第十六話 トワの森6
「ど、どどどどど、ドラゴン―――!!」
イリスの声は、森の切り開かれた所一帯に響き渡った。
勿論、エリトにも届いている。
「ど、どうしよう、エリト!」
「どうしようと言われても! イリスは、ドラゴン語喋れるかい?」
「ええええっ? ドラゴン語って何? どこで教えているの!? がおーって感じ?」
「がおーじゃ、ライオンじゃないか! もっとなんと言うか、ぐおーんという感じじゃないのかな???」
パニックを起こした二人は、そろいもそろっておかしな言葉を連発し始めた。
ドラゴンの鳴き声はどちらの方が似ているか、と競って物まねを始めるが、ドラゴンの正しい対処法はそもそも説得することではない。
ドラゴンは肉食草食雑食それぞれだが、確率だけで言うなら肉食率が圧倒的に高い。捕食相手が「食べないで」と説得してきても食べない生き物はいないだろう。イリスだって大好きなクランベリージュースが「飲まないで」と言ってきても飲むだろうが、今そんな発想はなかった。
そして、どちらかと言うとボケ寄り二人ツッコミ不在のこの旅で、まともな言葉をくれるものなどいるわけがない。
だが、幸運にも良識ある発言があった。
「そういう時は、言い合っていないでさっさと逃げるんだ」
呆れるような口調の、うっとりするような耳障りよい低い声。
どこからともなく聞こえてきたその声に、ああそうかと納得した一人と一石は声をそろえてお礼を言った。
「それじゃあ、逃げようか、イリス」
「うん。逃げよう」
「いや、ちょっと待て」
先程の声が一人と一石を止める。たたらを踏んだイリスは、あろうことかカバンからエリトを落としてしまった。
「あぁぁぁあああっ! エリト、大丈夫!?」
「何、問題ないさ。僕は体の頑丈さが自慢でね。こんな高さから落ちたところで欠けたりしないよ。―――嗚呼、でも上流から流すのは勘弁しておくれ。小石サイズは許せても、砂利にまでなってしまっては彼女に合わせる顔がないからね」
慌ててしゃがみ込めば、エリトがピンピンとした様子で答えてくれた。
ただ、いい年した女が石に向かって話しかけるのは、かなり奇怪な光景である。
「さっきから余分な声が聞こえると思ったら、石に話しかけていたのか」
「ええ。ちなみに、貴方の姿が見えないんだけど、どこの石なの?」
すると、慌てた美声が「違う。上を見ろ」と言ってきたので、仰げば―――
「ど、どどどどど、ドラゴン――――!!」
すっかり忘れ去っていたダークブルーのドラゴンの姿。
(た、た、食べられる――――)
走馬灯のように色々な人の顔が走り抜け、最後に夫の顔が過る。ごめんなさいと謝りたかったが、その言葉が彼本人に届くことはないだろう。
イリスは今回ばかりは己の運の悪さと面倒事の引き当て具合を恨んだ。ドラゴン相手では生き残るものも生き残れないだろう。
だが、そのお別れの時はいつまで経っても来なかった。
代わりに、呆れた様子の美声が落ちてくる。
「さっきからずっと話しておきながら、今更ビビるな」
「え? もしかして……」
「お前の目の前にいるドラゴンが、俺だ」
「がおーって鳴かないんですね」
「脳に直接語りかけているんだ。鳴き声はまた別にある」
そう言えば、良い感じに頭に響いている。
「じゃあ、ドラゴンってどう鳴くんですか?」
「聞くことはそれか」とまた呆れた声を零したが、人?のいいドラゴンは結局鳴いてくれた。ちなみに、鳴き声というよりは地響きのようだった。真下で聞いたものだから、頭がぐわんぐわんする。
「………全然、がおーって感じじゃないですね………」
「言いたいことはそれか。本当に変わった女だな。石相手に話しかけるし」
「何を言っているんだい! 僕は、エリト。おしゃべり好きだからね。たとえ石だろうが話しかけてもらわなければさびしいじゃないかい! ドラゴンの君だって話す相手がいなければさびしいだろう?」
「おい、お前腹話術までするのか? さびしいのはわかったが、そんなことする方がもっとさびしいだろ」
ドラゴンの黒い爪先が、小さなエリトを指さす。
「エリトはあたしの腹話術で喋っているわけじゃありませんよ」
「ああ、そういう設定か」
残念そうな子を見るような目で見られた。
「設定言わないでください! ってか、あたしも昨日エリトと出会ったばかりですよ!」
「どこで?」
「この森の入り口ですよ。いきなり『永遠の愛は存在するか』と問われて、永遠の愛について語られました」
「………お前、頭大丈夫か?」
ドラゴンにうっかり遭遇するくらいだから、喋る石にうっかり遭遇してもおかしくないじゃないか。どこがおかしいのか全然わからない。
