お隣さん
私はいつかこいつを庇って死ぬんじゃないかと思う。わりと冗談抜きで。というのも、こいつ関係の揉め事を起こす女性の中には刃物等の危険物を所持している方が少なからずいるので、そのうち本当に刃傷沙汰になるんじゃないかと私は踏んでいるのだ。
「いい加減フラフラするのやめなさいよおお!」
新卒で社会人になって半年。今年の三月から住んでいるアパートの二階には、私のほかにもうひとりの人間しか住んでいない。のに、いつもとても賑やかだ。穏やかかどうかはともかくとして。
「なんで私だけにしてくれないのよ! なにがだめなのよおお!」
階段に一番近い二〇三号室は空き部屋だ。そして私は奥の二〇一号室を借りている。帰宅するためにはどうしても二〇二号室の前を通らなければならない。だが本日もその部屋の前は賑やかなので、帰宅活動は困難を極めていた。
「ちょっと待って。ねえ、落ち着いてよ。なに言ってるの?」
先ほどから女性の罵倒と唾を顔面に受けまくっても顔色ひとつ変えなかった男が、どうどうと宥めすかすように両手を彼女の肩に置いた。
「僕は誰のことも特別扱いするつもりはないよ? それなのに自分だけは特別だとか思ったの? すごい勘違いだね?」
あちゃーと額に手を置いた私に、ふたりはまだ気が付いていない。そばに行っても気が付かないような気がするし、たとえ気が付いても気にはしないだろう。
さらに興奮してきゃんきゃんと喚き散らす女性。うんうん、となんでもないような顔でそれを聞いている(本当は聞いていない)男。
私はアパートの階段のそばで立ち尽くしているしかなかったが、
「いつもいつもうるせーぞ痴話喧嘩なら余所でやれ!」
「すみません!」
不意に別の声がして、振り向かざるを得なかった。なんで私がこんなことしなければいけないんだ、と釈然としない気持ちを抱えながら謝罪する。一階の住人は一度怒鳴って溜飲が下がったのか、すぐ部屋に引っ込んでくれた。
しかし、どうにかしてこの修羅場を収拾しないとまた怒鳴り声が飛んでくる。そうすればいずれ大家さんに怒られて、このアパートにいられなくなる。私じゃなくて、この男が。すでに目は付けられているらしいけれども。
とそのとき、喚き散らしていた女性がパシンっと男の頬を引っぱたいた。おおっと、と私はとっさに歩み寄って、女性の腕をつかむ。男は痛い目を見てもなおしれっとしていたが、一方の女性は般若のような形相でこちらを振り向いた。その迫力に思わず言葉を失ったが、私はこの場をどうにかしなければいけないという責任感のみで言葉を発するしかなかった。
「奥の部屋に住んでいる者なんですけど、騒がしいので今日のところはお引き取り願えませんか」
「あんたには関係ないでしょ!」
「聞いてください」
私は女性の腕をつかむ手に力を込める。
「この男はそれ以上話してても腹の立つような言葉しか投げつけてきません。それを聞けばあなたはまたこの男を叩くかもしれません。一発叩くくらいじゃ大した罪に問われませんが、何度も叩いてしまうようなら傷害罪になることもありますし、こちらとて通報しないといけません。というか、すでに騒がしくて通報してる人がいるかも」
通報という言葉を聞いて、女性の顔色がさっと青くなった。そのことに少しほっとする。これを言っても「だから何よ」と相手が引き下がらないことはたまにある。
女性はキッと男を睨むと、ピンヒールをカンカン鳴らしながら階段を下りていった。肩を怒らせ、明らかに男との話し合いに不満しかないようだったが、このまま話し続けることに意味はない。なにしろ、この男には端から真面目に取り合う気などないのだから。
「また助けてもらっちゃったね、美和さん」
