184 母と娘⑦
「私の昔話を聞いてくれるかしら?」
「え? ええ……」
「私が学園の二年生の時、一つ年下のベアトリーチェが入学したわ。あの子は、たぐいまれな美しさと、王家の傍流だったお母様から受け継いだ気位の高さ、そしてお祖父様から受け継いだ膨大な魔力で、とても目立っていたわ。さっきは皇太子を虜にしたと言ったけれど、虜にされたのは皇太子だけじゃないの。ほとんどの高位貴族の令息も虜になっていたの」
お母様は、ベアトリーチェ叔母様をめぐる男子生徒の戦いを語る。
うわぁぁ。その光景は、想像しただけで恐ろしい。
「皇太子にも子息たちにも婚約者がいたわ。その方々は、ベアトリーチェを責めればいいものを、彼らに強固に守られているあの子じゃなくて、姉である私を責めたのよ」
……目に見えるようです。
「ある時、あるご令嬢が激高して刃物を持ち出したのよ」
「え⁉ お母様は大丈夫だったのですか⁉」
「ええ。偶然、通りかかったある方が助けてくれたから……」
お母様は、懐かしそうに遠い目をして頬を染めた。
それで分かってしまった。お母様の想い人は、昔の婚約者などではなくて、その助けてくれた方なんだって。
「その方は、どんな方なんですか?」
お母様は寂しそうに笑う。
「その方は、三つ上の上級生だったわ。家柄はそう良くなく、魔力も少ないけれど、勉学が非常に優秀で…………。本人はそう目立つ方ではなかったけれど、最上級生の教会籍で、とてもお美しくて有名だったご令嬢と一緒のところをよく見かけたわ」
「では、お母様とその方はそれきり……」
お母様は首を振った。
「いいえ。後々に再会したの」
「それって、お父様と結婚する前ですよね⁉」
さすがに、お父様と結婚した後だったら、お父様が可哀そうすぎる。不仲の原因が、お母様が好きな人と再会したせいだなんて!
ところがお母様は、きょとんとした顔をした。
「再会したのは、私とベアトリーチェが領地に戻された時よ。ベアトリーチェのせいで、取引を断られたりして傾きかけたうちの財政の立て直しを任されていたお父様の片腕が、その方だったの」
ん?
お祖父様の片腕?
どこかで聞いたような……。というか……あれ?
「あの……その方ってもしかして……」
「ええ。ゴッソよ」
「!!!」
やっぱりお父様⁉ え? どうして? 好きな人と結婚したなら、なんであんなに仲が悪いの⁉ ううん、仲が悪いというよりは、お母様はお父様の事を毛嫌いしているように見えるわ!!
「お母様は私に『あなたにだけは愛する人と幸せな結婚をしてもらいたかった』っておっしゃいましたよね? お母様は、愛する人と結婚したのではありませんか⁉ だったら……」
ところが、お母様はうつむいたまま首を振った。
「愛する人と結婚できなかったのは、私じゃなくて……ゴッソの方よ」
「……は? お父様?」
あのお父様が? 無口で、強面で、無表情に見えるくせに、本当は心優しくて、愛情深くて、お母様の事を気にかけている、あのお父様が⁉
もう、訳が分からない!
「昔ね、あなたが産まれる少し前に、お父様があの人に書いた手紙を見てしまったの」
ふっと悲しそうにお母様は笑った。
「……あの無口でお世辞一つ言えないゴッソがよ、あの人には『かわいい』だの『小鳥のような』だの……信じられないような誉め言葉を……」
まるでつい最近見たかのように、お母様は目に涙を浮かべた。
「あの人って、お母様のお知り合いですか?」
「直接話したことはないわ。でもどんな人かは知っているわ。さっき言った、ゴッソと仲が良かった、最上級生の教会籍の令嬢よ」
………………ん?
お父様の先輩。教会籍の令嬢?
あれ? まさか……。
「お母様、その方って、もしかして……リンドウラ修道院のクラリッサ様……とか?」
えっと……。まさかね?
ところが、お母様は、目を見開いた!
