皮むきなんかを押し付けられたし。でも……そのおかげなのよね。修道院を逃げ出してから、酒場や宿屋での仕事になんとかありつけたのは……」
あの『教育』は、苛めに近いものがあった。修道院に住む百人近い人数分の芋剥きをさせられたり、他の人は湯で薄めるのに、私には手が切れるほど冷たい水で洗濯をさせられたり。そのくせ指導係は、修道女や見習いに、いかに自分が私の指導で苦労しているか、いかに自分が私に心広く接しているのに反抗的な態度を取られるかを大げさに伝えて、自分の評価だけを上げていた。私はそれに気が付いても、私の話など聞いてくれる人は誰もいなかった。ただひたすら与えられた仕事をこなすしかなかったのだ。
二年もそういう生活をしていれば、ただの貴族令嬢でしかなかった私もある程度は家事能力が身についた。
「確かに、令嬢のままでは市井で生きていけないですものね。私の好きな本にも元令嬢だった娼婦の話がありまして……。もしお嬢様がその主人公のようにあれやこれやされていたかもしれないと思うと……」
ミーシャは睫毛を伏せた。心配そうな顔をしているが、角度によるものかにやーっと口角が上がっているようにも見えた。
それにしても、娼婦になった元令嬢の物語……。
「ミーシャは、どんな本を読んでいるの? まさか……」
「あっ! ち、違います! そういう本じゃありません!」
そこまで深い意味で聞いたわけではないのに、しまったとばかりに、必死に否定するミーシャ。そうなの、そういう本なわけね……。
「良いのよ。人の好みはそれぞれだもの。まだ思春期なのだし、そういう事に興味があってもおかしくないわ。ふう、若いって良いわね……」
思わず空中を見上げる。なんだか頬がほてって、手で自分の顔をパタパタとあおぐ。
「だから、違いますってばあああ! それにそんなババ臭い事言わないで下さい! あ、お嬢様の中身は五十六歳でした!」
ミーシャは顔を真っ赤に染めて、じたばたしている。
「あまり濃い本は止めておくのよ。現実はそんなのばかりじゃないんですからね」
「そんなの読んでませんってば! それにお嬢様だって、男の人とお付き合いした事はないはずですよね。私と男女関係の知識はそう変わらないはずじゃないですか!」
「でも、酒場や宿屋で働くと男女のあれこれはいろいろと耳に入って来るものよ。それに薬師ですもの。男女の営みはないけれど出産に立ち会った事はあるわよ」
「え! そうなんですか? その話、詳しくお願いします!」
「ええっと、ひどい難産でね……」
「そっちじゃない方で!」
「……そっちじゃない方っていうと、やっぱり?」
「あ……」
湖が分水嶺であってもいいはず……。いいよね?