やはりのほほんとした顔で二〇二号室の玄関に佇む月島朔は、徐々に赤く色づく左頬を押さえて笑った。特にばつが悪そうでもなく、反省した様子でもなく、ただこういうふうに笑っていれば大抵の女は大目に見てくれると、それが理解できている男の顔だ。
「あんたね……」
私はツカツカと月島朔に歩み寄ると、彼の頭にゴンとこぶしを落とした。さっき引っぱたかれたときには少しも動じなかった彼が、そのときには「いてっ」と多少可愛げのある反応を見せた。
「傷害罪うんぬんとか言ってなかった?」
「生意気言ってると次助けてあげないわよ」
「次も助けてくれる予定だったんだ」
「生意気二回目」
私はひくりと頬を痙攣させて言った。
「ところでほっぺたに見事なもみじが見えるんだけど。美男子が台無しね」
「うん、痛いよ」
「あ、そ。冷やしてから寝なさいね」
「血の味もする」
「口の中を切ったのね」
「痛いなあ」
「……」
「……」
月島朔は私から目を逸らすことなく、にこにこと頬を押さえていた。その間に私は二〇二号室の玄関扉を乱暴に閉めて奴の綺麗な顔にぶつけてやるところまで想像していたが、最後には深いため息を漏らした。
「わかった。部屋で待ってな」
*
月島朔のことを初めて認識したのは、私が四月の末に早めの五月病を患っているときだった。
仕事で怒られて落ち込んでいた私は、駅前の立ち飲み居酒屋で散々店主に愚痴ってからふらふらとアパートまでの帰り道を辿っていた。気持ちとは裏腹に頭上は澄み切った夜空で、下弦の月が優しく見下ろしていた。それを見てなんとなく実家の母を思い出し、うっかり泣きそうになった。
湿っぽい気持ちのままアパートの階段に足をかけ、二階を見上げる。そこで私は、何者かが階上に座り込んでいるのを発見した。
ぎょっと目を見開く。蛍光灯の逆光で顔はよく見えないが、細身の男のようだった。二階で自分以外の人間を見たことがなかった私は思わず身構えたが、住み初めのころに大家さんに教えてもらった、隣人の大学生のことを思い出した。
「あの……月島さん?」
大家さんから聞いた名前を恐る恐る呼んでみると、そのシルエットはかすかに反応を見せた。よかった。死んでるとかじゃなくて。
「なんでそんなところに座ってるのかわかりませんけど……風邪、引きますよ?」
一歩一歩階段をゆっくり上っていった私は、近づくにつれて彼が非常に美男子であること、そしてなにやら様子がおかしいことに気が付いた。
「……あなた、怪我してるの?」
思わず敬語が抜け落ちた。かなりひどい怪我だ。頬には殴られたような痕があるし、鼻の下には血がついている。服だって泥だらけだ。
「人の彼女と遊んじゃったの」
初めて聞いた彼の声はやけに甘く響き、話している内容は紛れもない屑のそれだった。
「そしたらその彼氏の報復がこれ。お門違い甚だしいよね。彼女の心くらいちゃんと繋ぎ止めておけないのかな」
「……」
「で、最後に財布盗られちゃった。財布に家の鍵つけてんだよね、俺」
「それはそれは……」
阿保みたいな返ししか出てこなかったが、それ以外の言葉が自分の中に見つからなかった。天使が下界に落っこちてきたみたいな外見をしておきながら、紡ぎだされる言葉は限りなく下衆に近く、そのギャップがアルコールに浸された脳味噌には対処しきれず、無言で男の横を通り過ぎる。その際に彼が見せたちょっぴり残念そうな顔は、なんだか捨て犬のようだった。
「はい」
程なくして、自室の棚の一番下の段に置いていた救急箱を抱えながら、私は彼の隣に戻ってきた。百均で買った箱の中に道具を適当に詰めただけの救急箱だが、ちゃんとガーゼも消毒液も湿布も入っている。
