116 海辺の街へ
更新時間を大幅に遅れまして申し訳ありませんでした。
夏バテです。みなさん、お気をつけください。
☆1
「ユリアちゃん、見えて来たわよ」
ガラゴロと音を立てて走っている幌付きの馬車の御者台から、ガウスが私達の乗った荷台のカーテンをペラリとめくり顔を出す。カーテンの隙間からもれたカッと照りつける太陽のあまりの眩しさに、思わず日差しを手で遮った。
「ユリア、見てみろ! 海だぞ!」
ガウスが開けたカーテンの隙間をさらに大きく開いて、クラリッサ様が御者台に身を乗り出す。
「クラリッサ様、そんなに身を乗り出すと危な……」
馬車がカーブにさしかかり、クラリッサ様を引き留めようとしていたミーシャの方が荷台の中でゴロゴロと転がった。思わず駆け寄る。
「あいてててて……」
「だ、大丈夫、ミーシャ?」
「はい、まあなんとか……」
ふわりと荷台の換気口のカーテンが風で揺れ、外の景色が目に飛び込んで来た。
強い太陽の光を受けて輝く青い海。目の高さの水平線の上には白い入道雲。海から海へと旅をする大きな船と、魚を採る小さな船が危なげなく交差する。もっと手前に視線をやれば整備された貿易港を中心とした王侯貴族がこぞって宿泊する瀟洒な造りの高級宿や外国の料理を味わえる高級レストランが軒を連ねる中央街。そこでは海を渡って来た高価で珍しい商品や希少な魔道具を取り扱う商会もその並ぶ。特に目を引くのが荘厳な建物の教会だ。中では白いローブを着た司祭達が、神に祈ることより熱心に大金と引き換えに治癒魔法をかけて傷病人を癒していることだろう。
そんな裕福で上品な人々の集う中央街から少し行くと、地元の者が使う漁港がある。荒々しくも陽気な海の男達が昼間から酒を酌み交わし、女達はその男達の尻を蹴飛ばす光景が、毎日のように繰り広げられているはずだ。冒険者ギルドには荒くれ者が出入りし、市場ではシーサーペント肉の串焼きや、双頭タコを小麦でくるんで焼き甘酸っぱいソースをかけた料理など食欲をかき立てる香りに溢れ、旅人の足を引き留めていることだろう。
海辺の街・レバンツ。私が薬師として二十数年を過ごした街。街をはさんで反対側の森に私は住んでいた。
私が人生をやり直してほんの数か月だというのに、この街が懐かしい。第二の故郷だ。うきうきしたような、ほっとしたような気持ちになる。
私達は修道院から護衛隊と別れて、お忍びでダンとガウスの馬車でレバンツに向かっている。お忍びというのは、表向きは私は修道院で夏を過ごすことになっているからだ。
修道院での騒動の直後、お父様からのオルシーニの街にしばらく戻らぬようにとの伝言を持ってヨーゼフとオルシーニの街の冒険者ギルド長のミードさんが現れた。オルシーニの街ではまだ「御使い」様騒動が完全に鎮静化していない状態で信仰に篤いベアトリーチェ叔母様が王都から帰ってきたからだ。このままではどんな難癖をつけられるか分かったものではない。それを心配しての事だった。
私は即座にそれならばダンの妹の治療のためにレバンツに行くことを希望した。もとより、修道院で護衛を撒くか説得してレバンツに行くつもりだったのだ。それにお父様の許可が加わっただけにすぎない。それでもその許可のおかげでいろいろとスムーズに事が進んだ。
お父様が私がレバンツに行くと選択した場合に出してきた条件がいくつかある。一つは、私が表向きは修道院で一夏を過ごすということ。堅固に守られた女性だけの修道院にいつまでも男がいるのは不自然と、アランを含む護衛隊は家紋の入った馬車ごとオルシーニの街に帰らされた。護衛隊は領地での任務が長くなりすぎている。きっとすぐに王都に戻るのだろう。
二つ目。オルシーニ伯爵令嬢だということがこれから会う人々にバレないようにすること。表向き、私は修道院にいることになっているのだ。それなのに行く先々でユリア・オルシーニ伯爵令嬢と名乗ればいらぬ問題を引き起こすだろう。今の私はユリア・オルソ。ユリアは創造の女神と同じ名前でありふれているため目立たず、オルソというのはブルーノ叔父様の家名で裕福とはいえ平民の家柄だ。何か問題が起こった場合は、叔父様のところに連絡が行くようになっている。
三つ目はお目付け役のヨーゼフと安全のために冒険者ギルド長のミードさんと一緒に行動すること。もっともミードさんは忙しいギルド長である。そんなに長く一緒にいることはできない。レバンツの冒険者ギルドに引継ぎをする予定だそうだ。ダンとガウスがそのまま護衛をしてくれればいいのだが、定期的に受けている依頼を先に片付けないと評価を落としてしまうそうだ。
私はすぐにその三つを承諾してレバンツへ行く準備を嬉々として始めた。アランは反対したが、ヨーゼフの説得で他の護衛隊と一緒にオルシーニの街へ帰って行った。ちなみに後でアランにヨーゼフがどうやって説得したのかを聞いたら青い顔で「力で……」って言っていたけれど……。なんの力かしら? 説得力? 包容力? ともかくさすがはヨーゼフだわ。
そのヨーゼフだが、修道院で魔力栓塞の治療を終えていた。
オークアップルの中にあるオーク虫の卵を中心に藍色の薬とその他の薬草、魔物からの素材や魔石などを材料として作った薬。それをヨーゼフに注射する。体内に入った薬は、体中を巡る。オーク虫の卵は魔力を与えた人の意志で動く。リンドウラ・エリクシルの仕上げの儀式でも同じだった。それを今度は酒樽の中ではなく、人の体の中で行う。治癒魔法を行う中、その魔力の通り道についてもよく知っていたクラリッサ様は、酒樽と違い目に見えない人体の中でも思うように卵を動かすことができた。
卵はヨーゼフの体内で詰まっていた魔力の塊を溶かし浄化していった。藍色の薬で重い心臓病のような症状が軽減されていたヨーゼフだが、これで魔力栓塞の病が完治したのだ。
すっかり元気になったヨーゼフは、馬車には乗らずに馬に騎乗しているミードさんの後ろで反対向きに座っている。その手元には、一本の綱が握られていた。
「孫や~。足はそんなに高く上げずに、地面を滑るように走るのじゃよ」
綱の反対側は、ヘンゼフが持っている。背筋はピンと伸び、指先まで神経が行き届いた動きで、口元にはかすかな微笑みまで浮かべている。そしてその歩くスピードは小走りする馬とも変わらない。
修道院を出た時は筋肥丸の効果が切れて脂肪の塊になって自分の重さで動けなくなっていたヘンゼフだが、ヨーゼフいわく「地獄のマッサージ」によってすぐに元の体形に戻った。もっともマッサージ中のヘンゼフの悲鳴は、聞いた者みんなの悪夢に出てきそうな悲壮なものだったが……。
その後、ヘンゼフはヨーゼフに『ドゲザ』して指導申し出た。なんでもヨーゼフが死にかけた時に、いろいろな技術を教えてもらっていなかったことを後悔したからだそうだ。立派な執事になるための特訓(?)が始まった。執事になるってこんなに大変なのね……。
かくして私とミーシャ、ヘンゼフとヨーゼフ、ダンの治療に必要なオークアップルを持ったクラリッサ様とその従魔であるオーク虫の女王レジーナ、そして護衛のミードさんともともとレバンツに帰る予定のダンとガウスの八人+一匹。海辺の街レバンツまであとほんの少しだ。