170 選択肢
エリスさんがいる客間に着いた。その客間の扉をミーシャが体で塞いでいる。そして見慣れない女性と言い争いをしている。その女性は大きな前掛けをして、髪をきちっと布で巻いて止めてある。どうやら産婆のようだ。
「ダメです!」
甲高いミーシャの声が廊下に響く。
「何言ってんだい! 早く処置しないと、エリスさんまで死んじまうよ!」
「だから、ダメですってば! お嬢様がエリスさんと赤ちゃんを助けてくれるんですから!」
「バカなことをお言いよ! 月足らずで破水までしちまったら、もう産ませちまうしかないのさ!」
産婆は「さあ、おどき!」と両手を広げているミーシャの肩をグイっと押してずらそうとする。しかしミーシャは足を踏ん張り、扉の前から動かない。
「今、産ませたら、赤ちゃん、死んじゃうじゃないですか!」
「そうさ! でも仕方ないんだよ。こればかりはね!」
思った通り、どうやら産婆は赤ちゃんを諦めて、エリスさんだけ助ける方針のようだ。
「二人とも、こんなところで大声を出さないでちょうだい! ……中に聞こえるわ!」
中のエリスさんとアランは、どんな気持ちで産婆とミーシャの言葉を聞いているのだろう。そう思うと、言葉がきつくなる。
「お嬢様!」
ミーシャはパッと表情が明るくなった。
しかし産婆はハッとしたように腰をかがめるが、上目づかいで私を睨みつける。きっと厄介な敵が来たと思ったのだろう。
「あなたが、エリスさんの産婆ね。名前は?」
「タノです」
「ではタノさん。今のエリスさんの状態を説明してもらえるかしら?」
「でも、そんな暇は……」
「お願い」
私が強く言うと、タノさんはしぶしぶ説明をし始めた。
妊娠三十三週。胎児の発育はやや遅れているが、それ以外は破水するまで母子ともに問題なかった。破水した原因は分からない。陣痛はあるものの、微弱で間隔も長い。胎児はまだお腹の上の方にいて産道をおりてく……、つまりすぐに出産するような徴候はまだない。
「それでタノさんはどうするつもりなの?」
「……堕胎薬を飲ませて、赤ん坊が産道を下りてきたところを器具で引きずりだすつもりです」
「それ以外に方法は?」
タノさんは、フンと鼻で悲しそうに笑った。
「あたしゃ、産婆を十五の頃から三十年もしているんですよ。こうなったら赤ん坊は助かりゃしません。それよりもきちんとした処置をしないと、母親……エリスさんの方がどうにかなっちまいます」
「……分かっているわ」
タノさんは、私が「何がなんでも絶対に処置させない。赤ちゃんも、エリスさんも助けろ」と言うと思っていたのだろう。私の理解の言葉に、拍子抜けしたような顔をした。
「でも選択肢はある」
「そんなものはありゃしないさ!」
私は後ろについてきていたラーツェ様に目を向ける。
「あの方が誰か知っている?」
タノさんは、ラーツェ様の特徴的な見た目ですぐに分かったようだ。
「選択肢はあるの。でもそれを決めるのはエリスさん。だからほんの少しの時間、話せるかしら?」
タノさんは少し逡巡しながら「ほんの少しですよ」と頷いた。
私は客間に入ってた。私だけだ。ミーシャもラーツェ様もタノさんも外にいてもらった。これは私が直接話さなくてはいけない事だと思ったからだ。
「お嬢様!!」
ベッド側に膝をつき、エリスさんの手を握り締めていたアランが、まるで怒っているような声を上げて立ち上がった。
「お嬢様! エリスを……エリスを助けてください! お願いします!!」
当のエリスさんは、今は陣痛はおさまっているようで、不安と絶望に打ちのめされたような顔でベッドに寝かされたまま、宙をただ見上げている。
やはり廊下の二人の言葉を聞いていたんだわ。
