ぬるいサイダー
僕の好きなものは、サイダー。
キンキンに冷えたものじゃなくて、常温の、ぬるいやつ。
初恋の味がサイダーだなんて、ちょっとおかしいかな。普通は、『レモンの味』って言うよね。
それでも実際に僕の初恋はぬるいサイダーから始まったのだから、その主張を取り下げることはしない。
井沼正次。平凡な大学生の僕は、何年も、近くて遠い人に恋をしている。
彼女に出会ったのはいつか。
そんなことを聞かれたとしたら、「何も知らない赤ん坊の時から」としか答えようがない。
僕と彼女はいわゆる幼馴染なのだ。
家も隣で、小さい時からよく一緒に遊んでいた。
ふたつ年上の彼女が高校生の頃はあまり声を交わせなかったけど、僕が大学生になった頃には彼女は時間に融通の利く仕事をしていて、他愛もないお喋りをする余裕もできてきた。
彼女の名前は本田レイ。幼馴染で、お隣さんで、僕の想い人。
どこが好きだと聞かれたら、何と答えたらいいんだろう。
一緒に育ったも同然のレイのことは、ある程度知っている。ある程度、というか、ほとんどと言ったほうが正しいかな。
大雑把な性格で、好意を寄せている男性にも気づかないくらいには鈍感で、そのくせ自分の部屋は驚くほど綺麗に整頓されていること。
レイは基本的には明るい性格をしているけど、怒らせたら、ものすごく怖い。
大きな目を吊り上げて、まるで般若のような顔で、延々とお説教。中学生の頃の僕は、何度その顔を見ただろう。
数えるのも馬鹿らしいくらい、僕は怒られていた。
本気で怒ってくれていて、本気で心配していてくれていたと知ったのは高校生の時だったと思う。
バイクの免許を取った友だちのバイクに二人乗りしていて、事故を起こした時だ。
病院で目を開けた時に真っ先に目にしたのが、般若のようなレイの顔だった。そしてその顔は、今にも泣き出しそうなもので。
レイに泣かれると、困る。
それは、昔も今も変わらない。泣いている顔を見たくないのだ。胸が苦しくなるから。
昔はそれを恐怖からのものと思っていたが、今になってこの想いに気づいてからは、あれは「悲しませたくないから」だったのだと認識できる。
好きな人の泣き顔はなるべくなら見たくない。嬉し泣きは例外だけど。
レイは多分、モテるのだと思う。
整った顔立ちに加えて、人を引き付けるオーラを放っている。彼女の家の前に立つ、僕と同世代と思われる男の子を何度か見かけたこともある。
でも、それを見ても、僕は何も行動を起こさなかった。
この想いを伝えてしまえば、この関係は崩れてしまう。幼馴染という、心地いい繭が。
臆病者というのは自覚している。僕はヘタレだ。言われなくても分かっている。
彼女が、知らない男と話しているのを見るだけで嫉妬するし、僕のものにしたいという気持ちがないわけではない。
居心地が良すぎるのだ。この『幼馴染』という立ち位置が。
ずっとそこにいては何も進展しないが、それでもいいか、と思う自分もいる。とんだヘタレだ。
恐れているだけでは何も始まらない。
思い切って告白しようと思ったのは、きっと、夏のせいだ。
僕もレイもまだ小学生だった頃のことだ。
当時、新しくできたショッピングモールに僕の家族とレイの家族とででかけたことがある。
新しいショッピングモールは大人が見ても広く大きくて、小さかった僕にはとても大きな城に迷い込んだみたいだと錯覚したのを覚えている。
迷子のお知らせがひっきりなしに放送されていたっけ。
「わたしたちも気を付けなきゃねぇ」
などと話している母たち。
小さい僕なんて、そんなことはまったく気にしていなかった。
いつの間にか家族と離れて、迷子になった、と気づくまでは。
迷子だと訴えようにも、サービスカウンターがどこにあるのかも、今自分がどこにいるかさえも分からず、パニックになりそうな僕の目の前に手が差し伸べられた。
「なにやってんの、せいじ。ほら、行くよ」
目の前に、レイが立っていた。
右手で僕の手を握って、左手にはペットボトルのサイダーを持っていた。
