第十九話
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“俺”と“リョウ姉”は、藪の道の中を進んでいた。
高校生の俺と柳の背丈でようやく並べるほど茂った藪は、小学生にしてみればまるで迷宮の壁だ。
獣道のように続いている道は、間違いなく、俺達が闇の中を漕いで進んだものと同じ。
進んでいく咲耶の足取りは早くて、何度も“俺”は、振り切られそうになった。
しかしそのたびに彼女は振り向き、激を飛ばすように叫ぶ。
足元にある蛇の抜け殻にも、顔のすぐそばの藪にひっついた、妙に長い体のバッタにも動じない。
物怖じしないその姿は、“今”の咲耶にも似てはいても、方向性は違うように見えた。
高校生の彼女が、物事の全てを受け入れようとする姿なら、小学生の彼女は、物事の全てを跳ね返そうとする姿だ。
「おっそい! 早く来てよ、キョーヤ!」
「し、仕方ないだろ! 全然、前が……わっ!?」
驚かされたバッタが跳んで、目の前をかすめていった。
それを見ていてもなお“リョウ姉”は呆れたように溜め息をついて、寄り添いはしないのにひたすら“俺”を急かした。
しばらくそうして藪の中を進む二人を見て、少し考え込む。
二人の見たあの本について、だ。
判断する材料は柳の話しかないが、恐らく……俺の父母のどちらかが、外から持ってきて、自室にでも置いていたものだろう。
でなければ、この村にあんな書籍が存在するはずはない。
そんなものを人の家、その親の部屋から持ってくる咲耶もたいがいだ。
そうこうして、子供の歩幅でも……ようやく、藪の道の切れ間へ届いた。
佇まいはきっと、変わってやしない。
とうの昔に廃校になった、神居村尋常小学校。
名前からして数十年以上前の建物なのに……驚くほど、劣化が少ないのも同じだ。
廃墟というにふさわしいほどではあっても、入れないほどの老朽化は見えない。
「リョウ姉! ここって、何!?」
「しらない。この前見つけたの。しょうがっこう、って……書いてあるよ?」
「で、でも……ダメだよ、入ったら……怒られる、よ……」
「……ふーーーーん。じゃ、帰る? ひとりで」
振り返れば、掻き分ける“リョウ姉”がいなくなり、完全に道の閉ざされた藪だけがある。
ここへ連れてきてくれたのは、彼女だ。
彼女が戻らないと言うのなら、俺も戻れない。
道に迷って、泣き喚きながらあの林道を歩くしかない。
それは――――ずるい言葉だ。
「……わかった、行く」
どの道、ここまで来たのならばもう帰れはしない。
さっさと、あの本に書いてあった何かを試して、彼女が満足したら帰る。
それがきっと、一番賢い方法だ――――と、俺は思うし、“俺”も思っただろう。
我ながら、あっさりとした考え方だと思う。
でも――――俺から働きかけられる事は、何もない。
これは決して、覚えてなどいない“あの時”に戻った現象ではなく、追体験でしかない。
俺は、奇妙な観客でしかないのだから。
この先に何があるとしても、受け入れなければならない。
受け入れる事しかできなくて、そして俺はそれを望んだから。
*****
柳とそうしたように、上履きなどない学校の中へ、“俺”達は踏み入った。
まだ日の高い時間だから中は明るい。
とはいっても、それはあくまで闇夜と比べての事であって……充分に、森の中の失われた廃校らしく、薄暗い。
ここに来てようやく彼女も薄気味悪さを覚えたのか、先導してきた様子は形を潜めて、“俺”の隣を歩いた。
外から虫の声だけが聴こえて、廊下を歩いているだけでギシギシと軋む床板、時には「パキッ」という不審な音までもする始末で、その度、彼女の足取りは凍り付いた。
「ね、ねぇ……。リョウ姉。どうしてこんなトコ、知ってるの?」
「探検してたの。それよりどーでもいいでしょ。はやく……」
「……ね、そういえば……トイレ、って……どのトイレだったっけ?」
「は? 知らないよ、そんなの。どっか、いちばん奥でしょ?」
廃校を探検する小学生二人。
それは――――この村でなくても、危険だ。
なのに、俺達は来てしまったんだ。
やがて、歩いて行くと長い廊下の果て、珍しくもない場所にトイレが見つかった。
男用、女用、と分かれてはいるが、確実に水洗ではない。
「あ、あったあった。……何してんのキョーヤ、行くよ? ホラ」
「で、でもココ女子トイレだよ!?」
「だれも使ってないんだからカンケーないよ。ついてこないの? 怖い?」
何の躊躇いもなく、彼女は“俺”を女子トイレへ引っ張り込もうとする。
さすがに抵抗があったものの、使われていない場所だという事に納得したのか、“俺”は引きずられるように入った。
中は薄暗さに輪をかけて、まだ昼の二時にもなっていないのに電灯が必要なぐらいだ。
