挿話 レオンとの思い出② ヨーゼフ視点
「ほぎゃあ!」
つんざくような赤子の泣き声に、その母親は少し離れた場所でぐったりとしていた。乳母がずっと抱いていたが、いっこうに赤子の疳の虫が納まらない。
母親は命じる。「ヨーゼフを呼びなさい」と。
何故かヨーゼフがその赤子を抱いて体を揺らすと、きゃっきゃと声を上げて笑うのだった。そして、安心したように、ぐっすりと腕の中で眠ってしまうのだった。そうすると、やれやれとばかりに母親であるアドリアーナも乳母もお茶や休憩に行ってしまう。子供部屋にはユリアとヨーゼフが二人残されるのが常だった。
「行ったか?」
「ええ、今はユリア様と私だけですよ」
ひょっこりとレオンが顔を出す。本当に、ユリアとヨーゼフが二人だけなのを見ると、大きな体を縮こませて部屋の端に身を滑らせた。
「こっちに来ればいいのに」
「わしはここでいい」
「まったく、旦那様は仕方ないですね。こちらに来て、ユリア様を間近でごらんになればいいのに。どうです?ユリア様は、かわいいというよりは美人なお顔立ちをしておられますよ」
「赤子の顔などみな同じであろう」
「馬鹿なこと言わないで下さい、赤子の顔が同じなわけないでしょうが。ほら、この意思の強そうな眉毛に切れ長な目、けぶるようなまつ毛。鼻はちんまりとかわいらしく、唇はツンととがっていて、将来は貴公子が取り合うほど美しくなられますよ」
「うーーむ、わしには分からんわ」
「そんな遠くにいるからです。ほら、旦那様も抱っこしてみてください」
「いいや、わしは止めておく。泣くだけじゃからな」
それでもレオンは孫が気になるのか、ヨーゼフの腕の中で眠っているユリアを覗き込む。ユリアのまつ毛がぴくりと揺れると、レオンは恐れたように飛び退いた。
「旦那様の武勇も、ユリアお嬢様には通じぬようですね」
「うむ。まったくじゃ」
そうて、またレオンはユリアの顔を恐る恐る覗き込むのだった。
「ところで、ベアトリーチェお嬢様のお子様の方は……」
「……つつがない」
「さようで」
一瞬にしてレオンの顔が苦いものへと変わった。それを感じたのか、ヨーゼフの腕の中のユリアが「ふぇっふぇっ」っと、今にも泣き出しそうな声を上げた。
「わしは行くぞ!」
「はいはい。どうぞご勝手に」
ヨーゼフは、ゆらゆらと体を横に揺らしたり、膝の屈伸をして上下にしてあやしたりした。すると、ユリアはまた静かな眠りに落ちていた。
「本当にかわいらしい……」
ユリアが産まれてから数年で、レオンは名ばかりの伯爵となっていた。
王都での仕事はほぼすべてをゴッソが仕切っていた。武勇ばかりのレオンよりもゴッソの方が政治的な機微を心得ており、王都でのオルシーニの悪評もずいぶん浮上した。
また領地経営では、分家筆頭でレオンの義息となったブルーノも思わぬ良い働きを見せた。領地の人々の暮らしは豊かになっていった。
そうした代替わりは良いことばかりではない。ゴッソの仕事の多くは王都でのものであり、年の半分ほどしか領地にいられなくなったのだ。もちろんアドリアーナとユリアもである。
そして、やっと帰ってきたかと思うと……。
「あの子、私に会うなりなんて言ったと思いますの!『お姉様には、王都は合わないようですわね。肌は荒れて、爪もボロボロですわ。お可哀そうに』ですってよ!これでも王都では有名なサロンでマッサージを受けて、爪も磨いてますのに!こうなったら王都に帰ったら、もっと王都で一番のサロンに行きますわよ!」
「金はどうする?」
「は?何言ってるんですの!私は伯爵家の娘ですわ。サロン代くらい、好きにさせていただきますわ」
「ダメだ」
「なんでですの!私が男だったら、私が伯爵でしたわ。ですからこの家の財産を好き勝手に使う権利があるんですのよ」
「伯爵家の財産は領民からの税だ。好き勝手にできるものではない」
「何を伯爵ぶっていますの。あなたなんて、平民も同然の家柄なのに!お父様の命令でなければ、誰があなたとなんか……」
たまたま次期伯爵夫婦の部屋を通りかかると、二人の声は外まで漏れ聞こえていた。
ヨーゼフはため息をついた。
「きっとユリアお嬢様は泣いておられるんでしょうなあ」
ヨーゼフはユリアを探した。もとより、この屋敷のことで知らないことは何一つ無いヨーゼフである。ヨーゼフにかかれば、ユリアを見付けることはたやすかった。
いつもより廊下の絨毯の毛並みがよれているのは、お嬢様がお気に入りのぬいぐるみを引きずって歩いたからだろう。それを手がかりに空き部屋の前まで来た。
部屋の扉の取っ手の一部が濡れているのは、お嬢様が涙や鼻水をぬぐった手で触ったからだろう。
部屋の中に入ると、ひだになってたたまれているはずのカーテンの裾がくるりと巻かれており、不自然に膨らんでいた。
ヨーゼフは、カーテンの側まで行って、よっこらせと腰を下ろした。カーテンはびくりと震えた。ヨーゼフはレオン以外には、有能で礼儀正しい執事である。そのヨーゼフが床に直接座り込んでいるところなど、他の使用人が見たら目を丸くするに違いなかった。
ヨーゼフがじっと座っていると、少ししてからカーテンがくるくるっと回って、ユリアの体が半分見えた。カーテンを持ってしっかりと顔だけ隠している。ヨーゼフは、じっと待った。ユリアは首を傾げて、顔を隠していたカーテンの脇から赤くした目を覗かせた。
あまりのかわいらしさに、ヨーゼフは破顔する。しかし、ふるふると震えるユリアの小さな体を見ると、今度は胸が避けんばかりに悲しみに満ち、眉根が寄った。
すると、いったん泣き止んでいたユリアの目から涙があふれ返った。
「よおぜふううう!」
どんっと衝撃を受けて、ヨーゼフはひっくり返りそうになった。なんとかこらえると、胸にはユリアが抱きついていた。たどたどしい言葉で辛さを吐き出すユリアの背中を、ぽんぽんと単調なリズムで優しく叩く。どのくらいの時間が経ったのか、ユリアの言葉は途切れ途切れになり、声は小さくなった。ヨーゼフの胸に感じる体温は熱いくらいになっていた。最後にぐずっと鼻をすすると、ユリアはヨーゼフの胸で眠ってしまった。
「可哀想なユリアお嬢様。お嬢様をこんな気持ちにさせるなんて、あのお二人にはなにかお仕置きをしないといけませんね」
骨と皮ばかりになった体のどこにそんな筋肉があたのだろうと思うくらい、ヨーゼフはひょいっとユリアを抱き上げて、やすやすと子供部屋の寝室へ運んだ。
アドリアーナとゴッソへのお仕置きが始まる前に、オルシーニ家に激震が走った。
レオン・オルシーニが病に倒れた。