94 ミーシャの額
この部屋にいつまでも院長とアリーシア先輩を残して置くこともできないので、ダンにお願いして二人を他の部屋に運んでもらうことにした。アランが体調が悪そうなので、ダンには二回往復してもらうことになる。先に運んでもらうのはアリーシア先輩だ。その間に院長の診察もしておかなければならない。
幸い、院長は背中は赤ちゃんのようなピンクの皮膚ができていて、特に問題はなさそうだ。貧血と魔力切れはあるだろうが、鴆の麻酔の効果か、それほど苦痛な表情も浮かべていない。今必要なのは、休息だろう。
アリーシア先輩が寝ていたソファーには、アランを休ませる。アランもダンと一緒に下がって休んでいてもらってもいいのだけれど、しばらくここで休めば大丈夫だといって聞かない。カイヤはきっともう遠くに逃げただろうが、私としてもまだ恐ろしさが残っていて、たとえ体調が悪くても、剣の腕が立つアランにいてもらった方が安心だった。
「さて、ミーシャ。あなたもアランの横に座って」
「ええ、何でですか? 私、なんだってお嬢様のお手伝いをします!」
「とは言っても、額から血がまだ流れているわよ。治療しないと」
「お嬢様が、手ずからですか?」
「もちろんよ。誰が治療できるっていうの?」
へへっと、顔を緩ませて、ミーシャはアランの横に座った。アランは固い表情になったが、何やら小声でミーシャが囁くと、小さく首を振って、自分の膝の間に顔をうずめた。
……私の意識がなかった間に、二人になにがあったんだろう?
石の床にぶつけた額の怪我は、水でよく洗い流して、調合室にあった治療用の清潔な布を、ミーシャ自身で傷に押し当ててもらっていた。額は毛細血管が多く、派手に流血しやすい。その場合、まず最初にするのは圧迫止血だ。かなり痛いようだが、涙目になりながらもミーシャは黙って耐えている。
その間に、私は洗ってあるタオルを水に浸して、ミーシャの額以外の顔と首、手などの血を優しく丁寧にふき取る。ミーシャはくすぐったそうに、身をよじる。
「まったく、こんなに血を流して。女の子なのに」
ガーゼを外すと、血は止まりかけていたが、このままでは傷跡が残る。一度閉じた傷口は、傷薬でも治癒魔法でも元のきれいな皮膚の状態に戻すことはできないからだ。
ちらりと自分の薬箱を見るが、傷薬はすべて院長に使い、スラ玉の接着剤で傷をくっつけようにも効果が強すぎて反対に肌を傷める可能性がある。仕方なく私は、この調合室の棚に目を向けた。カイヤの作った薬はどんなものであっても使いたくはないが、素材だけなら使えるものがあるかもしれない。
調合室で一番大きな扉付きの棚。多分、そこが素材の収納場所だろう。そう予想して開ければ、やはりその通りだった。
カイヤの性格なのか、素材の一つ一つがケースに入ってほんのわずかなズレもなく整頓されており、それぞれラベルが貼られていた。素材によって乾燥させられていたり、魔道具を使って生のまま保存されていたり、凍らされたりしている。ラベルには事細かに、採取日、採取方法、加工方法、効能、副作用などが神経質な字でびっしりと書かれている。
「よかった、あったわ」
私が探していたのは医療用の脂だ。その脂は馬の魔物から採るもので、人間の脂に近い成分でできているため、肌に浸透しやすく、空気が遮断されるために怪我でむき出しになった皮膚が酸化しにくい。そのため、かさぶたになることなく内側から傷をなおすことができるのだ。
本当なら、ミーシャのために傷薬を作ってあげたい。そのための素材も、この調合室には揃っていた。でも、今の私は、カイヤのせいで魔力がほとんどない。魔法なしに薬を調合するには、何日もかかってしまう。だからこの方法で、傷を治すしかないのだ。
「ミーシャ、この脂を傷に塗るわね。ちょっと変な感じがするかもしれないけれど、我慢してね」
「はい!」
ミーシャの額の傷に脂を厚めに塗る。さすがに染みたのか、ミーシャは小さく悲鳴を上げ、膝の上の拳を震えるほど強く握りしめた。
脂を塗り終えると、治療用のガーゼで厚めに傷を覆い、それの固定のために、包帯で頭をぐるぐると巻く。
そんな姿だというのに、美少女は得である。痛々しい雰囲気が、はかなげに美しく見せていた。
「いいと言うまで、そのまま休んでいるのよ」
今度はミーシャも、黙ってソファーの背もたれに体を沈めた。
アランとミーシャにはそのままソファーで休んでいてもらって、私は調合室の探索を続ける。
「まあ、こんな高価な素材を置いていくなんて……」
その素材は観賞用としても人気があるため、希少ではないが、かなり高価だ。保管用の魔道具も、売ればかなりの金額になるだろう。それを持って行かないとは、カイヤの目的は本当にレシピだけで、金ではなかったのだろう。それとも、こんな高価な素材を簡単に放り投げて行けるほど、カイヤの『一族』は相当な資金を持った組織なのだろうか。
棚の中には、カイヤが作った薬も多く残されていた。ラベルにはその薬の名前とそれを必要とするときの症状が書かれている。薬問屋で一般的に見かける薬も多いが、聞いたことがない薬も多い。
その薬瓶の中に、見たことのないピンクの薬の入った薬瓶があった。ふたをあけて、慎重に臭いをかぐ。
「これだわ……」
私が飲んだお茶に入っていた薬だ。蜜のような甘い香りがする。
私はレシピを知らないが、この魔力を放散させる毒も、命を奪う毒も見つかった。どちらの毒も、薬師組合は禁制品に指定されているものだ。この毒を所持している者は、薬師組合からは追放され、司法からも裁きを受けることになる。
それを、処分することなく堂々と置いていくなんて……。カイヤはもう表舞台に出るつもりはないのかもしれない。いまさらながらに、カイヤが恐ろしく鳥肌が立った。
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