第二話
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この村の名は、神居村。
人口は千人を超える程度しかない山間の農村だ。
首都圏からは電車を乗り換え、乗り換え、最終的には一両編成に切り離されて更に、終点でもありこの村唯一の駅に着けば、ほとんど真っ白な時刻表が出迎えてくれるだろう。
見渡す限りの田園風景と遠くに見える素晴らしい山々、高い建物が全然ないからだだっ広く見える空に最初は感動するだろう。
俺の住んでいる家は、この無人駅へ降りてすぐ見える場所にあるが、近くはない。
――――ただし、その大きさはまるでゴマ粒だからだ。
俺が引っ越してきた時、大荷物を抱えて何時間も電車に揺られて、ようやく辿り着いたその日の心の折れ具合は察していただきたい。
そして何故俺がそんな辺鄙な秘境のような村へ帰って来る事になったかというと、単純な話で――――身寄りが無くなった、のが一因だ。
順を追って話すと、生まれてから小学校入ってすぐまでは、俺はこの神居村に住んでいたのだ。
そして、さる事件――――と言っていいのか、どう呼んだらいいのか、ともかくある事がきっかけで俺は両親を失って遠方の都心にいた父方の爺ちゃんに引き取られて高一までを過ごした。
昔ながらの厳しい爺ちゃんだが優しくもあり、俺は好きだったが――――高一の三学期を追える寸前で、爺ちゃんは死んだ。
そして今度こそ天涯孤独になり、会った事も無い親戚連中が俺をどこかへやってうまい事爺ちゃんの土地を取り上げて資産にしようと画策していた時、謎の女が姿を現した。
その人は、俺の後見人になってくれると言った。
その人は、俺を“村”へ送り込む約束が、爺ちゃんとその村の間に出来ていると言った。
その人は、俺のいない間爺ちゃんの家に住み込み、管理してくれると言った。
かくして、俺は――――この山間の何も無い農村に移り住む事になったのだ。
話を戻すが、この村へやって来たまさにその時はいくつもの衝撃があった。
携帯電話は圏外、時刻表は真っ白、一本だけ通っている国道は“オート三輪”が現役で走っていて、会う人、会う人、皆顔見知りのようで……俺にはとても考えられない文化が広がっていた。
今どき見ない古びた駄菓子屋はまるで時代が止まっているかのようで、タールでも塗られたように黒光りする木の扉はささくれもなく円みを帯びて、優しい手触りを宿していた。
触れた事などなくとも、誰もが“懐かしい”と、“帰ってきた”と嘆息するようなものがこの村には溢れている。
田んぼに入れば色々な虫が泳いでいるのが見えるし、今どき見ないようなでかいヒキガエルがあぜ道を闊歩して、水路にはアメンボが浮かんで弾かれたUFOみたいな動き方で水上を跳ねる。
カブトムシだって、取り放題だ。
何気なく洗い物の最中台所の窓辺に顔をやれば、窓ごしにこちらを威嚇するカマキリと目が合った事も一度や二度じゃない。
村に、高校生は俺を含めてたったの四人。
小中学生まで加えたとしても、サッカーチームが三つ作れるが四つは作れない程度だ。
そして、この村には最大の特徴がある。
それは――――“出る”のだ。
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咲耶に髪を切ってもらった翌日、教室で柳は朝から「それ」を差し出してきた。
手のひらに乗るサイズのプラスチックトレーに載せられた、三粒入りのレモンガム。
ただしひとつは強烈に酸っぱい、「アタリ」というブツだ。
小売価格は三十円。
「朝から何だよ、柳。お前の分ないだろ」
「俺はいい。……まぁ、正直言えばだ。アタリを引いて悶絶するのが見てぇのさ」
「それ言われて手が伸びると思うのか?」
「いいから食え。いいから」
「こういうの、ボク弱いんだよね。もし三十個のうち一つだとしても、引く予感がしてさ」
苦笑を漏らして咲耶が選び、一粒手に取る。
冗談めかしてはいても本当に予感がするらしく、いつも浮かべている涼し気な顔が少し強張っていた。
「うぅぅ、これ……苦手。顎がもう痛いよぉ」
柳の隣に座っていた八塩さんが、指先を震わせながら、真ん中のガムを取る。
「残りがお前のだぜ、ナナ。観念して食え。言っとくが我慢はムダだぜ」
「……待て、先に何の魂胆があるのか言えよ柳。からかいたいだけじゃないだろ?」
「そうだな。村の北側に廃校があるよな」
「ああ」
その廃校なら、俺も知っている。
確か二十年ほど前、二校あった小学校が統合される時に閉校になった“片割れ”らしい。
今も定期的に管理には入っているようだが、見に行った事は無い。
言うまでも無いが――――俺が夏に、全てを断ち切るために入った“神居尋常小学校”の廃墟とは別だ。
「あそこで、異変が起こった。調べに行く必要がある。引いた奴には付き合ってもらうぞ、決行は今日の夜だ」
「なるほど、分かった。とりあえずハッキリさせよう、誰が行くのか」
「……でも、柳? それなら皆で行けばいいんじゃない? ボク、今日なら空いてるよ?」
「それには及ばねェよ。何もゾロゾロ全員で行くほどじゃないしな」
「うーん……まぁ、そういう事ならいいかもね。面白そうだ」
目配せしあい、俺、咲耶、八塩さんの三人で同時に口の中へ放り込み、噛み締めた。
――――やぁ、僕の名は大当たり。
――――今日の犠牲者はキミだぞ。
脳天まで突き抜ける酸味の槍が、顎関節を破壊するような激痛をもたらして――――とたん、大量分泌された唾液が喉まで流れ込み、気管を制圧するのが分かった。
「はい、オメデトさん。ナナ、七時ごろに迎えに行くぜ。準備してろよ?」
「ぐ、げふっ……! お前、これ……! 何、入、れ……!」
激しく咽返り、息が吸えなくなった。
気管に飛び込んだ大量の唾液で溺れ、椅子から転がり落ちる寸前にまでくずおれ、視界いっぱいに床の木目が広がり――――ふと、背中を叩いてくれている咲耶の手に気付けたのも、そのまま十数秒してからの事だった。
息が吸えない、息が吸えない、吐けない、吐けない。
まだ舌に残り続ける酸味と、舌がピリピリと痺れるこれは――――レモンの味じゃない。
「濃縮クエン酸に、花椒を少し……いや、悪い。悪い。これは俺がやり過ぎた、大丈夫か?」
「……あのね、ボクも怒るよ、柳?」
「すまん、いくらなんでも……これは反省する。でも、俺も試食したが……ここまでとはよ」
「柳くんは、それは……作っている途中だったから覚悟できていたんじゃない、でしょうか?」
「……あっ」
話せない俺の代わりに静かに怒ってくれる咲耶、冷静にコメントする八塩さん、いつもの不愛想な口調の中に戸惑いと申し訳なさを詰め込む、柳。
ふだんと違った様子だが――――それを楽しめる余裕は、今はない。
とにかく息が吸いたい――――その一心だったからだ。




