19 山へ行こう⑤
薬の効果が切れて、すぐに少年は気がついた。その少年を正座させ、ミーシャがその前に仁王立ちになる。
「あなた、最低です!最低の上の最低です!」
「いやあ、照れるなあ」
「褒めていません!」
「デへへへへ……」
「ひいい……気持ち悪い!なんなんですか、あなたは!」
「執事長の☆孫☆です」
「そういうことを聞いているんじゃありません!女性の臭いをあんな風に嗅ぐなんて最低の人だって言っているんです!」
「女性の臭い。ミーシャさんの……臭い。うほっ」
「きゃあああああ、気持ち悪いいいい!ゴブリンよりも気持ち悪い!」
ミーシャは自分の体を抱きしめながら、サブイボをこすってなだめていた。
説教しているのはミーシャのはずなのに、ダメージはミーシャの方が負っているようだ。
まだ言い合いをしている二人を横目に、腰の小袋から嗅拡丸を一粒取り出した。「見つかりますように」との祈りを込めて、薬を飲み込んだ。
目を閉じる。
最初は鼻で息をしない。それでも数百倍にもなった嗅覚はいろいろな情報を脳に送り込む。
少年の言ったように、土の香り、木の香り、人の香りを感じる。
慣れてきたところで、そろりと鼻に空気を通す。
体の中を世界が通り抜けたような感覚だ。
様々な臭いが、脳を駆け巡る。
滝が水を叩きつける香り、次から次へと生まれるスライムの香り、森を歩く鹿の親子の臭い。それを狙う狩人らしき人間の香り。もっと上へ!
小鳥が追いかけられて危機を感じている臭い、水蒸気が上がって雲になる臭い。高すぎる!もっと下へ!
あった!山頂付近だ。とんでもない腐臭だ。心構えがあったとはいえ、きつい臭いに胃液が持ち上がる。
幕が下りたように、唐突に臭いが遮断される。薬の効果が切れたのだ。効果が強い代わりに、作用時間は短い。そして副作用がある。このあとはしばらく鼻が麻痺してしまうのだ。
目を開ける。力が入っていた体から、力がガクッと抜けた。はあはあと肩で息をする。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
いつの間にか側にいたミーシャに肩を抱かれた。いいタイミングで、すっと冷たい水がコップに入って差し出された。
「ありがとう」
冷たい水を喉に通しながら考える。
分かってはいたことだけれど、あの場所にミーシャは連れていけない。なんといってもミーシャはゴブリンの死体に怯える普通の女の子なのだ。
それに何と言ってもアラン。いくらお父様の護衛とはいえ、どこまで信頼していいのか分からない。特殊な私の薬の性能についても、その材料となると採取についても、簡単に教えるわけにはいかない。もちろんなんでそんな知識があるのかも。だからアランも連れていくわけにはいかない。
少年は……ま、いいか。
ふと思いついたことがあったので、ミーシャに尋ねてみた。
「そういえばあなたアランに『守って下さい』って言ったわよね」
「やだあ、お嬢様ったら聞いてらしたんですか?もう、恥ずかしいですぅ」
「あなたを守るために戦うアランを想像して」
「私を守るために戦うアランさん……きゃあああ!!!」
鼻息荒く顔を赤くするミーシャ。私の背中をバンバン叩く。
この子、私が雇用主なのを忘れていないかしら?
「守られてみたい?」
「そりゃあ、物語のお姫様みたいに守られてみたいです!きゃああ!!!」
「そうなのね」
口元はにっこりと形つくるけれど、目元は笑えていない。そんな私をいぶかしげに見つめ返すミーシャ。
「なんでもないわ。あなたの恋の応援をしてあげようと思ったの」
励ますように優しくミーシャの背中に手を置いた。腰の小袋から出したばかりの手を。
次回、ミーシャのお仕置き回です。