糸切りキリコ
あーあ、なんだかとっても退屈ね。
あら、失礼。あたしとしたことが気がつかなかったわ。
初めまして、こんにちは。あたしはキリコっていうの。以後、お見知りおきを。
こんなところでなにをしているのかって?
見てわからないのかしら。仕事をしているのよ、仕事。このはさみが、あたしの自慢の商売道具。今日はあなたの縁を切りに来たのよ。
縁って、あなたとあなたの恋人さんを結んでいる、赤い糸のことよ。それ。あら、そうね、人間には見えないのだったわね。このレンズ越しに小指を見てご覧なさい。そう、これよ。
嫌だって言われても、困るわよ。あたしだって依頼を貰ってあなたのもとへ来ているわけだから。
え?依頼主は恋人さんではないわよ。よかったわね。
そうねえ、いつもは面倒だから隠しておくのだけれど、退屈ついでに特別に教えてあげるわ。依頼をしてきたのは女よ。恋人さんに兼ねてから憧れていたのですって。
……やっぱり教えるべきではなかったかしら。嫌よ、依頼を取り下げるよう説得しに行くなんて。どこの世界に自分で自分の仕事を減らすやつがいるのよ。
あー、はいはい。わかった。わかりました。
じゃあ一回だけね。一回だけ、彼女のところに行ってあなたの主張を伝えてくるわね。ちょっと待っていてちょうだい。
と、言うわけなのよ。
彼の恋人さんは、こういう形で縁が終わることを不本意に思っている。それにあなただって、なにも影響を受けないわけではないのよ。人を呪わば穴二つ、とも言うでしょうに。
人の運命に手を出すということは、それだけ罪作りなことなの。なんらかのペナルティーは免れないわ。そこまでして、あの二人を結ぶ赤い糸を切りたいのかしら。
わかっているわ、ごめんなさいね、一度引き受けたのにこんなことを言って。
もちろん今までも、お目当ての人を恋人から奪うための糸切り依頼はあったし、きちんと遂行してきたわ。揃いも揃ってみんな、別にペナルティーを受けても構わないって言うのよ。あなたと同じように、ね。
でもあたしは、やっぱり不思議なのよ。ペナルティーを受けるほどの覚悟があるのなら、どうして自分で行動を起こさないのかしら、って。
あたしには糸を切ることはできるけれど、結ぶことはできない。お目当ての人と結ばれるには、結局は自分で動かなくてはならないのよ。
そうね、別業者に頼むという手もあるけれど、それにもまた対価が必要になるから運気は大凶どころの騒ぎではなくなるでしょうね。あまりおすすめはしないわ。
まぁ、とにかく。それぞれ葛藤や、悩みや、置かれた状況や、懸念事項が色々あるのでしょう。でも、自分の力でなんとかしようともがく前から、あたしに依頼をしてくるというのは筋違いのような気がしてしまうのよね。
ふふ、あたしがこんなことを依頼主に言うことが一番の筋違いかもしれないけれど。
……そう、わかったわ。依頼は取りさげないのね。
彼の恋人さんにもそのように言っておくわ。時間を取らせてごめんなさいね。
やはり依頼は取りさげないそうよ。
え?彼も別れないって言っている?だから切らないでほしい?
それとこれとは話が違うわよ。別れる別れないではなくて、運命的な結びつきを切るっていうことよ。
そのあと別れるかどうかは、あなたたち次第。心がしっかり繋がっていれば、切れている赤い糸を結び直すことだってできるのだから。
……ちょっと、やめてよ。あたしが泣かせたみたいじゃないの。あら、ごめんなさい、電話だわ。
え?やっぱり依頼をなかったことにしたい?どうしたのよ急に。うん、うん、……まずは自分のできることから始めてみます……。
なるほどね。いいんじゃないかしら。あたしが言うのもなんだけれど。まぁ切ってほしくなったらいつでも言ってきなさい。がんばるのよ。
聞いていたかしら。切られなくてすんだわよ、よかったわね。いや、だから泣かないでよ。あたしが悪者みたいじゃないの。
こんこんこん。
一区切りついた、と思ったところで、研究室のドアがノックされた。マナーを守った三回のノックとは、珍しい。誰だろう。
「はあい」
僕はパソコンから顔をあげ、間延びした声で返事をする。失礼します、という決まり文句と控えめな所作と共に現れたのは、同じ研究室に所属する後輩の女の子だった。僕の顔を見るなり、いっぺんに安心した表情になる。
「よかった、まだこちらにいらしたんですね」
そう言うと彼女は、研究室のドアを丁寧に閉め、肩から下げた鞄を机に置いた。
「卒論、おつかれさまです。調子は如何ですか」
「ありがとう。うむ、難しいね。なかなか言いたいことがまとまらなくて」
「あっ、もしかしてわたし、お邪魔をしてしまいましたか」
「いやいや、全然。今書いていた章は、とりあえず一区切りついたところだったし」
「そうでしたか。よかったです」
と、彼女は研究室の中をきょろきょろと見渡す。
