162 始動
それから数日後。お父様は、体を引きずるようにして王宮から帰ってきた。
「お父様……」
「すまない」
「……そうですか。ではやっぱり私は御典薬に……」
「いや、とりあえずそちらは学園卒業までは待ってもらえる事になった」
私は首を傾げる。
今日お父様が王宮へ行ったのは、『よいよい』という王様から御典薬の話を辞退するためのはずだ。私達の話し合いでは、学園卒業までは固辞する事が最終的な着地点だったはずだ。それが成し遂げられたというのに、どうしてお父様はこんなに暗い顔をしているんだろう。
「……家庭教師の件だ」
「家庭教師?」
確かに私に必要だという話はしたけれど、それがいったいどうつながるのかしら?
「お前と同じ歳の王子がいるのは知っているな?」
「はい。第二王子でございましたね。たいそう優秀な方だとか……」
嫌な予感がする。
「その王子と一緒に、週に一回、魔法学の授業を受けて欲しいとの事だ」
やっぱり。
「どうしてですか? 学園に入ったら、どのみち魔法は学ぶのでしょう?」
「お前が紫の塔で魔法を使っていたのを、王が知ったからだ」
………………自重しなかった私が悪かったのですね。でもいくら暑さがだいぶ和らいだとはいえ、体をきれいにしないと寝れませんでした。スフィラの持ってきたタライの水は、半分以下になっていたんですよ!
「……断る事は?」
「無理だ」
「……いつからですか?」
「来週からだそうだ。頼む、ユリア」
懇願するお父様の顔を見ていると、ダメだとはどうしても言えなかった。
「分かりましたわ」
と、扉がノックされる音がした。
「伯爵様、馬車にお忘れ物が……」
「まぁ! アラン!」
照れたような顔のアランが、胸に手を置いて私に挨拶をした。
「久しぶりね」
「はい。お嬢様が王都に戻られているのは知っていたのですが、私のような者がわざわざ挨拶にお伺いしてもよいものかと躊躇しているうちに、日がずいぶんたってしまいました」
「いいのよ。今日は、お父様の護衛だったの?」
「はい」
アランは誇らしげに目を伏せる。
気付け薬の副作用で私を盲信していたアランだったけれど、本当はお父様に忠誠を誓った護衛だ。これが普通だというのに、少しだけ寂しい気がする。でもアランの変化はそれだけではないような……。あの仮面のような爽やかさはなく、もっとどっしりとした安定感のような者を得たような……。あ!
「そういえば、アランは今はご自宅から通っているのかしら?」
「ええ、そうです」
少し顔が赤らむのが分かった。仕事人の顔から、一気に家庭人の顔になる。とても幸せそうだわ。
「確か奥様は妊娠中だとか……。そんな大切な時期に、アランを長く引き留めてしまって奥様には大変申し訳なかったわ」
「いいえ。妻は慣れていますから」
そうえいばアランの義父も護衛だったのだ。
「奥様のお加減は大丈夫なのかしら?」
「ええ……。まぁ……」
すっきりとしない返事。何か不安があるのかしら?