しかし、ドラゴンは未だイリスを残念そうな子を見るような目で見ている。
(あ、かちんときた)
イリスの目が据わる。
ドラゴンを静かに睨めつけて、宣言した。
「一先ず、お昼にしましょう」
※※※※
お昼宣言をして、その直後、問題が発生した。
イリスにとっては丁度お昼な時間帯だが、エリトは食べ物を必要としない。また、ドラゴンが食べる量をイリスが用意できるはずもない。必然的に、昼食をとるのはイリスだけとなった。
かじかじかじ。イリスが一人ノルトの実を齧る。
「だからね、僕は永遠の愛を証明するためにずっと雨風にさらされることに耐えていたんだよ。けれど、何よりの苦痛が誰も話しかけてくれないことでね。ドラゴン語のたしなみはなかったんだけれど、君が念話を使えるのならもっと早くに出会いたかったよ。いや、これもイリスのおかげだね。言う通り、昨日僕らは会ったばかりなんだ。この森は【永久の森】と呼ばれていて、入ったものは永遠に彷徨うと聞いていたからね。きっと実はお宝が隠されているんじゃないかと思って、二人探検に来たんだよ。しかし、君がいたってことは、お宝は間違いだったかな? けれど、こんな近くに言葉が通じ合う生き物がいたなんてね。僕からすれば、二日続けてお宝に出会った気分だよ。嗚呼、あの辛い日々、これまで耐えに耐えた苦しみが全て報われるかのようだよ。これは、もう彼女が僕に会いたがっているとしか思えない!」
延々と有頂天になって喋りつづけるエリト。
イリスがノルトの実を食べている以上、腹話術ではないことはわかっただろう。なんだか腹痛にでもなったような顔をして、ひたすら喋りつづけるエリトから目をそらしてイリスを見てくる。
だが、イリスはむしゃむしゃと昼食に耽った。
当然、エリトの語りは続く。
「ふふふ、本当嬉しいことは続くものだね。これから毎日がこんなことが続くのなら、僕はどうしたらいいんだろうか。嬉しくて死んでしまうよ! 嬉死! いやぁ、前例ない死に方だろうけれど、僕がその第一例となれて光栄だよ。だけど、駄目駄目。僕は彼女に会うまで死ねないよ。いや、そもそも永遠の愛を体現するものとしては、死んでしまっては実現しないじゃないか。嗚呼、悩みどころだよ。どちらも捨てがたい。ああそうだよ、僕は素敵な相談相手を得たんだよ。それも二人も! 永遠の愛か嬉死、どちらも甘美な響きだけれど、僕はどちらを選ぶべきだと思う?」
話を振られて、ドラゴンはうっと顔を引き攣らせた。
「おい、どうなっているんだ、この石」
縋るようにイリスを見たドラゴン。
ノルトの実を齧る手を止めて、イリスはにっこり微笑んだ。
「どうにもなっていませんよ。そのままです」
「嘘だろ」
「嘘じゃありませんよ」
このドラゴンは、まだイリスの仕業だと言うつもりなのか。
喋る石というのは、ドラゴン以上に珍しいのだろう。狼狽えるのは無理ないことだけど、だからと言って頑なに信じようとしないのは、あまりに頭が固い。
イリスを頭がおかしいと言うし、エリトを信じようとしないし、とんだドラゴンだ。
だからかもしれない。
「だから、あたしが腹話術しているわけじゃないって言ってるじゃないですか。ちゃんと人格ありますよ。感情もありますから、ちゃんと応対してあげてください」
にっこり微笑んでいるくせに、目が据わってしまう。訪問販売相手に使われる営業スマイルみたいなものである。
「……む、無理」
気のせいか、顔が青い気がする。いや、気のせいか。ドラゴンは元からダークブルーなのだから。
どうやら、ドラゴンはエリトが苦手らしい。
(でも、獅子は子を千尋の谷から突き落とすというし。ドラゴンだからもっと突き落としてもきっと大丈夫だろうね)
のんびりと穏やかそうな顔立ちをしているイリスだが、その内面は反対に苛烈だ。
大きく少し眦垂れたその目と年より少し幼く見える外見に騙されてイリスに下手をした人間は、必ずとんでもないしっぺ返しを食らう。実行するのは大抵夫やマイラでイリス自身が何かをすることはめったにないけれど、イリスが動いた時の方が相手に地味に深い傷を残すことになるのは被害者こそが知る事実だ。
「せっかく、出会えたんですから仲良くしてください。頭のおかしい女よりずっと話は合うはずですよ?」
聖女の微笑みにも負けない慈愛溢れる優しげな笑みを見せたイリスに、ドラゴンは声にならない悲鳴を上げた。
ちょっと長くなりました。
エリトが喋ると、無駄に文字を食う。
ちなみに、イリスさん、さすがにドラゴンは驚きます。
クマは平気です。春先畑に寝ぼけ眼で侵入してきたクマと過去数度遭遇経験あり(クマ退治は夫やカーダがやりました)。