なんで初対面の男の子にそうやって手を差し伸べようと思ったのかは、酔っ払っていたから憶えていない。彼があまりにも捨て犬のようだったからか、はたまた単純に美男子だったからか。後者の可能性も低くはないが、それにしては直後の言葉が我ながら辛辣だったと思う。
「あんた、いつか刺されて死ぬわね」
あのときの月島朔のきょとんとした顔は、今でも思い出すと笑えてくる。
*
変な情けなど、かけるべきではなかった。だからこいつはこうして調子づいているのだから。それだけが理由ではないだろうけど。
「はい口開けて」
「あ」
私が救急箱を取りに行っている間に、月島朔はしっかり口の中をゆすぎ、床に座り込んで待っていた。出血個所がはっきりと見て取れ、私はピンセットの先に持ったガーゼを口内の患部に押し当てる。
「しばらくすれば止まるから、自分で押さえて」
「はぁい」
口を開けた状態で返事をしたからか、彼の声はいつも以上に間が抜けて聞こえた。
「冷蔵庫開けるわよ」
彼が自分の口に指を突っ込んだことを確認して、私は部屋の隅へと向かった。ひとり暮らし用の冷蔵庫に付属している小さな冷凍庫には、これまた小さな保冷剤がいくつか入っている。奴の頬を冷やすためにここを開けたことは初めてではない。
「なんか保冷剤増えてるんだけど」
「さっきの子がくれたんだよ」
私のぽそりとした一言に、月島朔はやはり間抜けな声で答えた。一番手前に置いてある保冷剤には某有名ケーキ店のロゴが印刷されている。大層な品を貢がせているものだ。甘いものなんてそんなに好きでもないくせに。
「そこのケーキ持ってきてくれたときは、あの子ももっと面倒くさくない子だったんだけどね」
ロゴを眺めていると、月島朔が口の中から血の付いたガーゼを取り出して部屋のごみ箱にシュートした。
「別に、嫌いになったとか一言も言ってないのにね。なにが不満なんだろ。キスもハグもするし、それ以上だって――ほかの子にも同じことはしてるけど」
出会ってすぐに思ったことだが、なんとまあ傲慢な男だろう。喉の奥がむかっとするのを感じて、保冷剤を投げつける。小さくて白いそれは低い軌道を描きながら月島朔の膝に着地した。
「ほっぺ冷やして」
「うん」
嫌いになった、とは言っていない。でも私はこいつがあの女性が好きだったわけでもないということを知っている。
こいつは誰よりも自分自身を愛している。そしてそんな大事な大事な自分自身を愛してくれる存在を多数近くに置いて、それなりに丁重に扱っているだけだ。
「応えてあげたら?」
「なにを?」
そこらへんにあったハンカチに保冷剤を包みながら、月島朔はこちらを見た。
「さっきの女の子、すごく怒ってたけど、本気で悲しんでるからあんなふうに怒ってたのよ。本気であんたが好きだからあんなふうに悲しんでるのよ。フラフラすんのやめろ、なんで私だけにしてくれないの、って叫んでるように聞こえるけど、あれほんとは全力で『愛してる』って叫んでるのよ」
冷蔵庫の中がほとんど空っぽなこと確認してから、パタンと扉を閉める。この男の食生活が若干心配になった。そしてほとんど条件反射のようにこの男の心配をしている自分にげんなりしながら、冷蔵庫の扉にもたれかかる。
「――あんたには聞こえないだろうけどね」
「まともに取り合うことないよ。あの子だって遊ぶ男には事欠かないだろうし」
うわ、と思わず顔が歪むのを感じた。最近の大学生の恋愛事情って怖い。かくいう自分も半年前まで大学生だったが。
「自分をよく見せたいから、隣にいい男を侍らせたいから僕に執着してる。独占したいのは、自分が遊んでやってるんだ、っていう優越感が欲しいからだろうね」
冷静に彼女のことを分析する月島朔の声からは、なんの感情も読み取れない。なにか大事な感情が欠落してしまっているようで、不気味なような、不憫なような、複雑な気持ちで彼を見つめる。