「ユリア、あの人を知っているの⁉」
「え……。はい」
「いつ、どこで⁉」
「ええっと。私が領地で盗賊に襲われたのはお母様もご存じですよね。その際、オルシーニ領の教会では問題があったので、リンドウラ修道院で治癒魔法をかけていただいたのですが……」
「あの人……。まだ、クラリッサ様と関係を持っていたなんて……」
そう言って、お母様は泣き崩れた。
…………これって、どういう状況なのかしら?
お母様の想い人は、お父様。
でもお父様の想い人は、クラリッサ様?
それは、ない、ない。絶対にない。
むしろお父様が好きなのは、お母様なんじゃ……?
待って、お母様がそう思うようになった原因は、手紙?
そういえば、お父様の手紙はあの顔と無口さとは裏腹に、やたらめったらと「かわいい」とか「愛しい」といった言葉を乱用するのよね。私だって、あまりのギャップに、どんなに戸惑ったことか……。
「お母様。お母様は、お父様から手紙をもらった事は?」
「ないわ!」
「そうですか……」
クラリッサ様に、『かわいい』や『小鳥のような』という言葉ほど似合わないものはない。もしかしたら、クラリッサ様あてに書いた手紙は、別の人の事を書いたんじゃ……。
「お母様は、そのお手紙は全部読まれたんですか?」
「そんなはしたないマネできるわけないでしょ!」
「そうですか……」
やっぱり。
クラリッサ様を鳥で表現するとしたら、私なら『大鷲のような』って書く。獰猛で、強く、鋭く、狙った獲物を逃がさないような人だからだ。じゃあ、『小鳥のような』人って、誰?
私は、目の前でうち震え、涙にくれているお母様に目をやった。
私が生まれる十二年前……。お母様はどんな令嬢だったのだろう。今でも、体は小さく、華奢と言えなくもない。きっと、叔母様との張り合いもそれほど激化していない時だ。まだ、それほど自己中心的でも傲慢でもなく、自分に自信を持てないでいた頃……。
そういえば、リンドウラ修道院長もお父様からの手紙には、家族ののろけ話がたくさん書かれていたと言っていた。
『小鳥のような』『かわいい』人は、結婚したばかりのお母様の事だったんじゃないかしら?
…………そんなこんなで、十二年のすれ違い?
もちろん、お父様に真相を聞かなくてはいけないが、多分そういうことなのだろう。 どっと疲れが襲ってきた。
きっとお母様に私の考えを伝えても、受け入れてくれないだろう。十二年間も思い込んできたのだから。だったら、お父様に直接想いを伝えてもらうしかない。
そういえば、なんでこんな話になったんだったっけ? そうだわ……。
「……だから、私には好きな人と結婚して欲しいと?」
お母様は、ハッとしたように顔を上げた。
「そうよ! だから、エンデ様と!」
「お母様。残念ながら、私はエンデ様を好いていません」
「え?」
「確かに、過去は好きだった頃もあります。でも今はまったく好いていないんです」
「……そ、そうなの?」
お母様は、不思議そうに眉根を寄せた。
「はい」
「そ、そう……」
「そう言えば、エンデ様が領地に来る前に、お母様は彼になんて言ったんですか?」
「え……。ああ。『本当に好きだったら、どんな障害でも乗り越えて、ユリアを奪いなさい』と……」
もしかしたら『ユリアを奪いなさい』というところを、エンデ様が曲解したのかしら?
「……私がエンデ様から聞いたのは『既成事実を作れ』です」
「え? ええええええ⁉」
お母様の驚きを見れば、お母様がそれを知らなかったのは一目瞭然だ。
「……『誤解』だったんですね」
「当たり前よ! 私がそんな酷いことさせるわけがないわ!」
お母様の怒った顔がおかしかったからか、それとも本当に様々な『誤解』が溶けたからか、よく分からない感情が溢れて、つい笑いがこみ上げてきてしまった。
きょとんとしたお母様も、次第に私につられて笑い声を上げる。
『前の人生』も、ある時までは仲の良い母娘だった。でも、話すことと言えばエンデ様の話と、流行の事ばかり。本当に大切なことは何も……。
私は、初めて本当のお母様と分かり合えたのかもしれない。胸の中が温かくなった。