180 母と娘④
身も心もぐったりとして、屋敷に帰り着いた。
重い体を引きずって、まず向かうのはエリスさんの病室だ。
コンコンコン
ミーシャがドアをノックすると、アランがドアを開けた。
「お嬢様……」
「ただいま。エリスさんの様子はどう?」
「はい……」
アランは私達を部屋に招き入れた。
「リンドウラ・エリクシルで作ったという薬を飲ませてから、頬に赤味が戻ってきました」
いいことだ。
「そう。少し、診てもいいかしら?」
「ぜひ、お願いいたします」
私はエリスさんの脈を診る。確かに、生きているとは思えない程ゆっくりとしているが、力はある。お腹の方は、破水した時から目に見えて大きくなってきている。順調だ。
「アラン、朗報よ。エリスさんの目を覚ますことができるわ。エリスさんは、このまま死ぬわけじゃない。出産前に目を覚ますのよ」
「!」
アランは、安心して体の力が抜けたのか、バランスを崩して尻もちをついてしまった。
「大丈夫? アラン」
反射的に、アランは「はい」と答えたものの、立ち上がろうともせず、目に涙を溢れさす。
「信じていました……。お嬢様自身が、何と言われようと、お嬢様ならエリスを助けてくれると……信じていました」
あのアランが、他人に関する無関心さを「爽やか」という仮面で隠していたアランが、子供のように顔をくしゃくしゃにさせて泣き出してしまった。
私は膝をつき、アランの手を握る。
「その言葉はまだ早いわ。無事にエリスさんの目を覚まさせて、出産し、元気な赤ちゃんを抱いてから言ってちょうだい。本当の戦はこれからよ!」
なにせ、出産というのは女にとっては戦なのだ! 無事に目を覚ましても、出産は決して安全なものではない。
アランは、ちょっとビックリしたように目を開き、乱暴に袖で涙をぬぐった。そして、にっこりと笑いながら、「はい」と言う。
「アランも、気が張っていたでしょう? 今夜はゆっくり休んでいいのよ。誰かに付き添いをお願いしておくわ」
「いいえ」
アランの瞳は、希望の色を浮かべてエリスさんに向く。
「私が付き添いたいんです」
「そう……。無理しないでね」
「はい」
**********
私もその夜はゆっくり眠れた。
久しぶりの深い眠りだったせいだろうか? 早朝。日がまだ登り切っていない時間に目が覚めてしまった。
なんとなく様子が気になって、エリスさんの病室へ足を運ぶ。
アランは起きているだろうか?
もう秋も深い。廊下に出た、私はブルっと体を震わせた。
シーンと静まり返った廊下には人影一つなく、窓ガラス藍色から薄い紫まで段々に色が変わり始めている。私はこの夜明けの空が一番好きだ。それは夜明けの空の色が、ミーシャの瞳の色だからに違いない。
エリスさんの病室のドアは少し開いていた。
「どうしたのかしら? 部屋が冷えてしまうのに……」
私はドアの隙間から、中の様子をうかがった。
と、見た光景に、私は心臓がギュッと掴まれるような気持ちになる。
「……なんでお母様が?」
エリスさんのベッドサイドで、お母様が黙って座っていた。片方の手で、エリスさんの手を握って。もう片方の手で、エリスさんの髪を梳いている。そのお母様の表情や仕草は、見たことがないほど、思いやりに溢れている。
エリスさんの頭の方に立っているアランも、そんなお母様に感謝の視線を投げかけているばかりだ。
(ど、どういうこと? お母様は、いったいどうしてこんな事を?)
お母様は、エリスさんを嫌っていたはずだ。エリスさんの手を払いのけ、破水した時もきっとお母様が何かエリスさんに言ったに違いない!
『お嬢様は、奥様を誤解なさっています』
急に、エリスさんの遺言を思い出した。
いや、本当は忘れてなんかいなかった。ただ、信じられなくて心の片隅に追いやっていただけで。
でも、何を誤解しているっていうの? お母様はいつだって、自己中心的で感情的。私を偏愛していたのだって、仲の良い母子でいる自分が好きだったから。あんなに思いやり深いお父様を毛嫌いし、誰一人友達がいない。
誤解なんてないわ!
街で見知らぬ母娘を見ると、ふと思い出す、抱きしめれた時のお母様のぬくもりと、甘い香り。でもその度に、『前の人生』で私が勘当された時に、お母様に助けて欲しくて伸ばした手を取ってくれなかった、あの心の痛みを思い出す。
誤解なんて、していないわ!
私はどうしてか泣きたいような気持ちで、再びお母様に目をやった。
優しい目でエリスさんを見下ろお母様。時折、ブツブツと口を動かしながら、長く目をつぶる。
……祈り?
『お母様は、誰よりもエリスさんの無事を祈った方がいいと思います!』
エリスさんが破水した時に、私がお母様に投げつけた言葉だ。お母様の言葉なんて、一切聞こうともせずに。
あの時のお母様の顔。……ひどく傷ついていた。
どのくらい時間が経っただろう……。お母様がエリスさんの手を胸の上に戻して、立ち上がった。
胸がドキッと飛び跳ねる。
今は、お母様に会いたくない!
私は、走ってその場を逃げ出した。