174 【防護】魔法
御典薬の司の部屋というからには、特別豪華なしつらえかと思いきや、なんてことない。ただの調合室だった。ただし素材はラーツェ様が言った通り豊富だ。
鴆の糞を含めたもろもろの素材や調合道具を揃えたところで、おなじみの【防護】魔法を私とミーシャにかける。この魔法は素材からの影響を受けないようにするための魔法だ。初めて『気付け薬』を作った時は、臭いが変わるタイミングをつかむためにこの魔法を使わなかった。そのため、あまりの臭さにミーシャは失神してしまったのである。
「さて、薬を作りましょう……」
私は腰に下げたシャトレーヌを指で掻き鳴らす。すると鎖でつながれた薬を入れる筒同士がぶつかり、シャラシャラと涼し気な音を立てた。
何度か作っているため、『気付け薬』はそれほど時間をかけずに完成した。臭いが変わるタイミングも、勘で分かるようになった。
今頃は詰め所でラーツェ様がリンドウラ・エリクシルからアルコール分を飛ばしている作業をしているところだろう。
それが終われば、いよいよ「王家のゆりかご」の副作用をリンドウラ・エリクシルと気付け薬で解毒できるのか検証する番だ。いったいどうやって検証するのだろう……。
私はそれを確かめるために、詰め所につながってる扉を開けた。
「あ!」
間髪を置かずに、ミーシャが悲鳴をあげた。
しかし、もう遅い。鴆の糞のとんでもない悪臭が詰め所に流れ出たのだ。
「お嬢様! 大変です! 下手したら死人が出ますよ!!」
制作過程で一度気を失ったことがあるミーシャが叫んだ。
ところが……。
「……」
「…………」
「………………静かね」
「……………………何も起きないですね」
ドアの影から顔を出してみると、御典薬たちは私達に背を向けて、何やら作業に熱中している。
「どうしたのかしら? 誰も臭いって騒がないわね。御典薬ってみんな鼻がおかしいのかしら?」
「さあ……? どっかおかしいのは分かるんですが」
さらに近付いてみると、御典薬たちは私の予想通りリンドウラ・エリクシルを蒸留器にかけてアルコールを飛ばしているところだった。
蒸留とは、水とアルコールの沸点の差を利用して、お酒の中のアルコール分だけを蒸発させる方法だ。アルコールの沸点が80℃弱、水の沸点が100℃であることからリンドウラ・エリクシルを煮立たせることなく成分を濃縮することができる。
余談だが、蒸発させたアルコールを冷却して液体に戻せば、酒精の高い蒸留酒となる。
「あの……」
私が話しかけた途端、御典薬たちが一斉にこちらを振り向いた。
「「きゃああああああああああ!!!」」
私とミーシャは。腰を抜かして尻もちをつく。
「「ゴ、ゴ、ゴ、ゴブリン!!!」」
そこにいたのは 目が異様に大きく、口が裂け、肌が緑のまさにゴブリン! それも一匹二匹ではない。ニ十匹もいる!!
私はミーシャと抱き合いながら、ガクガク震えてしまった。
――大事ないか?
小さなクモの姿に変身して、私のスカートに隠れている従魔のルーが話しかける。
「大事あるわよ! ゴブリンの集団よ! 助けて!」
――ゴブリンはいない。
「いるわよ! ここに!」
――あれは違う。
「違う?」
すると、一人(?)のゴブリンが近づいてきた。
「ユリア嬢……。どうしたでありますか?」
「…………………………もしや、ラーツェ様?」
「そうでありますよ」
くぐもっていて声が分かりづらいが、間違いなくラーツェ様だ。
それに元々がゴブリン顔だったために、あまり変わりないように見える。
よく見ると、何かのマスクを被っているようだ。
マスク?
