36 絶対に許さん
ヨーゼフのいる部屋に入る。
そんなに時間がかかっていなかったせいか、状況は先程と変わらなかった。
手にした気付け薬を握りしめた。
今にも死にそうなヨーゼフの顔を見て、また怖くなった。
どうしよう、これが効かなかったら。ヨーゼフの意識が戻らなかったら、このまま死んでしまうかもしれないわ。私なんかが作った薬が、本当にヨーゼフに効くの?
冷たく震えていた手が、ミーシャのぬくもりを思い出した。
『絶対に大丈夫です』
ミーシャの声が、頭の中でリフレインされる。
気付け薬の入った小瓶をぐっと握りしめた。
ええ、大丈夫。絶対に、大丈夫。
震える足をなんとか動かして、ヨーゼフの前に出た。
「アリスさん、ヘンゼフ、少しだけ私に時間を下さい」
「お嬢様?」
「心配しないで、ヨーゼフとお別れを言うためじゃないわ。反対に引き戻すためよ」
アリスさんとヘンゼフが、戸惑ったように前を開けてくれた。
顔色は紙のように白く、苦しそうな浅くて速い呼吸をしている。ヨーゼフは命を手放そうとしている。そう感じた。
ミーシャにしたように、小瓶の蓋を開けて鼻の下に持っていく。小瓶を左右に小さく振る。
……だめだわ。なんの反応もない。そんな……。
頭から血が引く、ざーーという音がした。地面がぐにゃぐにゃして、自分が立っているのか座っているのかも分からない。
ーーもう一度。
どこからか声が聞こえた。聞いたことがあるような、ないような男の人の声。その時、霧が晴れたような気分になった。
その声に導かれるように震える手をもう一度ヨーゼフの鼻の下に持っていく。
ピクリ。
ヨーゼフのまぶたが動いた。
もう一度、気付け薬をヨーゼフの鼻の下に持っていきながら、私は必死にヨーゼフに話しかけた。
「ヨーゼフ、ヨーゼフ聞こえる?私よ、ユリアよ。
お願い、行かないで!お祖父様のところに行かないで。そして私のところに帰ってきて!あなたがいないと、私、また泣くわ。ええ、絶対に泣くわよ!だから、お願い……戻ってきて!」
再びヨーゼフのまぶたが動いた。
ヨーゼフにこちらの声が届いた!
「また、まぶたが動いたわ!聞こえているのね、ヨーゼフ!あなたの帰りを待っている人は、他にもたくさんいるのよ!
アリスさんも、ヘンゼフも話しかけて!ヨーゼフを引き戻すのよ!」
慌ててアリスさんもヘンゼフも駆け寄る。
「父さん!せっかく一緒に暮らせるようになったんだから、どこにも行かないで!私に父さんの世話をさせて!父さん言っていたじゃない、家族で末永く幸せに暮らしてほしいって。私、父さんと、ヨーゼフ坊やと3人で一緒に末永く暮らしたいの。父さんが、普通の人みたいに、こんな病気で弱って死んじゃうなんて信じられないわ。ただの冗談なんでしょ?お願い帰ってきて!」
「じいちゃん!母さんが言っていたじいちゃんのナイフとフォークを投げる技を、俺に教えてくれよ!それに短剣の技も!じいちゃんと話ができるようになって、俺すごく楽しみにしていたんだ。なのに、じいちゃんの話も聞けないままじゃ嫌だよ。それに、俺、じいちゃんみたいな執事になりたいって思ってたんだ。なのに今の俺は、全然仕事出来なくて。じいちゃん、俺に執事の仕事を教えてくれよ」
再びヨーゼフのまぶたがぴくぴくと痙攣するように動いた。
「アリスさん、ヘンゼフ、その調子よ!なんでもいいからもっとヨーゼフに話しかけて!」
ヘンゼフは、ぐっと頷いた。そして少し照れたように、鼻の下に指を当ててスンっと鼻をすすった。
「じいちゃん、俺、好きな子が出来たんだ。すっごくきれいでいい香りのする女の子でさ。俺のことをあだ名なんかで呼んじゃって……なんか、いい感じなんだよ。じいちゃんにひ孫を見せてやる日も遠くないって思ってるんだ。じいちゃんが夢だって言ってくれた家族団らんに、人数が増えるんだぜ。だからさ……戻ってきてくれよ」
…………なんでもいいとは言ったけれど、そんな与太話をしろとは言っていない。その好きな子ってミーシャのことよね?
ミーシャがここにいなくて本当に良かった。
「ゆ………ん」
ヘンゼフの珍発言に思わず目が点になっていたが、はっとしてヨーゼフを見る。
ヨーゼフは、薄く目を開いてぼうっと視線をさまよわせたが、ヘンゼフを捕らえるなり焦点が定まった。
「じいちゃん!じいちゃん!気がついたのか!じいちゃん!」
再びヨーゼフの口が開く。唇が乾いてひび割れている。
「ぜ……に、ゆ……ん」
「じいちゃん、何?何がいいたいの?」
くわっと、ヨーゼフの目が見開いた!
「ぜっ……たい……に、ゆ……るさん!」
「えーーーーーーっ」
膝から崩れ落ちるヘンゼフを押しのけて、私がヨーゼフの手を取る。
「大丈夫よ。私も許さないわ。でもあなたもヘンゼフをちゃんと見張ってちょうだい。いいわね!だから、絶対に元気になってね!」
ヨーゼフは、ホッとしたように目を閉じた。心なしか顔色は良くなり、呼吸も落ち着いていた。
駆け寄った医者が、脈をとり、聴診器で胸の音を聞く。そして納得がいかないように、首を振った。
「予断は許しませんが、どうやら峠は超えたようです」
医師は胡乱そうな目で、私と私の小瓶を見た。
ただの強力な気付け薬ですが。何か?
ヨーゼフパートの本編部終了です。
次話で、ヨーゼフ視点での臨死体験から生還までを書きます♪