第二十話 非常事態2
そろそろ、首が回らなくなってきました。
頑張れ自分ー
そんな不穏な空気に気づいていないイリスは、地図をここかあそこか指さし見ていた。
「うーん……とりあえず、東に行ったら間違いないかな……」
信用ならない地図だけど、イメージするに今いる場所より北東方向にルブリはあるはずだ。それなら、東に向かって歩けばまず間違いない。
「けど、それじゃあ、いつ街が見つかるかもわからないよ? 北へ向かえば、今日中にもノースラインには着くはずだよ」
ノースライン―――フィラディアの北の境界線だ。別名「北壁」とも呼ばれていて、実際壁があるわけではないが、このラインに沿うようにして大きな街や都市がある。ヴァラド山脈からやって来る魔物を防ぐように作られているので、砦のような建物が多く、小さな町でもいざという時籠城できるように一通りのものが揃っている。
確かに、ノースラインで街を見つければ何よりだ。だが、東へ行くより魔物との遭遇率は格段に上がる。とっておきの魔法具を持ってきてはあるが、それで野盗は倒せる見込みはあっても魔物なんて倒せそうにない。
イリスが渋っていると、エリトが笑った。
「イリス、そう重く考えることはないよ。なにしろ、僕らにはトワがいるからね! 魔物の方から避けて行ってくれるよ」
(それもそうか)
野犬の時の様に、魔物も退いてくれるだろう。
期待を込めてトワを見ると、トワはよくわかっていないようで首をかしげた。
「なんだ? 夕食は魔物か? それなら、蜘蛛みたいなのはやめてくれ。あれは美味くない」
「え? トワって魔物食べるの?」
すると、さも驚きといった様子で「人間って魔物を食べないのか?」と訊き返された。
(こういうのを聞くと、あートワって人間じゃないんだなーって思うよ……)
人間の姿をしているため、トワが人間であるように思いがちだ。しかし、思い出したようにトワは人外らしいことを言う。意外にも、石のエリトの方が人間らしい感性を持っているのだ。
「まぁ、でも、それなら大丈夫だね。今なら、魔物に出てもらいたいし、北に行こうかなぁ」
それでも、もしもの時は、こっぱずかしいあのセリフをもう一度言う覚悟だけはしておこうと思うイリスだった。
※※※※
すっかりと日が暮れたころになって、ようやくイリスたちはノースラインにたどり着いた。
今日は諦めて野宿するつもりだったのだが、トワがイリスには見えない遠くに砦があるのを見つけたので、夕焼け空の中を歩き続けたのだ。丸一日平で代わり映えのしない荒野を歩き続けて、イリスはくたくただった。今だけは、石のエリトが羨ましい。
「なんかぼろい砦だな」
「小さいだけだよ。裏のイノシシよけの壁と似ているし、大丈夫じゃないかな」
元のトワの大きさを基準にすると、確かに心もとない。だが、イリスには十分に思えた。
基準がイノシシになるのは、対動物戦略に富んだカルナの人間ならでは、だ。何年かに一度現れるか現れないかという魔物より、毎年田畑を襲撃に来る野生動物の方がずっと天敵という意識が強い。
「魔物と比べる物じゃないよ。さぁ、入り口はどっちだろうか」
「南側じゃないかな?」
石を積んだ壁伝いに砦の周りを歩く。魔物の爪痕なんかが残っていて、まるで勲章のようだった。半円のさらに半分程歩くと、しっかりとした大きな入り口が見えてきた。こうして正面から見てみると、それこそが魔物のようだ。ぱっくりと大きな口を開けて、イリスたちを出迎える。
でも、おかしい。
(……門番がいない)
砦のつくりをしておきながら、門番さえおかないなんておかしい。
それとも、砦だけで十分守りきれるという自信か?
(なんだか、嫌な気分……)
頭が鈍いような、目が痛いような、いや、腹が重いような気もする。空腹で仕方ないのに。
きっとこのせいだろう。
そう思って、イリスは何も言わなかった。
トワは門番の事は気にならないようで、また長話をしようとしたエリトを押さえつけていた。ずっと一緒にいると、いつまでも怯えていられなかったのだろう。いつの間にかトワは対策を見つけて、エリトが「彼女は―――」と言い出すと両手で押さえつけていた。こうすると、声が聞こえなくなるのだ。おまけに、見えなくもなるらしい。理屈はわからない。
イリスは段々と重くなっていく荷物を持ち直すと、砦の入り口に足を掛けた。
石の階段を上る。
日の光を浴びない石の門の下は、ひんやりとしていて空気が肌を撫でる。首筋が震え上がりそうな感覚だった。
暗い洞窟めいた階段をずんずんと進み続け―――
「何、これ……」
視界が開け明るくなった瞬間、イリスは呆然とした。
嫌な予感はしていた。
補強されることのない壁の傷。
門番のいない門。
妙に冷えた石。
体に響くその臭気。
そして何より、夜なのに灯りのないそれ。
砦は、魔物によって攻め落とされていた。