96 襲われたミーシャ
「大丈夫、アラン?」
まだ体のだるそうなアランが後れをとる。そういえばダンはアランの体調不良の原因について何も言っていなかった。どうしたんだろう? ミーシャもそれに対して何も言わない。
アランはいつもと違って、目を合わせずにそっけなく「大丈夫です」とぶっきらぼうに答えただけだった。
院長を横抱きにしたダンが、院長は自室で休ませた方がいいと提案した。確かに、傷口はふさがったが、安全な部屋でゆっくり休ませた方がいい。アリーシア先輩から治癒魔法をかけられた院長がペリグリにかかっているとは考えづらいが、確信はない。鍵のかかる部屋にいた方がいいだろう。
しかし院長の部屋も分からず、まずは大食堂に行った。
「私も診察をしたいわ」
「ああ、そうしてやってくれ。俺も行こう。様子が変わっているかもしれない」
ダンは院長を護衛の一人に任せ、先に院長の自室へ運ぶように依頼した。珍しいことに、アランは「自分も行く」と言い出さなかった。
「ミーシャちゃんは、外で待っていた方がいいな」
「私は、もう二度とお嬢様と離れるつもりはありません!」
ぐるるる、とミーシャはダンに歯をむく。離れていた間に、私が死にそうになったことが相当こたえているようだ。ダンは困ったと、上を向いた。
「ミーシャ、あなたの血の臭いが問題なのよ」
「血の臭いですか?」
「ええ。顔の血はぬぐって拭き清めて、傷を脂で覆ったとはいっても、服にはまだ血が付いているわ。思い出して、大食堂にいる患者さんは、吸血症状が出た人ばかりでしょ? そんな人たちの間に、血の臭いをぷんぷんさせて入ったら……」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
ミーシャは、片足を後ろに引いてスカートの裾を持ち上げて礼をした。見事な変わり身だ。
「はいはい。大丈夫だと思うけど、気をつけてね」
「はい」
「アランもよろしくね」
「……かしこまりました」
本当にアランはどうしたんだろう。大食堂の扉をくぐった時に、ダンに聞いてみた「男にはそういう時がある」と訳の分からないことを言ってごまかされた。
私の意識がない間に現れた吸血症状の患者達は、精神症状も出ており、白目の部分が真っ赤に充血し、歯をカチカチいわせて、獣のようなうなり声をあげている。そして、手足をしばられているため床の上をのたうち回る。見ていても、目をそむけたくなるような光景だ。
それにしても、ダンの話では確か吸血症状の患者は百人のうちの一割、つまり十人ほどのはずだが、今は三十人ほどに増えている。
この場にずっといた護衛の話では、一時落ち着きを取り戻していた患者達の状態がまた悪化し、多くの者が吸血症状を発症して、大食堂に戻されたらしい。そして、居室にいる者達の実に半分以上に、吸血症状こそ出ていないものの、皮膚が赤黒く変色している者がいるそうだ。
「全員が発症するのも、そう遠くはないわね……」
「そうだな……」
私は護衛達に守られながら診察をした。皮膚の変色はもちろん、頻脈、血圧上昇、血管の怒張など様々な症状がある。そして、どの患者もひどくやせ細っているのに気が付いた。最初に発症した人は髪も艶がなく、バサバサして、爪も割れていた。患者のふくらはぎを触ると、筋肉がなくなり、皮がたるんでいた。
「最初から、こんな状態だったの? ……まるで急にやせ衰えたみたい。他の人もそう」
ダンは顎に手を置いたが、すぐに頭を振った。
「いいや。俺が見たときは若めの普通の女性といった感じだったが……」
「これじゃまるで……」
「まるで?」
私は首を振る。
「考えがまとまらないわ」
ダンが、コップに白い液体を入れて差し出した。
「これを飲ませてやってくれないか?」
「牛乳……?」
「ああ、たんぱく質欠乏なら、血液じゃなくてもいいはずなんだ……」
ダンが患者の体を起こし、噛まれないように用心しながら、少しずつ牛乳を口の中に流し入れていった。効果はすぐさま現れた。上を向いて白目になっていたままの目が、すっと下りてきて目が合った。獣のようなうなり声も消えて、何が起こっているのか分からないという不安な表情を浮かべる。ところが、あっという間に、そのつかの間の正気は消えて、また元のようにうなり始めた。
「一応の効果はあるみたいだな……」
「ええ。でもコップ一杯の牛乳じゃ、すぐに効果はなくなるみたい……でも有効なのは確かだわ」
すぐに護衛に、庭の宿舎から脱脂粉乳のあるガシリスクの荷物を大食堂に運び入れ、患者達に与えるように命じた。これで、楽になるといいのだけれど……
「さあ、次はクラリッサ様の様子を見に行くわよ。確か、自室にいるのよね?」
クラリッサ様の名前を聞いて、少し顔をひきつらせたダンが頷いた。大食堂を出るダンの後を追いかけて、その表情の訳を聞こうとしたときに、異変が起こった。
先を行っていた護衛の一人が、ミーシャを見て急に立ち止まったのだ。他の護衛に先をせかされているのに、一向に動く様子がない。
その様子がおかしいと思ったときには遅かった。
護衛は、グリンと白目を剥き、唸り声をあげて、ミーシャの肩をつかみ襲い掛かり、ぐわっと大きな口を開く。
「きゃああああ!」
呆然と成り行きを見守っていた護衛達は、ミーシャの悲鳴で我に返りその護衛を押さえつける。その時には、ミーシャは押し倒されて、頭の包帯もずり落ちていた。
三人の男に押さえつけられながらも、まだミーシャを襲おうとその護衛は暴れている。
「ミーシャ、大丈夫⁉」
「お、お嬢様~」
えーーん、と声を上げて泣くミーシャをぎゅっと、抱きしめる。ミーシャは私の腕にすがってさらに泣き声を上げた。
何が起こったのだろう?