家族と合流した僕は、こっぴどく叱られて、手をしっかりと握られて歩くことになった。
左手を母に、右手をレイに。
途中で少し休もうと大人が言い出し、モール内にある休憩所で一息つく。
僕はまだまだ見ていない所を見て回りたかったが、母が許さなかった。
ふてくされている僕に、レイがジュースをくれた。僕を迎えに来てくれた時に持っていたサイダーだった。
あれから一時間は経っている。その間、ずっと外気に晒されていたサイダーはすっかりぬるくなっていたけれど。
その、ぬるいサイダーの味を、今でも覚えている。
幼いながらも抱いた想いと、一緒に。
仕事が休みだと言っていたレイを、近所の公園に連れて来た。公園では、子どもたちが楽しそうに遊んでいる。
昔の自分たちがそれに重なった。
「あ。あの子あんたのちっちゃい頃にそっくり」
レイも同じことを思っていたようで、公園の隅で砂遊びをしている男の子を見て、僕に言う。
「なんか、懐かしいね」
僕らも、ここにいる子どもたちのような時期があった。
誰にでも訪れる、無邪気な季節。
公園のベンチに腰かけると、レイが髪をかき上げながら僕を見た。
「それで?話って何よ」
「んー、何っていうか……。告白?」
「なんで疑問形なのよ」
レイはからからと笑う。
告白をしようとしているのは間違いないのだけれど、本気と受け取ってくれるか分からない。
緊張のせいで口がからからだ。
「レイ、あのさ」
「本気の告白なら聞かない」
「え?」
レイの口から出た拒絶の言葉に、頭が真っ白になる。
どうして、と聞く前に彼女はベンチから立ち上がり、歩き出してしまった。
「レイ!待ってよ、ねぇ!」
僕の言葉は、レイを止めることはできなかった。
「どうしてなんだよ、レイ……」
萎んでいく心に、子どもたちの無邪気な笑い声が突き刺さった。
数日後、本田レイは一人暮らしを始めると引っ越していった。
それは、僕の恋が終わるのと同義だった。
公園でのやり取りはまだ耳の中に残っている。
夕暮れの迫る空を眺めていたら、母が僕を呼ぶ声がした。
「何?母さん」
「アンタに手紙だよ。レイちゃんから」
「えっ!」
母の手から引っ手繰るようにその封筒を受け取り、自分の部屋に戻る。
レイから届いた手紙は、可愛らしい柄の封筒に、三枚の便箋が入っていた。
その手紙を読み終えた僕は、終わったはずの恋がまた始まったように感じられた。
「相変わらず、お見通しだ」
溢れてくる涙を堪えることもせず、僕はただ立ち尽くした。
『拝啓、井沼正次様。
……なんて堅苦しい挨拶はしないことにします。そのほうがお互いに楽でしょう?
この間のことだけど、本当は嬉しかった。あの告白をちゃんと聞きたかった。本当よ。
でも、明日に生きるか分からないアタシに、正次の人生を縛りつけたくなかったんだ。
ずっと前から好きだったよ。
アタシばっかり言ってズルいって分かってる。でも、今しか言えないかもしれないから、言わせて。
正次がぬるいサイダーを好きなように、アタシも好きなものがあるんだよ。
それは、あんたの声。
ちっちゃい頃に「レイ姉ちゃん」って呼んでくれた声も、「レイ」って呼んでくれる声も大好きだった。
おかしいね。両想いなのに、アタシはあんたの告白を聞かないことにした。
今、ちょっと後悔してる。
もし、まだ正次の心がアタシを向いてるなら、今度会った時に聞かせてよ。
疑問形の付かない告白を。
その時は、きっと素直に頷けると思う。いや、頷くよ。
また逢えるのを楽しみにしています』
レイが何を望んでこの手紙を書いたのかは分からない。
彼女に逢えたなら、聞いてみよう。そして、言えなかった言葉を言おう。
「好きだ」
そう、真っ直ぐなその言葉を。
レイがいなくなってからもう三年が経とうとしている。
今年の夏も暑く、それでもあの公園には子どもたちの声が響いている。
「今日は誕生日だったね、レイ。おめでとう」
僕はぬるいサイダーで祝杯を挙げた。
END




