最終話
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「――――それで、あいつ……結局、何やったの?」
四脚しか机のないガランとした教室の掃除をしている間、何気なく八塩さんに振ったのはあの日、担ぎ上げられた柳がやった芸の話題だ。
俺が見そびれてしまったそれが何だったのか――――今頃、気になってしまった。
今日の掃除当番は俺と八塩さんの二人。柳はさっさと帰ってしまったし、怜も早々に教室を出た。
黒板消しを片手に振り返った八塩さんは、教えていいのかどうか逡巡している様子でしばし硬直し……軽く首を振り、そこに本人がいないと確認していた。
「……ある演歌歌手のメドレーです。若い……あの……」
「見たかったなぁ」
「探し当てられて、壇上に立たされてからは……もう、観念してましたよ。“嫌だ”とはとうとう一言も言いませんでしたし、上手でした。盛り上がりましたよ」
「それできちんとやる辺り、本当……偉いな、あいつ……」
――――本当に、あいつは“頼まれればする男”なんだなと思う。
もっとも、それは俺も人の事を言えない。
時はもう、十一月も半ばを過ぎてしまった。
紅葉もどんどん落ちていって、校庭の一角は敷き詰めたように落ち葉で彩られていた。
朝の空気はしゃっきりと冷え込み、もう……マフラーを巻いて家を出る事に何も躊躇いがなくなる。
ワイシャツにカーデ、ブレザーにマフラー、それでも足りないぐらいの寒さは――――そろそろ、掘り当てたコートを使うのにいい時期かもしれない。
三日前から教室中央のストーブは働き始めたぐらいだ。
火力が強すぎて調節も不便だから、好き勝手に席を動かして各自いいようにするのがここの流儀らしい。
案の定と言うべきか、ヤツが煌々と燃えるそこにホイルに包んだ芋を放り込んで昼飯にしていたのも目撃した。
いくらなんでも自由すぎるだろうと思ったが、他の二人が何も言わないあたりで俺は察した。
ぼそっと“せっかくだし、焼き肉やるか……”なんて言っていたのが、この教室でという意味じゃない事を祈るばかりだ。
「あ、七支くん……黒板の方、終わりました。何か手伝える事ありますか?」
「いや、俺もあとホコリ集めて捨て行くだけだし。いいよ、遠慮しないで先に帰りな」
「え……いいんですか?」
「いいって。八塩さんも家の方の仕事あるんだろ」
見れば、古くなって消えづらくなったはずの黒板は、新品のようにまっさらだ。
背が高くて力もある八塩さんが消した時に比べると、俺や柳がやった時はまるでサボったようにすら見えるのだ。
「それ、じゃ……お言葉に甘えさせていただきます。お先に失礼いたします、また明日」
「はいよ。気をつけて」
面接みたいに戸口で一礼してから、八塩さんは教室を出る。
独り残された俺は、チリ取りでゴミを集め、袋に入れてから帰り支度を始める。
捨てたら、さっさとその足で帰ってしまおうと思って。
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離れにあるゴミ捨て場の小屋に、四人分だから大して出ないゴミの詰まった袋を投げ込むと――――途端に、冷えが襲ってくる。
これはもう、秋の寒さなんかじゃない。
冬の始まりを告げて身を切るような、薄くて冷たい、刃のような風だった。
ここに来て、俺はようやく――――コートを着てこなかった事を後悔する。
渡り廊下を通って慌てて校舎に戻り、玄関を目指す。
これはもう、どうしようもないから……早く帰る以外の選択肢がない。
いつもそうで、“秋”は気付いたら始まっていて、かと思えば急にいなくなる。
夏冬、春には長期休暇があるのに、秋にはそれがないからメリハリがない。
余裕をぶっこいて防寒を怠ると……今の俺みたいになるのだ。
ぶるっ、と震えながら靴箱を目指すと、そこに――――とっくに帰ったはずの、怜がいた。
腰を下ろして座り込み、足を揃えて体を縮めて暖めるように。
足音に気付いた怜が顔を上げ、目が合うと――――ゆっくりと表情が変わった。
「何してんだよ、怜……先帰ったんじゃなかったのか?」
「ん……花壇の様子見てたんだ。せっかくだし、キミの事……待っててみようかな、って思ってさ」
「だったら教室で待てばいいだろ。なんでわざわざこんな寒いトコで待つんだ?」
「分かってないなぁ、靴箱で待つからいいんじゃないか」
……何か、また変なこだわりがあるようだった。
ともかく、俺は靴を履き替えて外へ出ると……さっき味わったばかりの寒さが、性懲りもなく襲ってくる。
