89 発症
暗黒展開です。
ミーシャの目が釘付けになったのは、大食堂のちょうど中央にいた患者だ。彼女は、ゆらりと立ち上がった。そして虚ろな表情のまま、ぐるんと首を回した。
「ひい!」
その患者と目が合った、ミーシャが小さな悲鳴を上げる。
ユリヤが指摘した皮膚の変色は赤を通り越し、黒紫に変色していた。そして今やその範囲を全身に広げ、顔も腕もまだら模様のようになっている。そして本来なら眼球の白い部分が真っ赤に染まっており、その眼には、理性や感情といったものはすべてそぎ落とされていた。
「あれは……」
ダンの呟きに、アランが反応した。
「知っているのか⁉」
弾かれたように、ダンが叫んだ。
「みんな、離れろ! その女性の側から離れるんだ!」
「「え?」」
呆然とその女性を見ていた、周りの患者達の反応は鈍い。しかし、護衛隊は素早く動いた。次々と、患者達を引き離す。顔を黒く変色させた女性は、それを感情の欠落した顔でぼうっと見ていた。ダンの指示通り、その女性の周りから人を離すことができたかと思いきや、一人の患者が護衛に強い拒否を示した。
「やめて! 触らないで! 男になんか……」
その瞬間、顔の変色した女性が急に獣のような叫び声を上げて襲い掛かり、その女性の肩に歯を突き立てた!
「きゃああああ!!!」
絹を引き裂くような悲鳴の中、すべての人が動くこともできずに、ただ呆然と見ていた。そして次の瞬間、悲鳴の連鎖が起こった。正気に戻った護衛隊は、今度こそ噛まれた患者を抱きかかえて、遠くに引き離した。体の動く者は、必死な顔をして弱った体をなんとか動かして出口に這うよう向かう。
「アラン、扉を閉めさせろ! 誰も出すんじゃない!」
ダンが叫ぶ。
「なんだと! そんなこと……」
「ぼうっとしている暇はない!」
ダンは、アランの胸倉をつかんだ。
「いいか、よく聞け。次々と発症者が出て、ここは血の海になるぞ」
アランは、ごくりと喉をならした。そして、護衛隊の者に命じて扉を閉めた。室内では、護衛隊に対して怒りの声と、悲鳴が起こった。
一方ミーシャとアリーシアは、噛まれた患者のところに駆け寄った。肩を噛まれ、血で服を真っ赤に染めて、痛みからうめいている。
「大丈夫? 今、治癒魔法をかけてあげるわね。少し我慢していて!」
思わずアリーシアが、魔法を引き出す呪文を唱えかけた。従魔のリフが、それを邪魔するように、顔の前でうねった。しかし、集中しているアリーシアは、無意識にそれを払いのけた。その手をつかんだのがミーシャだ。
「待ってください、アリーシア様!」
「何故止めるの? この人、血を止めないと死んじゃうわ」
「でも、アリーシア様はあと一回しか治癒魔法を使えないんですよね?」
「そうだけど……、でもこの人の血を止めないと」
「周りをよく見てください。病人だらけです。それに、どうしてあの女性がこんなことをしたのか分かりません。もしかして、ダンさんのいう毒の影響だとすると……」
ミーシャはハッと口をつぐんだ。
「どうしたの?」
「あの女性みたいに、襲いかかる人は次から次へと出るかもしれません」
アリーシアも、目を大きく開いた。
しかし足元では、噛まれた患者が痛みにうめいている。
「でも……この人を放っておくことなんてできないわ」
アリーシアが途方に暮れたように呟く。それをミーシャが冷静に受け止めた。
「ええ。その通りです。まずは傷を見てみましょう」
「え……ええ」
噛まれた患者の衣服をめくりあげ、傷口を覗き込んだ。噛まれたのが肩だったのが幸いした。固い筋肉と、骨で阻まれて、大きな血管は傷つけていないようだ。出血ほどひどい怪我ではない。ミーシャとアリーシアは、ホッと息をついた。
ミーシャは、近くに置かれていた看護用の布を固く畳んでその傷に押し当てた。
「少し、痛いけど、我慢してください。これで圧迫止血をします!」
「ぐうう!」
患者は痛みに悲鳴を上げ、気を失った。
◇◇◇
ダンは床に落ちた血を舐めるのに夢中になっている女性の背後に忍び寄り、どこかから持ってきたロープであっさりと手足を縛った。自由を奪われても、床の血をぴしゃぴしゃと音をさせて舐めている正気ではないその様子に、誰もが気味悪げな視線を投げかける。
次のダン言葉に、患者だけでなく、護衛隊も悲鳴を上げることになった。
「まだロープはあるか? ここにいる全員を縛りあげるぞ」
「おい! どういう事だ? 全員を縛りあげる必要なんてどこにある⁉」
アランが肩を怒らせて割って入った。
「説明はあとだ! 急げ!」
「お嬢様の命でもない限り、嫌がる女性たちを縛り上げることなんてできない!」
「そんな場合か!」
「せめて、ここにいるみんなに事情を説明してやれ!」
