第二十話
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――――――鳥の声が聞こえる。
――――――頬から硬い感触が伝わって、首から肩から、全身の骨がひどく痛い。
――――――ここは、どこだった?
「っ……ぐ、ぅ……!」
目がうっすらと開いた。
黒ずんだ木板が、俺の目線から垂直に伸びている。
鼻に抜けるのは古びた木造建築と、濃すぎる緑の、まるでカビにも似た匂いだ。
虫の声はまだしない。
ゆっくりと目を開け、まだ少し痺れの残った手を突っ張り、腕立てのように体を起こした。
着ていた服は朝露に濡れて、少し湿っていた。
「ここ……は……」
場所は、柳と一緒に訪れた廃校。
俺がかけがえのないものを、二つも失った呪われた場所だった。
倒れた柱時計の廊下から、少しも動かされてはいないようだ。
「起きたか。……いや、帰ってきたか? 七支杏矢」
起き上がり、声のもとへ目を向ければ、俺をここまで連れてきた男、……恐らくは幼馴染のひとり だった、神奈柳が、珍しくへたりこむように、壁を背にして座っていた。
「お前……こういう時はどこか運ぶか、何かかけてくれるもんじゃないのか」
「甘えんな。カゼひくほど寒くもねェだろう。んで、どこまで思い出してきた」
「俺は……この村にいたんだな。父さんも、母さんも。父さんには……会えたよ」
「声は、聞けたか?」
「ああ。……妙な気分だな。ようやく思い出してしまったら、もう……ただ懐かしいだけだ」
「……そうか」
「それと……トイレの花子さんだ。俺を連れていこうとしたら、咲耶が……かばって、くれて……そこで、終わりだ」
「なるほどな。……まぁ、後何があったかはリョウに訊きな」
そう言って、どこか疲れた様子の柳がスコップを支えに立ち上がった。
動作の途中で拾い上げた水筒からは水の音が何もせず、とうに空なのが分かった。
「とりあえず、村に戻んぞ。もう七時だ、朝メシでも食おう」
「ああ……そうだな」
こんな、俺にとって最悪な場所だったはずなのに……朝の空気は、それでも澄んでいた。
残っていない窓から吹き込む風は緑の匂いが濃くて、山鳥の声が聞こえる分だけで三種類。
不思議とあんな“夢”を見た後なのに、怖さを感じない。
それはもしかすると、あの時いなかった柳がいるおかげかもしれないし、俺のポケットに入りっぱなしの――――あの、幽霊刀の柄のおかげかもしれなかった。
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「あら、いらっしゃ……ちょっと、何その恰好?」
この間来たばかりの“純喫茶マヨヒ”へ、早くも二回目の来店だ。
店主のユキさんに見とがめられるのも無理はない。
何せ、俺達ときたら……ちょっと汚すぎる。
俺は昨日から着っぱなしのぐちゃぐちゃのシャツに、山を歩くと言われたから薄手のカーディガンを羽織りっぱなし。
柳はいつも通りの作業ツナギ一丁だが、登山靴とナップザック、流石にあのスコップは店に入ってすぐの壁際に立てかけた。
俺も柳も、小一時間かけて山道を歩き、小一時間かけて山道を戻ったものだから……道中の土と藪草が髪にも服にもこびりついている。
「あー……ちょっと山菜狩り。それより、開いてるかい」
「入ってきてから言う事じゃないわよ、それ。まぁ、座りなさい」
「どうも、お邪魔します……ユキさん」
「柳くんはともかく、君はどうしたっていうの……。もう、そんな野山を駆けるトシじゃないでしょうに」
「まぁ、色々ありまして……」
「いいから座れ、ナナ。……俺ァ、カレーライス大盛り。目玉乗せで」
「相変わらず朝から元気ね。君は? 杏矢くん」
「同じのを。目玉焼きはダブルでお願いします」
「あら、意外ね。軽めのモーニングも和・洋あるけど?」
「いえ。……今日は、こういう気分なので」
ユキさんが持ってきてくれた水を一口、のはずだったが飲み干してしまった。
考えてみると、昨日ぬるい水筒に口をつけて以降、久しぶりの水分だ。
壁かけのカレンダーに、なんとなく目をやる。
今日は、日曜日。
文句なく、学校が休みで――――あと二週間もしないうちに、“夏休み”が、始まろうとしていた。
そしてハイカロリーな朝食を終えると、柳と分かれた。