護衛の様子を見て、さっきまで診察していた患者と同じなことに気が付いた。
「その護衛の上着を脱がせて!」
抑えつれられた護衛の上着の下からは、背中から肩にかけて赤黒い皮膚の変色が起こっていた。
「どういうこと? 下痢嘔吐を含めて、発症したのはリンドウラ・エリクシルを飲んだ人だけだったはず。彼も飲んだっていうことなの⁉」
「いいえ! そんなはずはありません!」
強い口調で反論したのは、悪かった顔色をさらに悪くしたアランだった。
「彼は、酒を好みません。リンドウラ・エリクシルを飲んだはずはないんです」
「じゃあ、もともとの原因はリンドウラ・エリクシル以外だってこと?」
今度はダンが答えた。
「いいや。あれから、さらに調べた結果、原因はリンドウラ・エリクシル以外考えられない。少なくとも、この修道院で起こった、最初の体調不良は」
あ……と、アランが息を吐きだす。
「彼は……、彼は最初に発症した女性に噛まれた患者の世話をしていました。でもその患者も発症し、噛まれてしまいました」
「!!!」
私とダンは、バッと顔を見合わせた。
「感染!」
「感染経路!」
カイヤが言った通りに、この症状が人から人に感染したのだ。そしてその感染経路は発症した患者の唾液が体内に入る事! それもリンドウラ・エリクシルを飲んで発症するよりも噛まれて発症する方がずっと早くに進行するようだ。
私の頭の中に、「感染」という文字が点滅し、冷汗がどっと噴き出て来た。腕の中のミーシャの肩をつかみ、顔を近づける。
「ミーシャ……噛まれた?」
ところが、ミーシャは目に涙を浮かべ、ふるふるとかわいらしい首を振った。
「私、私……、もうお嫁に行けません~あ、あの護衛さん、わ、わ、私のおでこを舐めたんですよ!」
「おでこ? え? 舐めただけ?」
「そうです」
ミーシャの額は、包帯を外され、傷を覆っていた脂も舐めとられていた。あらわになった傷口からは、また血があふれ出している。わざわざ噛まなくても、脂さえなくなれば吸血できるということか……。
でも傷をなめられたということは、唾液がミーシャの体内に入ったということ。
「彼が噛まれてから、どれくらい経った?」
「確か、二時間も経っていないかと……」
ダンがうめいた。
「そうか……、噛まれた方が早くに発症するんだ。それが村と修道院の発症時間の差か……」
めまぐるしく、頭の中で情報がつながる。ダンから聞いた吸血発症により全滅した村の情報、修道院で起こった症状、発症人数、発症時間……。
ふいに、何かが頭の中できらめいた気がする。サンキャッチャーの光のように、つかみどころのないその光に手を伸ばすが、何も手にすることができない。
『発症した患者の唾液が体内に入る事によって感染?』
『下痢嘔吐が発症したのはリンドウラ・エリクシルを飲んだ人間だけ?』
『まるで急にやせ衰えたみたい』
『カイヤの調合室にあったキラースクイッドの発注書と、リンドウラ・エリクシルの空き瓶』
今まで手にしたヒントが頭をめぐる。
ハッと息を飲んだ。
そしてミーシャの顔をグッとつかんで、目の前に持ってくる。ミーシャが、いたた、と騒ごうが関係がない。
ねえ……と、ミーシャの目を至近距離から見つめる。ミーシャの夜明け前のような紫色の瞳がしばたいた。
「なんで、発症してないの?」
「へ?」
ミーシャは間抜けな声を出す。
「あなた、昨日、リンドウラ・エリクシルを飲んだわよね?」