「あ、今日は……」
「ああ、あいつなら今日は来てないよ」
あいつ、とは僕の恋人のことだ。恋人もまた、同じ研究室所属で僕の一個上、現在大学院生だ。研究室に僕と二人きりという状況、恋人の目を気にしてくれたのだろう。
しかし心配には及ばない。恋人は研究会だバイトだで毎日忙しく飛び回っていて、研究室はおろか大学にさえ姿を現さない。そしてそれは僕に対しても同様だった。
近頃は僕も僕で卒論でいっぱいいっぱいになっており、連絡を取り合うことすらほとんどない。お互い忙しくてぴりぴりしているせいか、会っても言い争うことが多くなっていた。
そういえばさっき「わたしと別れたい?」という趣旨のメールが来たけれど、あれはなんだったのだろう。とりあえずは「そんなわけないだろ」とだけ返しておいたけれど。もしかして、わたしは別れたいのよという意思表示だったのだろうか。いずれにしても、近いうちに二人でゆっくり話をする場を設ける必要がありそうだ。
「最近はゼミにもいらっしゃっていませんし、きっとお忙しいのですね」
そう言うと彼女は言葉を切り、だがしかしなにか言いたげな様子で斜め下に視線を泳がせた。
長い睫毛はふるふると揺れ、頬はほんのりと桃色に染まっており、その様はまるで人形のようだった。
「……あの、先輩」
彼女は意を決したかのように顔を上げた。独特の緊張感が狭い研究室いっぱいに張り巡らされ、僕は思わず身構える。
「ん?」
「これ、もしよかったら、卒論の休憩のときにでも、召し上がってください」
鞄の中から彼女が取り出したのは、きれいにラッピングされたクッキーだった。緊張から解き放たれて安堵する反面、物寂しい気持ちも広がらないでもない。
複雑な心境を持て余していると、受け取った包みごし、手のひらにほんのりとぬくもりが伝わってきた。
「え、これもしかして手作り?きみが作ったの?」
「はい。さっき作ったんですけど、ちょっと作りすぎてしまったので、……先輩におすそ分けです」
ラッピングの隙のなさからは手作り感は全く感じられない。包み越しに垣間見えるクッキーも、一個一個きれいに焼きあがっていて、
「すごいな。まるで売り物みたいだ。ありがとう、うれしいよ」
思ったままに礼を言うと、彼女は満面の笑みを浮かべ、えへへ、とはにかんだ。
「喜んでいただけて、わたしもうれしいです。お口にあうとよいのですが」
本当にうれしそうな、幸せそうな笑顔。
……あれ?なぜだか、胸の奥がこそばゆい。
なんだろう。彼女の笑顔を見ていると、心がざわざわと騒ぐ。こみ上げてくる懐かしい感情に、僕は動揺を隠せなかった。
まいったな、こんな気持ちになることなんて、久しくなかった。僕は、甘酸っぱいくて、胸が詰まるような感覚に一人浸っていた。
「では、わたしはそろそろお暇しますね」
僕の乱心に気づくこともなく、彼女は手早く荷物をまとめ始めた。
彼女をこのまま帰してしまいたくない。僕は直感的にそう思った。ここで帰したら、きっと後悔する。
「ではお邪魔しました。卒論、がんばってください」
「あのさ」
彼女の別れの挨拶を遮り、僕は言った。
「このあと、時間あるかな」
ええ?赤い糸を切ってほしい?
ついさっきまでと言っていることがずいぶんと違うじゃないの。なによ。
……あんな笑顔、わたしは見たことがない、もう無理なんだと思う?
ふうん。で、糸そのものを切ってしまうというわけね。女って怖いわね。
赤い糸は一本しかない大事なものだから、彼と結ばれていたままでは困る。なるほど。確かにそうね。誰かと結ばれたままじゃ、結び直すこともできないものね。
でも知っているかしら。それって女だけなのよ。
本当よ。
このレンズを通して、彼の小指を見てご覧なさい。
……ね。わかったでしょう。彼の赤い糸、あなたと、あの後輩の彼女。どちらにも延びているの。男の人は、赤い糸を何本も持っているのよ。
男の恋は名前をつけて保存、女の恋は上書き保存って有名なフレーズがあるけれど。
あなたが彼との赤い糸を切っても、彼にはまだ他の運命の相手がいる。あなたは彼との赤い糸を切ることで、他の相手を運命の相手として選び直すことができる。裏っかえせば、そういうことにもなるわね。
そう、わかったわ。じゃああなたと恋人さんの赤い糸、あたしが責任を持って切って来るわね。おつかれさま。
はあ。赤い糸で結ばれていたってこれだもの。運命なんてあてにならない。人間の感情なんてもっとあてにならない。
あなたもそう思うでしょう?
まぁだからこそ、あたしは働きがいがあるというものなのだけれどね。結ばれる相手がただ一人に決まっていたりなんかしたら、商売あがったりだもの。
だからあなたも、もしも赤い糸を切りたくなったら、いつでも連絡なさいな。あたしがちょん切ってあげる。
いいかしら。あたしは「糸切りキリコ」。
覚えておいてちょうだいね。




