167 母と娘③
お母様は私と目を合わせる事もなく、居間を出て行った。
その後すぐに交代を終えたアランがやってきて、落ち込んだ様子のエリスさんを連れて帰った。エリスさんは何かを言いかけたようだが、怒りに震えていた私を見て口をつぐんだ。
そこへ、そぉっとミーシャが扉の外から顔をのぞかせる。
「お嬢様? 大丈夫ですか?」
「……大丈夫よ」
「本当ですか?」
「何がよ! 本当に大丈夫に決まっているでしょ!」
「……でもお嬢様……、悲しそうな顔をしています」
「は? 悲しい? 違うわ! 私は怒っているのよ!」
私がミーシャを睨みつけると、ミーシャは心配そうに眉を下げた。
「でも……」
「私の事はいいから、なんでお母様がエリスさんと一緒にいたのか説明して!」
「は……はあ……」
ミーシャはおずおずと居間に入ってきた。
「えーと……。私がエリスさんにお茶を入れていると、奥様がお嬢様に会いにいらしたんです。でもお嬢様はいらっしゃらなかったので、奥様はエリスさんとここでお待ちになると……。私はその後すぐに外に出されてしました」
「……そう」
あの時、ラーツェ様とルモンドさんが来なければ……。間が悪かったわ。
「ともかくもうエリスさんとお母様が会わないようにしないと……」
「そうですね」
ところが数日後、私の思惑は外された。最悪の事態で……。
その時、私は万が一の時の場合に備えて、ミーシャと共にエリスさんのための薬の素材を探して王都の薬問屋に訪れていた。
王都の薬問屋ならさぞかし薬の材料となる素材が豊富だろうと思っていたが、まだ薬組合の登録薬師である事を示すメダルを持っていないせいか、いくら貴族の娘だとはいえ効き目の強い素材は売ってもらえなかった。
それならばと王都の薬組合に行く。私を登録薬師にしてくれた薬組合長のルモンドさんが王都にいるので、メダルも受け取れるだろうと思ったからだ。
しかし残念ながら海辺の街レバンツで発行されたメダルを王都で受け取るには、レバンツから王都に送ってもらわなくてはならないのだそうだ。それには三週間から二ヶ月もかかるという。
ルモンドさんも、自分が移動するときにメダルを持ってきてくれていたらよかったのにと恨みつつ、私は王都で受け取る手続きをした。
素材は手に入らなかったが、誰でも買えるような乳鉢や鍋、秤といった調合道具は買うことができた。今日のところは、これでよしとしよう……。そう思いながら屋敷に到着し、玄関で馬車から降りた途端だった。
屋敷の中から「きゃああああああ!!!」と絹を引き裂くような悲鳴が聞こえた。
「お母様!?」
声の主を聞き違えることなんてない。私のお母様だ!
私の胸は早鐘のように打ち、額には気持ち悪い汗がにじんだ。ミーシャが開けるよりも先に、叩きつけるように扉を開ける。
「どうしたの⁉ お母様に何か⁉」
玄関ホールの先にいたセドリックに掴みかかるように問いかける。
「お母様は!? お母様に何かあったの⁉」
「わ、分かりません!」
「分からない!?」
「私も、先程悲鳴を聞いたばかりですで!」
それはそうだ。ほぼ同じ場所で同時にお母様の悲鳴を聞いたのである。
舌打ちしたいのを抑えて、セドリックにお母様のいる場所を聞く。
「お、温室でございます!」
温室は領地の温室と同じく、当主の奥方が責任者だ。ただ領地と違って、温室の植物は有毒なものではない。そのため王都屋敷の温室は庭師に世話をさせてもよいことになっている。
今は時季を少し外した秋薔薇が咲き乱れている。王は自分の血筋から出すべきだという妄執にとらわていたため王家から追放されるようにオルシーニ家に嫁いだ祖母様がこよなく愛した薔薇。お母様はその薔薇を嫌っていてか、それともはるか昔に亡くなったそのお祖母様を嫌ってか、なかなか自分から温室に行くことはなかった。だからお母様が温室にいるなんて珍しい。
そう思いながらも私は中庭の先にある温室に走った。その後ろをセドリックとミーシャがバタバタと足音を立てて追いかけてくる。
「お、お嬢様……!」
「何?」
セドリックの呼びかけに、足を止めることなく答える。
「奥様はお客様と温室に……」
「客!? もしかしてその人がお母様に何かしたっていうの⁉」
中庭はもう少しだ。
「それは……ないかと。お客様は……お嬢様の刺繍家庭教師の……」
「え?」
私は玄関から走り通していた足をピタリと止めた。
「エリスさん!?」
セドリックは肩で息を整えながら、かすれた声を出す。
「その……マクベイ先生が奥様を訪ねていらしまして……」
マクベイはアランの名字だ。護衛の奥方であるエリスさんだが、私の家庭教師をしていることで立場はアランよりもセドリックよりも上になり「先生」と呼ばれている。
「いったいなんでエリスさんが?」
「そ……それは……」
セドリックは困ったように首を傾げた。
「分からないのね」
「は、はい……。約束はなかったようですが、奥様がお通ししろと命じられまして……」
「そう……」
お母様が通した。何のために? お母様がエリスさんと話すことなんてあるのかしら? また嫌味を言うために?