「……どうしたの、キョーヤ君。やっぱり寒いんじゃないのかい」
「いや、別に。……いや、寒いな、やっぱ」
「どっちなのさ……。何で男の子ってやせ我慢するんだろうね」
「いつもツナギ一丁の柳と比べるなよ。あいつ寒いって感覚ないんじゃないのか?」
「そんな事無いよ。寒い時は寒いって言うしさ。……でもあいつ、着ないんだよ。何がしたいのかな……」
怜はシャツの上に白い厚手のセーターの上にコートまで着込む。
いつ冬が来ても構わないような厚着は、お洒落だけれど……この農村風景の中だと、少し浮く。
最近は俺も隣の婆ちゃんに手伝わされる事は少なくなった――――なんてことは、ない。
畑ではない頼まれごとが多くなり、しかしそのたびにおすそ分けの煮物やら天ぷらやらに釣られてしまっているのも俺だから文句はとても言えない。
――――独り暮らしの隣の婆ちゃんを見捨てておけないのも、間違いなく理由の一つだ。
道すがらの話題は、まだある。
「……それにしても、碧さん……本当に、秋のお祭りが終わったらすぐ帰っちゃったね。何か話したの? キミは」
「ああ、ちょっとだけ……昔話。話したい事はまだあったけど、仕方ないか」
結局、碧さんは祭りの終わった次の日、すぐに帰ってしまった。
てっきり、一度ぐらいうちに立ち寄るかとも思ったのに……祭りの翌日、夕方ごろに電話が来て、もうあちらに……俺の“実家”に着いたと聞かされた。
着替えをどうするかと訊けば、“忘れていた、送れ”の一言で済まされる始末で……すぐに電話は切られてしまった。
そして碧さんの言っていた通り、十月が終わると……怜の“それ”は、元に戻った。
元通り、御守りに籠められた願いが実際に叶う力を宿して――――今、村に季節の変わり目の風邪をひいている人は、一人もいない。
怪我をする人も、いない。
――――碧さんと、祭りの会場へ戻る道すがら、いくつかの事を聞いた。
怜は、“還り”でそうなったのじゃない。
生まれつき、そうだったのだと。
触れた御守りに神の加護を宿す、ささやかな願いを叶える、そうした祈りの力を持っていたと。
「キョーヤ君は、冬休み……どうするんだい?」
「ああ、俺……村の誰かの手伝いもないしさ。少しだけ実家に戻ろうと思うんだ。お手伝いさんに元気な顔を見せたいんだ。……ついでに碧さんも入れといてやろうかな」
「……そっ、か」
「怜は?」
「ボクは……大晦日のちょっと前、二十七日に奉納の神楽を舞う事になってるんだ。その後は、特に何も無いかな。初詣に来られるくらいで」
見たい、と思った。
怜が舞うというのなら、きっと、それは――――目を奪われるはずだ。
「……なら、俺。見てから帰るよ」
「え……え?」
「怜のそれ、見てから帰る。……多分、見なきゃ後悔するだろうと思うから」
「や、やめてよ恥ずかしいから! …………あ」
「?」
怜が立ち止まり、空を見上げる。
白く曇った空から、はらり、はらり、と落ちてくる――――純白がある。
空を仰いだ拍子に頬に落ち、ジンとした冷たさが広がった。
「初雪……か?」
「うん。たぶん……きっと」
しばし、呆然と空に見惚れる。
雪は初めてじゃないし、初雪に出くわしたのも初めてじゃない。
でも、何故か――――ここで見た雪は、まるで生まれて初めて見たように心に沁み入ってくるからだ。
それは隣にいる怜のおかげかもしれないし――――ここが、俺の本当の故郷だと知っているからかもしれない。もしくは……その、両方。
身体の横にぶら下げていた手が、取られるのを感じた。
怜の手は指先までじんわり暖かくて、血の通った柔らかさが伝わってくる。
「うわ、手……冷たっ……。……暖めて、あげよっか?」
「え……?」
そのまま、俺の左手は怜の右ポケットの中に連れ込まれてしまった。
「……たぶん、何か……逆なんじゃないか?」
「あれ、そう? ……それじゃ、明日はちゃんとコート着てきてね。今度はボクをお招きしてよ」
はらはらと舞い下りてくる初雪の農道を、まるで閉じ込められたように二人で歩く。
不思議なほど静まり返った“神居村”からは、音が消え去ってしまったように思う。
――――これでもう、文句のつけようもなく、冬だ。
――――秋は去った。
――――後はもう、ひたすら寒くなる。
――――神居村にいた、いつか過ごした秋は……こうして、去っていった。
これにて、第二章の終了となります。
二ヶ月間に渡りお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
次回作でお会いしましょう。




