183 母と娘⑥
明日にした方がいいんじゃないかというミーシャの声を無視して、私は客間からは程遠い、しかし自分の寝室からは程近い部屋の前に立った。
重厚な扉を前にして、つい立ちすくんでしまう。
ふぎゃあ!
エリスさんとアランの赤ちゃんの声がここまで聞こえてきた。
そうよ。私は、エリスさんと約束したんだったわ。お母様と話をすると。もう遺言ではないけれど……。
コンコンコン。
勇気を奮い起こして、扉をノックする。少しの間を置いて、不審そうな声が返ってきた。
「……誰?」
「ユリアです」
「………………ユリア? どうしたのこんな時間に」
「お母様と、お話を……」
「………」
「お部屋に入れていただけますか?」
「…………どうぞ」
「失礼します」
部屋の外にミーシャを待たせて、私はお母様の寝室へ入る。
寝室は、夫婦二人で使ってもいい程に広く、朝になれば日が差して、風通しもよい。
貴族でも夫婦で同じ寝室を使う家族は多い。しかし、うちでは別だ。お父様の寝室は、お母様の寝室よりも小さく、日当たりの悪い場所にある。使用人の部屋よりも居心地が悪そうなその部屋を、お父様の寝室にすると決めたのは、もちろんお母様だ。
どうして、そこまでお父様を毛嫌いしているのかしら……。
寝室の中で、お母様はすでに寝衣に着替えていて、鏡台の前でほどいた髪を櫛でといていた。ノックの返事をしたのが、お母様だったことから分かるように、いつもは一緒の侍女長はすでに退出をしていたようだ。
「話って……何かしら?」
お母様は、ツンとすました顔をしながら、鏡に映った櫛の動きを熱心に目で追う。その鏡には、私も映っているというのに、目を合わそうともしない。
そんなお母様を見ていると、本当に『誤解』があるのか疑問になる。
「お母様。エリスさんの赤ちゃんが産まれました」
「ええ。そうね。ここまで産声が聞こえたわ」
「……」
「……」
「……」
私はその後を続けられずに黙り込む。お母様もそうだ。
再び、赤ちゃんの声が聞こえた。元気な赤ちゃんだ。産まれて一泣きした後は、疲れて眠ってしまう赤ちゃんがほとんどだというのに。
情けないことに、産まれたばかりの声に背中を押されて、勇気を振り絞った。
「あの」
「ねえ」
やっと声を出したところで、お母様も同時に話しかけてきた。またもや、気まずい。
「お母様からどうぞ」
「え……。でも……」
お母様の櫛の動きが止まった。
「……大した話じゃないのよ」
「はい」
「……あなたが産まれた時のことを思い出したの」
思わずカッとなる。お母様は、どうしていつもそうなの⁉
「私が産まれた時のことが……『大した話じゃない』ですか?」
瞬時にお母様もムッとした顔になり、声を荒げる。
「そういうところが……」
言いかけて、お母様はグッと唇を噛んで黙った。そして、ゆっくりと「1、2、3、4、5」と数えてから、大きく深呼吸する。
え? 何?
お母様は、少しだけ唇を噛んだ。
「言い方が悪かったわ。……あなたが産まれたことが大した話じゃないっていうわけじゃないの。私が言いたかったのは……私なんかがする話は、意味を持たない、聞く価値のない、どれもこれも大した話じゃないって事よ」
「え?」
声を荒げたところまでは、いつものお母様だ。でもその先は、今まで見たことがない。いつもなら、文句や八つ当たりで終わるところを、なんとか落ち着きを取り戻し、一生懸命に言葉を探して自分の考えを伝えようとしている。
もしかして、さっきの「1、2、3、4、5」は、そのために?