「もっとも、僕がいい男すぎてあの子の本命になってしまった可能性は否定しないね」
「なんか腹立つわね」
「ごめん」
くつくつと含み笑いをしながら、月島朔は保冷剤を頬にあてがった。自分で言ってしまうのもわかるくらいには、確かに美男子である。ただ、その美貌のせいかどうかは知らないが、随分と世間擦れした可愛くない大学生に仕上がっているらしい。
「美和さんは相変わらず彼氏いないの?」
「いたらあんたの部屋になんか上がらない」
「へえ、一途なんだね」
「常識でしょ」
ってかうるさい、と一蹴すると、月島朔はむうっとした顔で黙り込んだ。隙あらばこういう類の話に持っていこうとするこいつはただただウザい。そういう話題しか持っていないのだろうか。恋愛に脳を浸されている男の話は大変つまらないものである。
「あんたさ、いい加減ちゃんとしたら。特定の彼女とか作ったりしてさ。そしたらそうやって頬を冷やすこともなくなるんじゃない」
「えー、向こうから寄ってくるんだもん」
「来るもの多少は拒みなさいよ。……あんたみたいに節操がない人間、いつか刺されて死ぬのがオチよ。どうしようもない」
「どうしようもない……かあ」
月島朔は保冷剤を床にそっと置くと、ふーん、と私のほうを見て口を尖らせた。悔しいけれど、やはり可愛い。だがしかし、発せられる言葉は紛れもない屑のそれだ。
「じゃあさ、美和さんが俺の本命になる?」
「――は?」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。月島朔はくすっと笑って、「冗談だよ」とでも続けてくれればいいものを、こんなときに限ってそのおしゃべりな口を閉ざしている。
投げかけられた言葉の意味を解するのに、少しばかり時間がかかった。私は冷蔵庫の扉から背中を離すと、彼のもとへとにじり寄り、
「ふざけた台詞が聞こえた気がするんだけど、この口からかしら」
「痛い痛い痛い」
まだ赤く色づいている頬を、軽く爪を立ててつねった。なにを勘違いしたのか、不自然に腕を広げていた月島朔は、慌てて頬から私の手を引っぺがすと、渡した保冷剤で再度患部を冷やし始めた。
「さっきあんたが言った通り、私は一途なの。反対にあんたはちっとも一途じゃない。一途じゃない奴は大嫌い」
「美和さんと付き合ったらたぶん一途になるよ」
「社会に出ると信用が第一になるのよ、わかる?」
暗に月島朔には一切の信用がないことを伝えると、彼は「わかんないじゃん」と珍しく声を張り上げた。
「俺、美和さん好きだもん。他の女の子と違うなって思うもん。――本気に、なれるかもしれないじゃん」
「――ないわよ。私にはわかる」
そばにあった救急箱を手に取り、すっくと立ち上がる。「美和さん」という彼の声が聞こえないふりをして、玄関へと足を進めていく。
本当に好きならば、ここで止めたりするはずでしょうが。心の中で乱暴に舌打ちする。女が勝手に寄ってくる男は、去っていく女を自分のもとに留めておく術を知らない。
扉が閉まりきるまでに、もう一度だけ「美和さん」という声が聞こえたような気がした。
あーあ、と思わず声が漏れる。こんなふうに突っぱねたとしても、わたしはきっとまたあいつの尻拭いに奔走してしまうのだろう。いつか襲われたりするかもしれないことを承知で、またあいつの部屋に上がり込むのだろう。
もう知らない、と言えたらどれだけ楽か。もちろん理解はしている。けれど、あいつは捨て犬だから、もう拾ってしまったから。
「――捨て犬?」
自分の部屋のドアに手をかけ、はたと立ち止まる。面倒を見ているのは当然私だけど。
あのとき本当に捨てられていたのは、
「捨て犬は……」
果たして、どちらだっただろうか?
