え
絵を描きたいと思い立ち、どこかの景勝地を訪ねてみようという気になった。俺の生活はこうした思いつきで成り立っていると言って良い。どこに行くべきか、俺は迷った。単なる思いつきなのだから、近場でいいだろうとも思ったが、やはり近場は詰まらぬ。こういう時には思い切って遠出をして非日常が見たいものだ。そんな『草枕』の様な事を心中でつぶやきながら、それでも出かけるのが億劫でずっと先延ばしにしていた。が、あるときこれでは先に進まぬと思って、予行演習としてとりあえず身近なものを写生してみようと思った。とは言ったものの辺りを見回してもこれと言っていい素材が見当たらない。世の中そうそう美しいものなど転がっていない。仕方が無いから、家の壁にかけてある猫カレンダーの猫を写生する事にした。俺は鉛筆画が好きなので、鉛筆だけで描こうと思った。尤もプロの鉛筆画の様に写実的には描けぬから、まあラフな雰囲気で描こうと思った。ロシアンブルーという種類の猫を素材として選んだ。
黒鉛筆で下書きをする。大方のまとまりが付いたら、色鉛筆で色を塗る。薄く塗っていくらか抽象的にする。次に指先に水を付けて絵を擦り、ぼかしをかける。これで更に雰囲気が出る。色を塗った部分を軽く消しゴムで擦ってみる。これは思ったより効果がないが、色とりどりの消すクズが出て面白い。
それらの作業を繰り返していると、段々と完成形に近づいてきた。なかなか体力を消耗する。慣れない事はなるべくしない方が良い。
ご覧の通りの出来である。そのとおり。俺は決して絵が上手ではない事を認めよう。上手どころかどうしようもなく下手で、学校の美術の時間が嫌でたまらず、課題などは殆ど提出した事が無いくらいである。それだからいつも美術の成績は頗る悪かった。ところがどうだろう、真剣に描いてみようと思えば決して書けない事は無い。今こうして描いたものは決して写実的でもなければ芸術的でもないけれども、描いているうちに自分の作品としての愛着が湧いてきた。鉛筆を無心に走らせている間は、日常の瑣事を忘れこの絵の事だけを考えている事が出来た。作者こそ作品の恩恵を一番に受ける者だ。芸術とはこういうものでなければならないと思った。芸術が好きだ。