ハッとした。
あの悲鳴はお母様が誰かに何かされてあげた悲鳴じゃなくて、お母様がエリスさんになにかしてあげた悲鳴なんじゃ……。
あのお母様の悲鳴……ただ事ではない。
私は焦げ付くような焦りに囚われる。
ようやくたどり着いた温室の半透明の扉を勢いよく開けた。
むっと香る薔薇と、これは……海の香り? なぜ……?
「だ、誰!?」
お母様の動転した声が聞こえた。
「ユリアです!」
「ユ、ユリア……」
薔薇の植え込みの影からお母様が飛び出してきて、私の腰にすがりついた。
動転しているものの、お母様は無事だったのだ。だったらエリスさんに何かあったに違いない。
しかしその時、私は相反する気持ちに気付いて動揺していた。
エリスさんを心配する気持ち。そしてお母様が無事だという……安堵。
なんていうことだろう。私は妊娠中のエリスさんに何かあったかもしれないというのに、お母様が無事だという事に安堵したのだ。
冷静を装ったが、声は上ずってしまう。
「ど、どうしたんですか、お母様? エリスさんは?」
「あ……あの人は……、あの人は……」
お母様は出てきた植え込みの方を指さした。嫌な予感に襲われて、お母様を振り払って植え込みの方へ行くと、ティーテーブルの脇にお腹を押さえて座り込んでいるエリスさんを見つけた。エリスさんを中心にして大量の水が丸くこぼれている。そして自ずと海の香りをさせている。
水……? 海の香り?
ざっと血の気が引いた。
こんなところで海の香りがするはずがない。それは生命の香り、胎児を育む羊水の香りだ。
「お、お嬢様……」
涙ぐみながら私を見上げるエリスさん。
「は、破水したのね?」
エリスさんの瞳から涙が決壊した。
無理もない。まだ三十三週目。まだ胎児は外の世界に出て、自分で呼吸できるような時期じゃない。それももともと胎児の成長が遅いのに。こんな時期に破水だなんて……。
ちょうど私の後からお母様と、セドリックが現れた。
「セドリック! エリスさんを抱き上げて客間に運んで! 揺らさないように気をつけて!」
「は、はい!!」
「その後、護衛のアランを呼んできて! 今は訓練をしているはずよ」
「は、はい!!」
セドリックはおっかなびっくりと、壊れ物を扱うようにエリスさんを抱き上げた。
「ミーシャ、いる?」
「ひゃ、ひゃい!」
ビーンと手足を突っ張らせて、ミーシャは返事をした。
「エリスさんの産婆さんを知っていたわよね?」
「は、はい!」
「すぐに呼んできて!」
「分かりました! で、お嬢様は!?」
「必要そうな薬の素材を調達してくるわ」
「でもお嬢様! 薬問屋からは素材を売ってもらえないんじゃ?」
「ええ。でも素材を手に入れる心当たりがあるの」
ミーシャの顔にホッとした色が浮かぶ。
「そ、そうですか。よかった。お嬢様がお薬を作ればエリスさんはきっと……」
私は黙って首を振った。
「自信がないわ」
「え? お嬢様が?」
「ええ。薬師はあくまで病気や怪我を扱うものなの。薬師を通じて妊婦や胎児に病気がうつらないように、産婆と薬師は役割を分けているのよ。もちろん妊婦にだって薬を処方しなくちゃいけない時もあるから診察はできるわ。だけど、月足らずで破水してしまった時にどう処方すればいいかなんて知識は私にはないのよ……」
「じゃあ……」
「でもやるだけのことはやってみるつもりよ。だから産婆と相談したいから早く呼んできて!」
「は、はい!」
「ただし、産婆が診察以上の事をしようとしたら絶対に止めること!」
「診察以上のこと?」
「いいから! 早く行って!」
「はい!」
私が温室の扉に手をかけた瞬間、後ろからか細い声が聞こえた。
「ユ……ユリア……」
私はエリスさんが危険な時に、お母様が無事なことに安堵していた自分を許せなかった。その許せないという気持ちが膨らみ、お母様を思い切り非難したくてたまらなくなった。でもそんな暇も無い。
「今はお母様がエリスさんに何をしたのか、何を言ったのかは聞きません」
「!」
「でもお母様は誰よりもエリスさんの赤ちゃんが無事に産まれてくることを祈るべきだと思います!」
私は来た時と同じく、走って温室から出ていった。