「――」
ふーっと息を吐きだし、その場にしゃがみ込む。人の彼女に手を出し、財布を盗られ、自分の部屋にも入れずにいた月島朔ももちろん捨てられていた部類に入るだろうが、それでもあいつはたくさんの人に愛されて、必要とされて、決してひとりではなかっただろう。誰ひとりとしてあいつの琴線に触れる人がいないとしても。
引き換えに、私はどうだった。社会人になってひとり暮らしを始めて、知らない土地で知り合ったばかりの人たちに囲まれて仕事して、上司に怒られて。
はっきり言ってしまえば、自分なんていらないんじゃないかと思い始めていた。不器用で要領が悪くて動揺しやすくて、そんな自分がいなくなったところで、周囲の環境なんてまるで変わらないんじゃないかと。
きっと、月島朔と出会う直前に入った居酒屋で、私はそんなようなことをずっと喚き散らしていたのだろう。よく憶えていないけれど。
私が私を道端に捨てて、ひとりで勝手に不貞腐れていたときに月島朔がくれた言葉。そちらはなぜかはっきりと思い出せる。
*
「あんた、いつか刺されて死ぬわね」
唐突にそう言われてきょとんとした月島朔は、とりあえず差し出された救急箱を受け取った。
「お金も家の鍵もないんだっけ。駅前にネットカフェがあるでしょ。お金なら貸すから今晩そこで夜を明かしなさい。風邪引くんじゃないわよ。あと念のために注意するけど、変なおじさんに声かけられてもノコノコついていくんじゃないわよ。あんた可愛いから」
「ぷっ」
なにが面白かったのか、月島朔は救急箱を膝に置いてくつくつと笑い声を漏らし始めた。その不可解な様子に眉をひそめていると、ひとしきり笑い終えた彼がふと顔を上げた。
「刺されて死ぬ――なんて、なかなか痛烈な冗談だね」
別に冗談じゃねーよと乱暴に返しそうになったが、ぐっとこらえて彼を見下ろす。月島朔は柔らかい、本当に柔らかい、それこそ天使のような微笑みを浮かべて静かに宣言したのだった。
「死なないよ。これだけ面倒見のいいお隣さんがいるんだから」
思えば、この瞬間から私の心はあいつの手に渡ってしまったのだろう。奪取した本人が自覚しているかどうかはともかくとして。
「あなたがいてよかった。ありがとう」
*
そうだ。そうだった。あのとき道端に捨てられていた私は、月島朔に拾われたのだった。なんたる不覚。あんな、どうしようもない屑大学生に。
それでも私は、飽くまでもあいつの『面倒見のいいお隣さん』でいなくてはならないのである。それ以外の余計な感情が芽生えてしまったら、私は、あいつにとって『たくさんいる女の子』のひとりでしかなくなる。たったひとりの『お隣さん』ではなくなってしまう。私は思わず顔を手で覆って、自分の立場を呪った。
と、そのとき誰かが階段を上ってくる音がして、私は慌てて目元をぐいと拭った。このアパートの二階に住んでいるのは私とあいつだけ。つまりこの足音は来訪者のものである。
ある程度予想はできたが、案の定それは外れなかった。
「諦めて帰ったほうがいいですよ。もう時間も遅いですから」
立ち上がってスカートの皺を伸ばす。振り返ると、階段側の二〇三号室の前に、先ほどの女性が立っていた。冷たくあしらわれてもなお、彼女はまた舞い戻ってきた。大丈夫だろうか。再び傷付くかもしれないという覚悟を、彼女はきちんとしてきただろうか。
「……あんた、彼のなんなの。しゃしゃり出てこないでよ」
濃いアイシャドウに縁取られた目が、鋭く私を捉えた。覚悟ができていない女の子ほど恐ろしいものはない。動揺した瞬間になにをするかがわからないからだ。ふるりと身震いが起こる。どうか、どうかその殺気をしまってくれ。
「なんでもないですよ。……ただの隣人」
「ただの隣人が、なんで彼の部屋から出てくるの」
あんたのせいだわ、なんてことを言っても刺激してしまうだけだろう。この子があいつの家に置いていった保冷剤を思い出す。この子が買ったケーキの保冷剤が、この子が叩いた頬を冷やしていた。とても皮肉な話である。