そう思ってよく周りを見ると、ゴブリンの集団だと思っていたのは、そのマスクをかぶった御典薬たちだったのだ。
「な、何なんですか? みなさんのマスクは?」
私は御典薬たちの顔を指さした。
「調合マスクであります」
「『調合マスク』?」
そんなもの、薬問屋でも見たことがない。
「これはうちの流派では一般的なもであります。口元の浄化膜は毒ガスや素材の粒子が呼吸から中に入るのを防ぎ、肌の膜は接触して被爆することから防ぐであります。目のレンズも同じでありすが、狭まった視界を補うために拡大鏡になっているのであります。この調合マスクのおかげで、わが流派では安全に毒性の強い素材を扱うこともができるのでありますよ」
鼻高々に答えるラーツェ様。私は何もいう事ができない。
確かに機能は素晴らしいが、そのせいでラーツェ様以外もゴブリンめいて見える。
ふと気が付いた。
「もしかして、マスクをしていると取れなくなるとか、素顔が変わってしまうなんてことは……?」
ラーツェ様は「おかしなことを」と笑っているが、その後ろで何人もの御典薬が「ハッ」とばかりに顔に手をやったのを、私は見過ごさなかった。
それにしても「調合マスク」ね……。こういうところで、どの師匠に付くか差が出るのね。
一般的な師匠のいない私には、縁のない話だった。
「なんなら、ユリア嬢にも調合マスクを進呈するでありますよ」
「いいえ! 大丈夫です」
「遠慮しなくてもいいでありますよ」
「間に合っていますので!」
そこで初めてラーツェ様は「おや」と首を傾げた。
「そういえば、この部屋……アルコールが蒸発して空中に飛んでいるはずでありますが……。ユリア嬢にはなんともないでありますか?」
「ええ」
次いでミーシャを指さす。
「そっちの女も?」
「大丈夫です」
ふうっとラーツェ様のため息音がした。
「うら若き乙女たちでありながら、ここまで酒に強いとは……」
私だってまだ成人前。普段から酒を飲んでいるなんて思われては困る。
「お酒に強いわけじゃないわ」
「酒に強いのは、別に恥ずかしいことでは……。ただあまり若いうちから酒を嗜むと、いろいろと問題が現われるでありますから……」
やっぱり誤解している!
「そ……、そうじゃなくて【防護】魔法をしているから大丈夫なんです!」
「【防護】……魔法? なんでありますか、その魔法は」
ラーツェ様はマスクで重くなっている首を傾げた。
そうだった。【防護】魔法は私のオリジナルの魔法で【風】魔法と【光】魔法といくつかの微細な魔法をより合わせて作った魔法だった。
説明するのが面倒になり、私は御典薬みんなに【防護】魔法をかけた。
「マスクを取って下さい」
「そんなことはできないで……」
「いいから。私を信じて」
「まあ……、今は毒ガスではなく、ただのアルコールでありますから……」
ラーツェ様はしぶしぶマスクを外した。
「………………。なんともないであります」
ラーツェ様は蒸留器に鼻を近付ける。
「…………………………やはり、なんともないであります」
呆然とした顔のラーツェ様。そして周りの御典薬たちがラーツェ様にならってマスクを外した。
「「「「「なんともない!!!」」」」
御典薬たちは驚いて、臭いの強い素材に鼻をくっつけたり、挙句の果てには触ると痛みが走る素材に手を触れたりしてみる。
「臭くないぞ」
「痛くないぞ」
「視界を遮られないから、レンズもいらないぞ」
「……」
「……」
「……」
「………………調合マスクよりも、良くないか?」
そして続く調合マスクへの不満の数々。やはりあの見た目は嫌だったらしい。その騒ぎが一段落したとき、ラーツェ様以外の御典薬たちが一斉に私の方を向く。
なぜかしら? 御典薬たちが私を見る目が怖い。
……獲物を前にしたゴブリンの目ってこういう感じかしら?
あれ? なんでマスクは外しているわよね? あれ? あれ?
ジリジリと距離を詰める御典薬たち。
怖い。
そうだ! 貴族は体の不調や怪我は、治癒魔法で治すのが普通。だからわざわざ貴族で御典薬になりたいなんていう人はラーツェ様位しかいない……はず。多分、この御典薬たちは魔法が使えない平民なんじゃないかしら?
私は後ずさりながら、こっちに来ないでとばかりに両手を前に出して言った。
「えっと……でも魔法だから……。魔法を使える人は、ラーツェ様以外はどれくらい……」
私がそう言うと、御典薬たちは一人残らず崩れ落ちた。