というか――――終えた頃に、まるで分かっているかのように店に柳の家から電話が来て、先に出て行かれてしまった。
慌ただしく何かに駆り出されて、それでも相変わらず柳は「イヤだ」の一言を言わず、さっさと向かった。
残された俺は……どうしても、会いに行かなければいけない人がいる事を思い出した。
――――向かう先は、神居神宮だ。
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第一鳥居をくぐり、踏みしめるように表参道を歩く。
時刻はまだ昼になっていない。
昨日の晩に始まり、十年前の一日を思い出して、そして今に至るまで、時が妙に長く感じる。
体内時計の感覚がおかしくなってしまいそうなほどだが、日を浴びて歩いていると少しずつそれも戻ってきた。
藪の中を歩いて蚊に刺されたのか、廃校の中で眠っている間にやられたのか、首筋が妙に痒い。
日差しはそこそこに強いが、なぜか、汗をかかない。
シャツの上に羽織った、緑の匂いがうつってしまったカーディガンが、何故なのか……暑く感じない。
むしろ、涼しくてたまらなかった。
飛び交う蝶を、姿を見せ始めた気の早い蜻蛉を目で追ううちに、少しずつ何かが埋められていく実感があった。
おおかたが填められた石板のパズル、その隙間を砂で埋めて補修していく、ような。
息を吸うごとにそれもだんだんとハッキリしてきて、少しずつ、少しずつ、他愛もないことを思い出す。
“俺”が、田んぼの水路に片足をハメた事。
この神宮で催された祭りに、一度か二度だけ来たことがある事。
今と変わらぬあの銭湯で、泳いでいて叱られ鉄拳を食らった事。
寄り合い所で行われた何かの宴会で、“父さん”が酔ってダメになった事。
駄菓子屋で、“リョウ姉”と二つに分かれるソーダ味のアイスをお金を出し合って買った事。
――――割るのに失敗したそれの、大きい方を俺にくれた事。
思い出した。
そうだ。
俺は……確かにこの村で育ったんだ。
あの時、確かに友達が三人いた。
ひとりは乱暴な“リョウ姉”。
ひとりは長身――――といっても当時はそこまで極端ではなかったが、背の高くて恥ずかしがり屋な“沢子”。
ひとりはいつもは大人しいのに……沢子が上級生にからかわれると怒って喧嘩しに行ってた、“ヤナギ”。
確かあの日も、柳が謹慎を食らって物置にいた理由はそれだった。
俺が三人の事を憶えているのは、十年前の今日までだ。
あの時、目の前で父さんと母さんがいなくなってからは、何も。
鳥居の中を進み、表参道を歩き、楼門をくぐる。
手水舎には一瞥しただけで済ます。
俺は……ここへ、参拝しに来た訳ではない。
神様に会いに来たつもりはなく、ポケットから手を出すつもりにも今日はなれなかった。
来たのは、ただ一人のためだ。
楼門を越えると、そこは白砂利の敷かれた神域だ。
中は広くて石畳が本殿まで続き、右手の奥にさざれ石、その手前に絵馬の奉納所がある。
左手には御神籤の箱、御守りの販売所、絵馬の記入所が併設されている。
小さいながらも、細かく行き届いた、心の引き締まるような空間があった。
俺はその中で、人を探す。
境内には今、人ひとりとしていない。
だが――――竹ぼうきで石畳を掃く、さかっ、さかっ、という音が奉納所の近くでした。
俺は白砂利を踏みしめ、音を立てながら、そちらへ向かう。
絵馬掛のちょうど前にいた緋袴の装束。
それは……間違い、なかった。
「……杏矢くん。どうしたの?」
初めて見る、咲耶の巫女装束だった。
白衣に緋袴、草履。
簡素だが、間違いようもない清廉な立ち姿で、彼女はこちらを見ていた。
驚いた様子、よりも……まるでやましい所があるかのように、少しだけ、怯えているかにも見える。
「……どう、って事もないさ。邪魔したか?」
「いや、大丈夫だよ。それより……何か、あったの? 放送は……」
「何も。ただ……会いに来たんだ。話がしたくて」
「ボク、と?」
「ああ。……教えてほしい事がどうしてもできたから」
尚もためらう咲耶に、俺は、十年ぶりに呼んだ。
「教えてくれ――――“リョウ姉”。あの日、何が起きたんだ」
吹き抜けた風が掛けられた絵馬を揺らし、カラカラ、カタカタ、と音を立てた。