アランに怒鳴られて、ダンは自分に向けられた多くの視線に気が付いた。そのどれもが、恐怖を表している。ダンは一瞬にして、冷静に戻った。
「すまない……。でも、時間がないのは本当なんだ。みんながかかったのはただの食中毒じゃない。だからと言って、どういうものかもよく分かっていない。すまないが……」
患者達は、互いに顔を見合わせて、ざわざわとする。ダンは、下を向いた。
「冒険者仲間から聞いた話しだ。彼は依頼を受けて辺境を巡回している最中だった。彼は暗闇の中、魔物の集団に襲われて、その集団を返り討ちにしたそうだ。夜が明けて、その魔物をよく見てみると、それは魔物じゃない……。人間だったそうだ」
いつの間にか、誰しもがダンを熱心に聞き入っていた。
「その冒険者はともかく、近くの村に連絡をしなくてはと、死体を置き去りにして走ったそうだ。少しばかり行ったところに村はあった。けれども、誰一人いなかったそうだ。村を探索すると、地面が黒く染まっており、ぶんぶんと蠅がうるさいところに行くと、互いに襲いあっているとしか思えない形のまま絶命している村人を見つけた。それでそこが、自分を襲った人々の村なのだと分かったそうだ。生存者がいないかと探すと、櫃の中に小さな子供が隠れていたそうだ。その子を近くの冒険者ギルドに連れて行き、その子の報告と自分が見た事を報告した。しかし、冒険者ギルドでも、役所でも、あまりの悲惨過ぎる話にその証言は信憑性がないとされた。そして魔物が村を襲ったのを思い違いをしたのだろうと結論付けられた」
ダンは、キッとまなじりを上げた。
「その子供の報告によると、その村で最初に起こった症状は、嘔吐、下痢だそうだ。そしていったん症状が落ち着いたかと安心した後に、皮膚が赤黒く変色して、正気を失う。そして……人を襲って血を飲む!」
人々は身じろぎ一つしなかった。その言葉を証明するかのように、ぴしゃぴしゃと床の血を舐める音だけが響く。
「噛みつかれた方は、柔らかい首に噛みつかれたら失血死もありえる。そんなのは、やられる方もやる方も嫌だろ? 発症したからと言って、超人的な力が出るわけじゃない。だから手っ取り早くそれを防ぐには手足を縛りあげるしかないんだ! 頼む! 次に人に噛みつく患者が出るのはいつか分からない。だからそういう症状が出る前に全員を縛らせてくれ!」
誰も動こうとはしなかった。皆、ダンの話に理解が追い付かないのだ。しかし……。
「私も……仲間に襲いかかる……可能性が……あるのですか?」
一つの弱々しくしわがれた声が上がる。その声を発したのは高齢の修道女だった。彼女は出口に逃げる体力もなかったため、大人しく成り行きを見守っていたのだ。
「ああ……」
「治療法はあるのですか?」
「……分からない」
ダンは気の毒そうに目を細めた。
「そうですか……。それでもいいです。私を縛って下さい」
「……いいのか?」
「はい。私も、仲間を傷つけたくありませんから。きっとあの子だって本当はそう思っていたはずです」
そういってしわだらけの指を、床を舐めている女に向けた。
「そうか……。ありがとう」
「何を言っているんですか。お礼を言うのはこちらです。それに……完全に治ってからお礼をさせてください」
高齢の修道女は、こんな場面だというのに晴れやかに笑った。
「分かった」
そう言って、ダンはその女の手足を縛った。
「痛いですか?」
「ちょっと……でも大丈夫です」
ダンが振り向くと、いたるところで自分の手足を差し出す女達がいた。目を丸くするダンに、高齢の修道女は誇らしげに言う。
「ここの女達は、外の世界に耐えられなくて逃げ込んだ者が多数ですけど、逃げたからといって弱いわけではないんです。仲間のためなら、強くなれるんです」
「そうか……」
ダンは、眩しそうに微笑んだ。
全員を縛りあげるのに、そう時間はかからなかった。しかし、次の発症者はすぐに出現した。手足を縛っていたおかげで、正体を無くして獣のように吠えながら、体を揺するだけだが、その近くにいる者の恐怖はすさまじい。
「このままじゃ、精神がもたなそうだ……」
ダンが呟いた。
と、すぐ近くから、天上の音のような澄み切った声が、旋律を奏でた。古くからある、美しい讃美歌だった。
「アリーシア様……」
アリーシアとミーシャは噛まれた患者の側を離れていた。その患者は男性嫌いのようだが、とうに気を失っていたし、怪我の手当てならば護衛隊の方が適切にできたからだ。
「神を讃えよ 神を讃えよ その慈しみの腕に抱かれて
神を讃えよ 神を讃えよ その慈悲により御使いを送りださん
神は御使いにより 人々の病を癒し その心を癒した
神は御使いにより 人々に希望を与え その心を満たした」
その声に、一人、また一人と正気を保っている者が唱和していく。いや、正気を保つために唱和していく。いつしか人々から震えは消えていた。