それよりもお母様の言ったことの方が、気になる。どうしてそこまで自己肯定感が低いの? お母様はいつだって、自己中心的で傲慢だったのに……。
「なぜ『聞く価値のない』……なんて言うんですか?」
「そ、それは……」
お母様は、再びゆっくりと数を数えてから、大きく深呼吸する。
「それは、私がいらない子だったからよ」
「!!」
「ユリアは知っているでしょ? 私の母……あなたのお祖母様が王家傍流の姫だったって事を」
「はい……」
「母は前の戦争の英雄、そして戦いしか知らない田舎者のオルシーニ前伯爵、つまり父の元に降嫁させられたの。名目は戦いの褒賞として。でも本当は、厄介払いだったのよ。王家傍流でありながら、自分の血筋から王を出すべきだと考えている人だったから。それが疎まれたのね」
「……」
「母は、男の子が産まれたら革命を、娘が産まれたら王家に嫁ぎその子が王になることを望んだそうよ。そして産まれたのが私と、妹のベアトリーチェ……。ちょうど年頃の王子もいたから、王子と婚約できるように画策したわ。でも当の王家からは、相手にもされなかった。だから母は、王侯貴族の子供ならみんなが行く学園で、王子自身に選ばれるようにすればいいと思ったの。だから外見がよく、魔力も豊富なベアトリーチェは母に溺愛されたわ。でも私は……」
確かにベアトリーチェ叔母様は、誰もが見惚れるくらいの美女だ。若い頃なら、それはモテただろう。それに比べて、お母様の外見は……確かに平凡すぎる。姉妹とは分からないくらいに。
「母は早くに亡くなったけれど、その妄執だけはベアトリーチェに残ったの。だから学園では、身分の高い……特にその当時の皇太子を虜にして婚約破棄までさせたわ。だけど、そのせいで皇太子は廃嫡になり、ベアトリーチェも不名誉な退学になった。貴族の血筋とはいえ、学園を卒業していない人は社会では貴族としては認められないわ。ベアトリーチェは王族と結婚するどころか、貴族でさえなくなったのよ。巻き添えを食って、私まで婚約破棄されたけれど……、私がオルシーニ伯爵家の跡取りだったのは変わらなかったわ。その時から、私とベアトリーチェの立場は逆転したの。私は伯爵家の跡取りで、結婚して家督を継げば伯爵夫人。一方、ベアトリーチェはどんなに美しくても、どんなに才能があっても、オルシーニ傍流に嫁いだ平民。ここでベアトリーチェが私に頭を下げてくれたなら……。でも、平民になってもベアトリーチェの傲慢さは変わらなかったの。つまらない事で張り合い、ゴッソにもよく怒られたわ。でも……ベアトリーチェの身分が低くなっても、張り合いに勝っても、私の劣等感は変わらなかった。私が母に愛されていない、いらない子だっていう過去は変わらなかったからよ」
お母様は、鏡越しに私の目を見た。そして目が合うと、ふとこぼれるように微笑んだ。
「私が生きてきた中で、唯一誇れる事。それは、あなたを産んだ事よ」
「唯一……誇れる?」
「エリスさん程じゃないけれど、あなたの時もね、難産で……。丸二日間も陣痛に苦しんだのよ」
「二日も……?」
それは長い。
「産まれてすぐのあなたは、声が小さくて……『ふぇ、ふぇ』って可愛らしい声で泣いたの。そんなあなたを抱いたら、嬉しくて嬉しくて……陣痛の苦しみなんてすぐに忘れたわ」
記憶にない赤ちゃんの時の自分の話をされるのは、こそばゆいものだ。
「その時に誓ったの。あなたの望みはなんでも叶えてやろうって。私が欲しかった母からの愛情は溢れるほど注いで、あなたの望みならなんでも叶えてあげようって」
お母様は、何かを探るような目で私を見つめる。
私の望み? お母様が叶える? あ!
「それはもしや……エンデ様のことを言っておられますか?」
エンデ様は、『前の人生』での私の婚約者だ。
昔、私がお母様にエンデ様に一目惚れしたと話すと、お母様はお父様を飛び越えてエンデ様のコンナ侯爵家と婚約の話をまとめてしまった。今の人生では、私が断ったので婚約する前に話は白紙に戻ったが。
しかし、侯爵家五男のエンデ様は私との結婚によって得られる爵位を求めて、復縁のために領地まで追いかけて来たのだ。そして、ヨーゼフを突き飛ばし、瀕死の重体に陥らせた。
確か、ヘンゼフも私が何か誤解をしていると言っていたけれど……。
「ええ、そうよ、ユリア。あなたには……あなたにだけは愛する人と幸せな結婚をしてもらいたかったの」
「私にだけは……」
そういう言い方をするという事は、お母様はお父様以外に好いた方がいたのだろう。ベアトリーチェ叔母様のせいで婚約破棄をしたと言っていた。その方だろうか?
お母様は、今さらのように私に椅子をすすめた。長話になるのかもしれない。
「私の昔話を聞いてくれるかしら?」