「アラン。私は産婆ではないから出産の専門家ではないわ。でも薬師として出産に立ち会った事や、つわりなどのつらい症状を和らげる薬を処方した事はあるの。もしよかったら、後で診察させてくれないかしら?」
「そ、それは……。ありがたいのですが……、ご迷惑では?」
「いいえ。せっかく組合登録した薬師になったというのに、いろいろと問題があって薬師としての仕事はまだできないの。だからアランの奥様を診察するのは問題ないわ。でも……そうね。こんな子供が薬師面して診察だなんて言ったら、奥様はびっくりされるでしょうね。だからお見舞いって事でいいかしら?」
「もちろんでございます!」
アランは朗らかに笑った。そのアランの向こうでキョトンとした顔をしているのはお父様だ。
「ユリア……。いつの間にアランとそんなに仲がよくなったのだ?」
「それは……」
説明するのが面倒だ。
「秘密です!」
唇に人差し指を当てる。何故かお父様は、いっそうあわあわしながらアランに迫った。
「い、いったいどういう事なのだ⁉」
アランは私をチラリと見ると、目は笑ったまま口角だけをグッと下げて「秘密でございます」と言った。
「お父様。アランに追及するのは止めてくださいね。アランは護衛として守秘義務を通しているだけなのですから」
「ううむ……」
納得行かないような顔のお父様であった。
そしてさらに数日後。
「お嬢様――!!」
庭のティーテーブルで本を読んでいる私は、ド――ンという衝撃を腰に受けた。
「会いたかったですう!!」
腰からどんどん上に向かって頬を擦り付けられるこの感触……。
「ミーシャ⁉」
「はい。お嬢様の忠実な侍女、ミーシャです!」
そういうとミーシャは私のささやかな胸に顔をうずめた。
「ちょっと、くすぐったい。止めなさい!」
「わあい、お嬢様! お嬢様のにおい! お嬢様の弾力! お嬢様の……」
「ふぉっふぉっふぉ! それくらいにしなされ、ミーシャちゃん。ほれ、そこで王都侍女長が睨んでおりますぞ!」
ミーシャの後を追いかけて走ってきたのが孫のヘンゼフの肩に乗った、領地執事長のヨーゼフだ。
ヨーゼフの言葉で、ミーシャは「ひゃっ!」と叫ぶと、ティーテーブルの側で呆然としたまま佇んでいる侍女長を見て顔を青ざめさせた。ミーシャの他に侍女がいなかった領地と違って、ここは侍女もたくさんいる王都である。執事長のように、侍女を取りまとめる侍女長もいる。いくら私専用の侍女とはいえミーシャも王都では、分別をわきまえて仕えなくてはならないのだ。
「ミーシャ、よく戻ったわね」
「はい。専属でありながら、お嬢様をお一人にさせてしまい、申し訳ございませんでした」
メイド服の裾を手に持ち、軽く膝を引きながら頭を下げる。実に優美な侍女の姿だ。……さっきまでとは違って。
「ヨーゼフとヘンゼフも来たのね。領地の方はいいの?」
「どのみち、こちらにも顔を出さないといけなかったところでございます」
「そう。セドリックには会った?」
「挨拶だけはしました」
そして人形のような微笑みを浮かべて側に控えるミーシャに、残念そうな視線を向ける。
……ああ、ミーシャが暴走しちゃったから、セドリックとは挨拶だけをして追いかけてきたって事ね。
私は事情は分かったと、ヨーゼフに頷いた。
「ヘンゼフは?」
「僕はお嬢様の側仕えです。お嬢様のいるところに行きます!」
うん。カッコいい事を言っているけれど、目線はミーシャに向いている。ミーシャは私の専属侍女だもの。私のいるところにはミーシャもいるものね。はいはい。
「それにしても、事情は道すがら聞きましたが……。なんとも大変な目に合われましたなあ」
「そうね……。実は紫の塔自体はそう大変でもなかったの。でもその後が……」
「その後……で、ございますか?」
「ええ。でもここではちょっと」
さりげなく侍女長に目をやる。
旅に同行した護衛隊や領地の側仕えと違って、王都の使用人はやり直し以前の私の姿を強く印象に残している。私の変化に多くの使用人はどうにか折り合いを付けたようだが、侍女長は普段はお母様付きをしているせいか、私の変化を良しとは思っていないような気がする。もちろん表立って非難される事はないが。
私はお母様へどう報告されるかを恐れたのだ。
お母様とは冷戦状態が続いている。
あれだけ仲のよかった母子なのに、今の私はお母様にとって聞き分けが悪く、何を考えているのか分からない娘になってしまった。私も、勘当の時に私を見捨てたお母様を許す事ができないでいた。まだ起こってもいない事だというのに。
結局、自室に帰ってから話の続きをして、王子と魔法学の勉強をする事になったというところでミーシャは、
「さすが私のお嬢様!」
と飛びついて、今度は頭のにおいをハスハスとかがれた。
……ヨーゼフ! お願いだから、ミーシャを止めて~!!
-王子様と一緒?
-家庭人アラン
-ミーシャの帰還
ミーシャが帰ってくると、途端に話しが軽くなります♪