私の心はチクリと痛んだ。でも私は……、私はこれからさらにアランとエリスさんを苦しめる質問をしなくてはいけない。胸が重く沈んだ。
「エリスさん……聞こえる?」
エリスさんは、かすかに首をこちらに傾ける。
「聞いて。エリスさん。ここに二つの、いえ三つの治療法があるわ。一つはタノさんに任せて、赤ちゃんを諦める方法。でもエリスさん、あなたはきっと助かるわ」
エリスさんに反応はない。
「もう一つはラーツェ様にいただいた陣痛抑制剤と感染予防薬を使う方法。これで陣痛を止めて、赤ちゃんの感染を防ぐ方法よ。運がよければ一、二週間はお腹の中で育てることができるかもしれないわ。でも……一、二週間じゃお腹の中の赤ちゃんが外の世界で生きていけるかは分からない。赤ちゃんを救えるかもしれないし、救えないかもしれない。これは賭けに近いわ」
ふとアランが疑問を投げかける。
「お嬢様が作った薬ではないということですか?」
「ええ。私も作るつもりでいたの。だけれど……できるだけすぐに飲ませた方がいいから。王家で使われるものだから、相当品質が高いはずよ」
「そうですか……」
しかしこれもエリスさんは反応しない。
「最後よ。でも、これは私は勧めないわ」
私はため息を吐いた。
「王家には子を産ませるための秘薬があるそうよ。それを飲めば、きっと赤ちゃんは助かって、健康体で産まれてくる……。過去に王族の妃がエリスさんのように月足らずで破水したけれど、この薬のおかげで健康な赤ちゃんを産めた事があるそうよ」
エリスさんの表情が動いた。
しかしアランは反対に表情を固くする。
「そんな薬なのに、お嬢様が与薬を躊躇われているという事は……。何か重大な副作用があるということですか?」
さすがはアランだ。察しがいい。
「実は……。この薬を飲めば、出産は一時停止されて、感染の心配もなく、お腹の赤ちゃんは一日で一週間分の成長をするそうなの。だから、エリスさんの場合は七日。最低でも五日で赤ちゃんは産まれてきても大丈夫なくらい成長するわ。でも……」
「でも?」
「母体……エリスさんは眠りについたまま二度と目が覚めないかもしれない」
「……」
しばしの沈黙が訪れた。しかしそれを破ったのはアランだ。。
「だ、だめです!!」
やっぱりアランはそう言うだろう。さらにアランは続ける。
「赤ん坊の事は諦めます! だからエリスだけでも助けて下さい!!」
「だめ――――!!」
アランよりも大きな声で叫んだのは、エリスさんだ。
透明感のある美女……というよりも美少女といった感じだったエリスさんが、脂汗を流し、手負いの獣のような顔でアランを睨み、お腹を手で守っている。
「だめ! 赤ちゃんは絶対に死なせない! お嬢様! 私はどうなってもいいです! だから、だから赤ちゃんを助けてください!」
「だめだ、エリス! 赤ちゃんを助けようとすれば、お前の命が危ない! 俺はお前を失いたくないんだ!」
「いや! 赤ちゃんを助けて!!」
「エリス!!」
アランはエリスさんの手をとって瞳を覗き込む。
「今回は諦めよう」
「イヤ」
「その子には申し訳ないが、これも運命なんだ。次に子供が……」
エリスさんはアランの手を振り払った。
「よくもそんな事が言えるわね!」
ギリリとエリスさんはアランを睨んだ。
「エリス……」
「この子は誰にも殺させないわ!」
「殺すだなんて……」
「それに『次の子』なんてないわ」
「え?」
「タノさんに言われていたの。私の体じゃ、この子を授かっただけでも奇跡だって……」
そういえばエリスさんは幼い頃から体が弱かったという。もしかしたら胎児の成長が遅いのはそのせいかもしれない。
エリスさんは燃えるような目でアランを睨む。
「もしこの子を殺すなんて言えば、あなたを一生恨むわ!!」
「…………」