86 忘れ去られた病気
カイヤが出してきたペリグリという病名は、確かにかすかに聞き覚えがあった。ただ、そんなにはっきりとは覚えていない。何故なら、この国では三百年近く発症者がいないからだ。私は曖昧に頷いた。
「今はわが国ではほとんどない病気ですし、私も書物で読んだだけで、それほど詳しくはありませんが……。確か、ペリグリは嘔吐、下痢、紅斑……つまり皮膚の赤い変色、それと神経の錯乱状態が起こるとか……」
私の返事にカイヤは目を輝かせた。
「ええ、ええ! その通りです! すっかり忘れ去られているはずの病気の症状をご存じだなんて! さすがお嬢様です。聞いていた通りです!」
「え? 聞いていた通り?」
「ああ……そう、
護衛の方に、お嬢様が素晴らしい薬師だと聞いたものですから」
取り繕ったようにカイヤはニコリと笑った。
「そうなの……」
誰かしら、話したのは。
その時、開いた窓から、ふわりと風が入ってきた。やはり【防護】の魔法はもう切れるようだ。今度は何かの臭いを感じた。……なんだろう? 何か知っている臭いのような? はっきりとは分からないが生臭さに思わず顔をしかめてしまった。
「あら、この臭いにお気付きになりましたか?」
「え……ええ」
「まあ、申し訳ありません。魔力回復ポーションを急いで作らなくてはならなくて……。その材料の臭いだと思います」
「そう……なのですか」
一般の魔力回復ポーションは下処理をしていない牛の大腸をドロドロにした味と臭いだ。私のレシピには使われていない素材の臭いなのだろう。私は寝不足と疲れに加えて、臭いのせいもあり、だんだんと気分が悪くなってきた。
「そういえば、護衛の方も臭いを感じないっておしゃっていましたけど……本当にそんな魔法がありますの? 羨ましいですわ。調合の時に臭いや薬剤被爆を気にしなくていいですもの」
それも護衛の一人が漏らしたのだろうか? 【防護】の魔法は一般的ではないが、アリーシアに教えたら、カイヤの調合の役に立ちそうだ。そう言うと、カイヤは喜んでくれた。
「話しが脱線してしまいましたね。お嬢様、申し訳ありません」
「いいえ、こちらこそ」
脱線させたのは私の方だ。しかし私には、このペリグリの話こそ脱線にしか思えない。
「あの……、ペリグリの話は興味深いのですが、今はそんな時ではないと思うのです。症状は確かに、当てはまるのですが、ペリグリの原因は、たんぱく質欠乏症ですよね? 昨日の祭りでは肉や魚、それに牛乳を使った良質なたんぱく質の料理が出ていましたから、ペリグリのはずがありません」
カイヤは一瞬鼻白んだような表情をしたが、すぐに微笑みを取り戻した。
「結論は、私の話を聞くまで、もう少し待っていただけますか?」
「え? ええ……」
「当初、ペリグリは感染症だと多くの医師、薬師に認識され、発病が見つかると隔離されていたそうです」
「感染症ですか……?」
感染症だと誤解されて、隔離されてしまうなんて、なんて不憫な……。
一般的に「感染症隔離」とは、家の場合はドアや窓に板を打ち込んで外から出入りできないようにし、村、街ごとの隔離の場合はぐるっと一周柵を設けて、その外を軍が取り囲んで出入りがないように封鎖するのだ。無理に範囲網から中の人が出ようとすれば、容赦なく殺される。しかし出入りができないので、治療もできない。そのため、状態が悪化して患者も、一緒に閉じ込められた者も亡くなる場合が少なくなかった。
「それも仕方がないことです。ペリグリの症状は、先ほどお嬢様が言った嘔吐、下痢、紅斑、それと神経の錯乱状態です。でももう一つ、稀に起こる症状があるそうなのです。それを当時の人々は『忌まわしき症状』と呼んでいたそうです」
その言葉を聞いた時に何故か、背中から虫が這い上るようなおぞましさを感じた。
「その『忌まわしき症状』のせいもあってペリグリを発症した患者がいる街や村は必ず封鎖隔離されて、病人だけでなくその周りの人々を合わせて毎年数百人もの死者が出ていたのだそうです」
「そんなに……」
その「忌まわしい症状」がどういったものかは知らないが、ペリグリがたんぱく質欠乏症だと知っていれば、人の出入りを規制するよりも温かく栄養のある食事を届けるだけで、病状は良くなったはずなのに……。
「そうそう、お嬢様はこの修道院が以前は刑務所だったことをご存じですか?」
「え……ええ。それが、何か?」
再び唐突に変わったカイヤの様子と話題に、付いていけない。何故だか先程から頭がガンガンと痛む。それでも、みなの症状が完全に回復するためならと、我慢して話を続ける。
「その刑務所では、ある薬師の一族がペリグリの研究実験をしていたそうです」
「研究実験? ペリグリの?」
「ええ。ある仮説を立てて、囚人から希望者を募り、実際にペリグリと同じ症状を出す実験をしていました」
確か、ペリグリの原因の発見者は、希望者に食事制限をして病気を再現させたそうだ。
「では、その薬師の一族が、ペリグリがたんぱく質欠乏症だと発見したのかしら?」
この修道院の初代院長と旅の薬師がエリクサーに近い薬を作ったのが三百年前。つまり、刑務所が廃止になったのは三百年前。そしてペリグリ患者が発生しなくなってから三百年。ちょうど符合する。
「いいえ。その反対です。その薬師の一族はペリグリが感染型食中毒によるものだという仮説を立てた実験をしていたのです。何かしらの病原体を摂取して、体内に毒素が発生して発症すると。そしてその病原体は人から人に感染するものであると」
「そう……。感染症ではないと気が付いたものの、それが栄養欠損だとは思いもしなかったのでしょうね。残念ね。せっかくの研究が無駄になっただなんて……でも、良くあることだわ」
そう、病気の研究をしていて、見事その治療法を見つけ出すのは、砂漠から一粒の砂金を探すようなものだ。
「『無駄』? 何を言っておられるんですかお嬢様。実験は成功しましたよ」
「え? 『成功』どういうこと? ペリグリはたんぱく質欠乏症だもの。感染型食中毒を原因とする実験が成功するわけはないわ」
「いいえ。成功したのです」
それまでとは、うって変わって妖艶な……悪魔のような微笑みを浮かべたカイヤは、ぞっとするような美しさだった。見てはいけない物を見たかのように、思わず目を逸らしてしまった。ところが、ふうっと重苦しいため息が聞こえてきて目を戻すと、先ほどの表情はすっかり消えていた。いったい、なんだったのだろうか?
前回で「こいつ怪しい!」と思われた皆さま……、勘が良すぎるでしょう!(笑)