第十九話 非常事態1
間に合ったぁ~
トワの仲間入りは、イリスたちに思わぬ幸いをもたらした。
一つは、道案内。
森は自分の庭と言わんばかりにトワはイリスとエリトを先導してくれた。はじめ東込み明るかった森も、奥へと進むごとに鬱蒼とし、川や地割れが行く手を阻んだが、トワが手を貸してくれたおかげでなんとか進めた。おかげで、イリスは十日を覚悟していたが七日で森を出ることができた。
もう一つは、獣避け。
人間姿になっても、ドラゴンはドラゴン。野生の本能が立ち向かってはならないと警告するらしく、飢えた野犬だってトワには近寄ろうとしなかった。その脇から、イリスをおいしそうに見ていたが。
その代りに、思わぬ問題も生じた。
トワの仲間入りは、イリスの食糧事情に大打撃を食らわせたのだ。
ドラゴンから人間になって大きく食事量は減ったが、成人男性にしても大柄なトワを満足に食べさせるとイリスの鞄の中の食糧は驚くべき速さで減って行った。男の人はこんなに食べるものなのか!と、すっかり忘れていたことを思い出した。
それでも、森の中にいる限りは良かった。季節は八月半ば。トワの食糧となる植物は十分にあったし、雑食らしいから時々ウサギを狩ったり魚を捕ったりすればなんとかならなくはなかった。
だが、問題はその後だ。
森に入って七日目、トワに出会って五日目、ついに三人?は森を出てしまった。
「それじゃあ、第一回食糧問題対策会議を始めるよ」
エリトが明るく開会宣言を上げた。
まったく逼迫した状況が感じられないのは、彼が食事を必要としないためかもしれない。空腹で落ち着かない二人は、そう笑っていられない。
「旅って思った以上にお腹すくんだね……」
腹に手を当てれば、小さくくぅと腹が泣いた。餌を与えてもらえない飼い犬のようだ。
(けど、良いように考えればダイエットのチャンスだよね?)
あの野盗一味の発言が未だ気になるイリスである。
だが、イリスは良くても、なんとかトワには何か食べさせなければならない。
「何か捕まえればいいんだけど……」
すっかりサバイバルに慣れてしまったイリスである。
ウサギも魚も、今なら野犬だって捕まえて見せるが―――
「こんな荒野じゃ、何も見つからないだろうね」
エリトの一言に腹減り二人はがっくり項垂れた。
トワの森の北は、呆れるばかりの荒野だった。地図で行けば半日も歩けばフィラディア第二の都市ルブリに着くはずなのだが、見渡すばかりの荒野には不毛の大地と魔物の住むヴァラド山脈しか見られない。既に半日程歩いたが、もう半日歩いたところでルブリが見つかるかも怪しい風景だ。
「イリス、食糧は後何日持ちそうだい?」
「切り詰めて明日の昼まで」
既に今は昼過ぎ。つまり、後三食だ。
グシェルで買い込んだ食糧は十日分。普段のイリスの食事量で買ったので、とうに底をついている。今、イリスが保持しているのは、森から持ってきた果物と野草だけで、あまり栄養価が高いとは思えない。
もっと切り詰めることもできなくはない。しかし、旅路で食事を疎かにしすぎると、今度は体力が減って進めなくなる。難しいバランスゲームだ。
「だいたい、言う程選択肢ないよね?」
「街を見つけるか、川を見つけるか、我慢するかの三択だね」
「それ、選択肢になってないだろ……」
おいしい食事目当てで森から出てきたトワは、殊更残念そうだった。眉が下がって見るからにしょんぼりしている。いい男が台無しだ。
「せめて、今どこにいるかがわかればいいんだけど……」
イリスは鞄の奥から地図を引っ張り出し地面に広げた。
安物の地図は、公的機関やギルドの幹部が持つ地図と比べるとはるかに劣る粗悪品だ。空白が目立ち、そこが農地なのか荒野なのか違いがわからない。そもそも、王都やルブリは黒丸の横に名前が書かれているが、ソラドラは汚れみたいなちいさな点だけで名前すらもない。
(意外と箱入りだったんだ……)
旅をしてみればわからなかった。
物心つく前にソラドラに越してきてから、イリスは買い付けで近隣の村街に行く以外ソラドラの外に出たことがなかった。それも、たいてい夫がついてきてくれたので一人で出たこともなかった。
母一人子一人でせっせと店をやっていたから、意識したことはなかった。結婚前には店の経営も一人で出来るようになっていたから、それなりに自立した人間だと思っていた。
「困ったなぁ」
心の中で呟いたはずの一言が、知らず口をついて出た。
「すまん……俺がいなければ……」
ハッとしたのも遅く、トワがしゅんとしてしまった。
「違う違うっ。トワの事を言ったわけじゃないの。別に、トワが悪いわけじゃないし」
「そうだね。トワがいなかったら、森の中で遭難していたか、崖から落ちていたか、川で溺れて海まで行っていたか、しただろうしね。君が落ち込む必要はないよ! それより、叱るべきはこの地図の書き手だ。見て! 縮尺が狂っているじゃないか!」
地面に広げた地図に、エリトが非難の声を上げる。
地図を見慣れない二人はまったく気づかなかったが、それでは半日でルブリに着くはずがない。
「……信じられない博識の石だな」
「そうだね。エリトがいると助かるよ」
イリスは本当に助かったと頬をゆるめた。
だが、トワは違った。信頼しきっている様子のイリスを横目に、トワは眉根を寄せる。
(確かに、助かるが……イリスは森の前で出会ったと言ったけれど、これがそこら辺に転がっているただの石なわけがない。何なんだ、こいつは? 博識というレベルで置いておいていいものかも疑わしい。もしかすると―――)
ひとつの考えが浮かんだ瞬間、トワを呼び止める声が聞こえた。耳ではなく、頭に。ドラゴンの姿のトワが、二人に話しかけたのと同じ方法だ。イリスが反応していないのを見るに、トワにだけ聞こえるようにやったのだろう。器用な奴だ。
「それ、少し黙っておくれ」
「あまり良いこととは思えないな」
「わかっているよ。けれど、もう少しだけ」
「何をするつもりだ?」
「別に。イリスに何かしようっていうつもりはないよ。ただ、ちょっと」
思うところがあって―――そう答えるエリトは、笑っているようだった。
(気味の悪い奴だ)
トワのドラゴンとしての本能が、エリトを信用ならないと告げていた。
イリスが地図に食らいついているのを良いことに、きりきりと睨むトワをエリトは格下の獣が威嚇するのを見るかのように余裕綽々だ。
信用ならないとかいう以前に―――腹が立つ。
引きこもりで他者との交流不足のトワは知らなかった。それが、「気が合わない」ということだと。