だが電気など走っているはずもなく、上から吊り下がった傘の中の電球は割れてしまい、用を為さない。
入ると、両側に四つずつ、トイレの個室が並んでいる。
手洗い場の台は壊れてしまっているのに……鏡だけが、汚れながらも形は残している。
その中に映ったのは“俺”の姿。
背丈は、“リョウ姉”よりも少しだけ低い。
水色のTシャツに、膝丈の迷彩柄のパンツ、雑に伸びた髪。
思っていたよりもずっと気弱そうな顔をしているのは……この状況のせい、だと思う事にした。
「ほら、いちばん奥の個室って言ってたよ? 早くしよ、キョーヤ」
「本当に……やるの? でも、なんで?」
「ん。だって、初めて聞いたんだもん。トイレの、花子さん」
「やめようよ! もし、本当に出てきちゃったら……」
「だいじょーぶ、逃げればいいでしょ。怖いの?」
「…………」
それ以上、何も言えなくなったようだ。
“俺”は仕方なく、トイレの一番奥の個室の前までやってきてしまった。
入って左側の個室のドアは、全て壊れ、外れている。
無事なのは右側の一番手前のドア、ここは開いている。
二番目と三番目の扉は外れている。
消去法で、唯一残っているのは……入って右側、一番奥の個室。
それも――――閉じている。
まるで中に誰かが入っているかのように、鍵までもかかっていた。
「……じゃ、やろっか。怖いんでしょ、キョーヤ」
「怖くない」
「帰りたいって言ってたじゃん。怖くないんならなんで?」
「怖くないって言ってるだろ! じゃあ見てろよ、リョウ姉ぇ!」
幾度となくからかわれた事に、とうとう気弱そうな“俺”も激してそう言った。
それでも“リョウ姉”はニタニタと笑って、「どうせできないんでしょ」とでも言いたげに、見ている。
ほんの少しの呼吸の後、“俺”は進みでて、乱暴に――――ドアを三回、叩きつけた。
「はーなっこさん! あっそびーましょっ!」
言った――――――とでも噛み締めているのか、後ろで見ている“リョウ姉”は黙った。
一秒。
二秒。
三秒。
――――開かずのトイレからの返答はない。
振り向けば“リョウ姉”は肩透かしだ、というようなつまらなそうな顔をしていた。
「……何も起きないねぇ、キョーヤ」
「何だよ。オレのせいじゃないから。ちゃんとやったし」
そう。
“俺”は、あの複雑でも無い手順をちゃんとやった。
だからおかしいんだ。
この村であれをやって、何も、起きていない。
それこそが異常な事なんだと、当時は分からなかったんだ。
“俺”達は、何も起こらなかった事に落胆、安堵、その両方を感じながら踵を返して、戸口へと向かった。
「はーぁ。……帰ろっか。帰りさ、イシカワさんとこでアイス食べよ。今日はボクが奢ってあげ……」
――――きぃーー……。
洗面台の前まで来た時、背後から……長く軋む、蝶番の音が不快な音を立てた。
まるで魔女の爪が黒板をなぞるような音が背筋を凍らせる。
視線を動かした“俺”は、真横にいる“リョウ姉”の青ざめた顔を見た。
さっきまでの威勢はどこへか失せ、振り返る勇気まで消えてしまったようだった。
リョウ姉が、“俺”のシャツの裾を力なく掴んだ。
その仕草が、勇気をくれたのか……俺は、一気に振り返った。
「え、あ……開い、て……?」
一番奥の個室のドアは、半分ほど……外側に開いていた。
だがそこから何かが覗いている、と言った事は無い。
青ざめたおかっぱの少女がいるという事は、無かった。
――――個室、にはだ。
――――だが、顔を戻すとき、真横の洗面台の鏡を、見てしまった。
――――全身びしょ濡れで水死体のような肌の色をした、黒髪の、赤いスカートの……少女。
――――それが俺達の真後ろから、手を伸ばして……リョウ姉に触れようとしていた。
「キョーヤ……うわっ!?」
“俺”は、リョウ姉の手を取ると、肩を脱臼させそうな勢いで引っ張り、駆けだした。
トイレの戸口を出て、すぐ玄関の方へ向けて、一目散に。
まるで、一人称のパニックムービーを見るように視界が急上下する。
時折振り返ると、視界にチラチラと“そいつ”が映る。
走ったり歩いたりしている様子はないのに、振り返るたび、振り返るたびに距離が近くなっているのが分かる。
足音など何も聞こえないのに、生臭くどこまでも湿った謎の気配と視線が、背中に縋りつく。
『ねぇ、どうして? どうして、にげるの? あそぼ?』
はっきりと聞こえたのは、“俺”だけじゃないはずだ。
隣で俺にやや引きずられながらも慌てて走るリョウ姉にも聞こえた。
それは彼女の、崩れかけ、泣きそうな顔から分かる。
「キョーヤ! キョーヤ、待ってよ! 待ってってば……! もう……」
「走れ、リョウ! 走れって!」
酸欠なのか視界から色が消えて、残った光も明滅する。