「……あんた、朔の彼女なんでしょ。あんたがいるせいで、朔は私と真剣に向き合ってくれないんでしょ」
「それは違います。あいつは基本的に誰とも向き合ってないでしょ」
そう返している途中で、女性はこちらにツカツカ歩み寄ってきたかと思うと、二〇二号室の扉に手をかけようとした。とっさにこちらも手を出し、先ほどのように女性の腕をつかむ。
「やめときなさいってば」
「邪魔しないでよ」
こちらをギッと睨んだ女性は、持っていたバッグに、つかまれていないほうの手を差し入れたかと思うと、中からおもむろに小さなナイフを取り出した。
びくっと身体が跳ねるのを感じて、思わず手の力が緩んだ。
あいつ関係の揉め事を起こす女性の中には、刃物等を所持している方が少なからずいる。よくよく理解してはいるが、慣れているかと言えばそうではない。
「お……ちついてくださいね。そんなもの振り回したら」
「私、本気なんだから。冗談で来てるんじゃないの。だからあんた、邪魔しないでよ」
「待っ……」
とにかくナイフを捨てさせなければならない。そして彼女をあいつに会わせてはいけない。刃物を持っている時点で、彼女があいつになにをしようとしているかはお察しだ。私は彼女の腕を押さえながら、反対側の手をナイフへと伸ばした。
「離して……!」
「しっ」
揉み合いになりながら、私は自然とそう口にしていた。騒がしくしたら、中のあいつが出てきてしまう。きっと私は、見られたくないのだ。こんなふうに、あいつを巡って醜く争う女ふたりを。そのふたりの中に、自分が含まれているところを。
なんて惨めで浅ましい。あいつも、自分自身すらも誤魔化し続けて。
「あ」
腹部に激痛が走った。見下ろすのが怖い。目の前の女性が私の分まで驚いてくれているようで、顔を真っ青にして震えている。
「あ……ああ……ごめんなさ……!」
ふ、と力が抜けて、女性の腕を手放す。女性は口元を押さえてがたがた震えていたが、やがてくるりと踵を返すと、カンカンカンとアパートの階段を駆け下りていった。
かすむ視界の中、当然かなあ、と思う気持ちが浮かんでは消える。二〇二号室の扉に背を預けて座り込むと、じわじわと血溜まりが広がっていくのが感じられた。
いつかあいつを庇って死ぬのだろうかとは思っていたが、まさか本当にそうなるとは思わなかった。きっと罰が当たったのだろう。いつまでも自分の立場に胡坐をかいてすべてを誤魔化し続けてきたから。まったく、自業自得もいいところなのである。私は額から落ちてくる汗が目に入らないよう瞼を閉じながら、乾いた笑みをこぼした。
とはいえ、あいつの『面倒見のいいお隣さん』としてふさわしい最期を迎えられるようでとても満足だ。腹は文字通り死ぬほど痛いけれど、思い残すことは特にないし、月島朔は無事だし、不満はない。死の際ですらこれほど穏やかな気持ちになれるのだから、あいつに対する気持ちとは相当なものだったのだろうな、とちょっと感心してしまった。
私が死んだら、誰があいつの面倒を見るのだろう。それは心配というよりは、嫉妬に近い感情から生じた考えだった。
あいつの面倒を見るのは私だけでいい。その役割は永遠に私だけのものだ。
誰にも守られなかったら、あいつは死ぬのだろうか。
「……はは」
それはそれで素晴らしいと思う。あいつの命の支えになっていたのが私だったと証明されたなら、『面倒見のいいお隣さん』としてそれ以上の幸せはない。
「ふふ……ふふふ……」
とめどなくこぼれ落ちる、笑み。私が死んで、あいつも死ぬ。あの世でも『お隣さん』だったら、それもまた楽しそうだ。
私は小さく小さく笑い声を上げながら、愛しい人の死を願った。
〈終〉
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