起こっている異変は――――懸命に走る“俺”ではなく、その内側からこの世界を見ている俺だからこそ分かった。
何も――――音が、聴こえないのだ。
葉のざわめきも虫の声も、吹き込む空気の音も、何もない。
世界すべてが死んでしまったような静寂の中で、追いすがる花子の底冷えするほど無邪気な声と、必死で走る“俺”とリョウ姉の乱れた息だけが響く。
「そと! そと、出れば……きっと……!」
“俺”の言葉は願望なのか、リョウ姉を励ます言葉なのか、分からない。
入ってきた玄関が見えた時、再び視界に色が戻ってきた。
もう一度、振り返れば……リョウ姉は完全に泣き始めている。
その肩の向こう数メートル先に、水死体じみた“花子さん”が、手をだらりと下げて立っているのが見えた。
そして――――拍子抜けするほどあっさりと、俺達は玄関を抜けて、草むした外へと出る事ができてしまった。
玄関を出て更に数メートルほど走ると、筋肉の機能が停止したように……俺もリョウ姉も、ずさっ、と転んでしまった。
顔からいったせいで擦りむけたリアルな痛みが伝わってきた。
息苦しさも何もフィードバックされていなかったのに……痛みだけが、今。
痛みと息苦しさで何度も吐きかけながら、“俺”は、今出てきたばかりの玄関を見た。
そこには“花子さん”が立ち尽くし、うらめしげにこちらを見ていた。
近づいてくる様子は、ない。
「あ、に、逃げ……られた? キョーヤ?」
「ああ、大丈夫。大丈夫みたい……」
喋れるほどまで息を整え、“リョウ姉”と言葉を交わし合う。
その時、ここまで続いていた藪から物音がして、リョウ姉と身を寄せ合うように、そちらを見た。
「おい、杏矢!? 怜ちゃんもいた! こんな所で何してるんだお前ら!」
――――初めて見る人、だった。
なのに、俺は……それが誰なのか、すぐに分かった。
“父さん”だ。
「お前ら、心配したんだぞ!? あんな本、いったいどこから……!」
“父さん”は、頭にタオルを巻いて、真っ黒に日焼けした腕をタンクトップから覗かせて藪から出てきた。
日焼けして赤い顔に口ひげを蓄えた、頼りがいのありそうな……顔がどことなく爺ちゃんに似ている、ガタイの良い人だった。
人相は少し悪いのに、“俺”と“リョウ姉”を見て、心底、安堵しているような表情は……間違いなく、“父さん”だ。
直後、藪の中からもう一人。
「ねぇ、いた!? 杏矢! 怜ちゃ――――」
声で分かる。
“母さん”の声だ。
でも。
――――“母さん”の顔を見る事は、一瞬すら、できなかった。
『う、ふふふふ……だめ、よ。だって……いっしょに、あそぶんだから』
藪の中から出てきた母さんは……消えて、しまった。
そこにいたのは、玄関で止まっていたはずの“花子さん”だ。
母さんがいたはずの場所には、もう何も残っていない。
大きな水たまりがあるだけで――――何も。
「え、う゛……あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
母さんが――――いなくなってしまった。
その絶叫は“俺”のものなのか、俺のものなのか、分からない。
異変に振り返った父さんの目の前に、“花子さん”がいて……触れた瞬間に、父さんも……水たまりだけを残して、消えてしまった。
ほんの、一秒ほどの事だった。
父さんも、母さんも――――いなくなって、しまった。
父さんの残した水たまりの上に、“花子さん”が立ち、水柱を上げた。
『あそぼ。ねぇ……いっしょに、あそぼ?』
“俺”は……一しきり叫んでから、何も言わなくなってしまった。
視界はまだ残っているから、気絶したわけでもないだろう。
目の前まで突き付けられた“花子さん”の手はますます水死体のように青白くて、ところどころ、皮膚も剥げていた。
『よんでくれたね。ほら……いっしょに、あそびに……いこ……?』
つん、と鼻を刺す、水に浸しっぱなした肉の腐臭。
なのに、“俺”は身じろぎ一つできない。
きっと――――この時だ。
この時、俺は……壊れてしまったんだ。
俺の顔に、“花子さん”が触れようとした時……ぐんっ、と後ろに引かれ、遠ざけられた。
「……待っ……て、ください」
そして――――目の前に進み出てきたリョウ姉が、見えた。
あの恐ろしい“花子さん”の前に、俺を、庇って。
「ボ、ボクが……ボクが、呼んだんです。だから……待って、ください」
『……いっしょに、あそんでくれる?』
「はい、だ、だから……だから……」
“リョウ姉”は、呻くように……涙を落としながら、言った。
「キョーヤを……キョーヤを、連れていかないで……ください……お願い、します……!」
そこで。
“俺”の視界は暗転し、何も聞こえなくなった。




