第十話 馬車の旅6
準備の良いのか悪いのか、カーダは肝心なことを話していなかったらしい。
とりあえず、夫を迎えに王都へ行くことを説明した。「じいちゃんたちには言ったのか?」「姉御には?」「カーダには?」とマイラに言った時のような質問がされて、イリスは苦笑するしかなかった。
「ふぅん。まだ連絡はないのか」
「そう。ちょっと世間ずれした人だけど、常識がないわけじゃないから何も連絡しないはずはないんだけど」
「まあ………まあ、そうだな」
妙な間が気になった。
イリスにとって、夫は例えるなら「ぬるくなった空気」だ。空気のように違和感なくその場にいるんだけど、いると不思議と場が若干あたたかな雰囲気になる。幼馴染たちはそれぞれまた別の表現をしたが、イリスにとってはこれが一番近いと思っている。―――要は、ちょっと変わっている人なのだ。
思い出して変な気分になったジジは、げほっと咽たような咳払いをして話を続ける。
「しかし、王都に行くのか。じゃあ、ルークには気をつけろよ。俺は別にどっちの応援するわけじゃないからな。―――いや、敢えて言うなら、お前ら全員応援しているよ」
「そうだね。ありがとう、ジジ」
幼馴染の一人ルークは、マイラやカーダとは全く違う感情でイリスに接している。どちらかと言えばマイラに近いのだろうが、ある種イリスにとっては悪質だ。王都にいるなら、たぶん今後再会することになるだろう。
「まだ結婚しないの、ルークは」
「そう言ってやるな。俺も心が痛い」
25歳のジジは、忙しくて嫁さがしも満足にできていないらしい。ソラドラに戻れば名士の家系のジジには山ほど縁談が来るのに。
「あ! あたし、ジジに紹介してほしいって女の子知ってる」
「本当か! どんな子?」
急に渋い顔ばかりしていたジジが、年相応の若さを取り戻したような顔をする。髭を生やしているせいで、ジジは老けて見えがちなのだ。髭剃ればいいのだ。そうすれば、ジジはただの精悍な美丈夫だ。
「母親譲りの砂色の髪が綺麗なマリンブルーの目の大きな子。自分の目と同じ色の指輪を旦那さんから送ってもらうのを夢見てるかわいい子だよ」
「ん? 腕輪じゃなくて?」
「指輪。あたしの話をしたら、いいなぁーって言われたの」
「………ああ、カーダ脅して一日で作らせたやつな」
「え?」
「あ………えーと、そう言えば、その指輪、魔法具だったんだな。発動にすごいセリフ吐いてたけど………」
言って沈むジジ。イリスも「ああ、うん、聞えてたんだ………」と目をそらした。
「ヴィヴィアーヌってあれだよな。うちのメイドが送った結婚祝いの巨大兎。あれで結婚すぐに大ゲンカしたんだったな」
「うん………」
いい思い出とまだ懐かしめない渋い思い出だ。
あれは、籍入れて、自治会で披露宴をした三日後だったと思う。
「あいつ、あの兎滅多切りにして海に捨てたいくらい嫌っていたしな………」
「え?」
「あ………い、いや、名前は? その女の子の名前は?」
声を荒げてジジがイリスに尋ねてくる。随分食いつきが良い。興味を持ってくれたのだろうか。
「シアラ。ほら、さっき助けてくれた時あたしの後ろにいた子」
「んーんん? 子供じゃなかったか?」
「16歳。カーダの所のリリーより一つ下だね」
「年離れすぎだって! 俺はカーダと同じになりたくない」
言外にロリコンと言うジジ。今晩はなんだかよく耳にするロリという言葉に、イリスは頬をひくつかせた。
「9歳差ならそんな問題ないよ。後5年もすれば周りから幼な妻って羨ましがられるから。シアラも気にしてないようだったし。ま、軽く喋ってみるくらいならいいんじゃないの?」
それに、と続けようとした言葉をイリスは呑み込んだ。
イリスの勘。シアラのあのジジを見ていた時の目。どこかぼんやりした心ここにあらずといった様子。もしかしないでも。
(さあ、帰ってきた時どうなっているかな)
楽しみにしましょう。
※※※※
大変な目にもあったが、三日間の旅路は終わりを告げた。
「お姉ちゃん、また会える?」
「そうだねぇ………どうだろう?」
きっと会えるだなんて下手なことは言わなかった。ファーストネームしか知らない人たちとこの狭いように広い世界でそう感嘆に会えるものではない。イリスは永遠を誓った人とすら会えていないのだから、すべては縁任せ運任せと言うしかないだろう。
「ウルト、わがまま言ってはいけないわ。イリスさんは旦那さんに会いに行かれるのよ。私たちに構っている場合じゃないでしょう?」
「………うん」
ぐずるかと思えたウルトだったが、思いのほかあっさりと受け入れた。聞き分けは良い子らしい。
「それより、昨晩は本当にシアラのことありがとうございました。お礼にこれをどうぞ」
「名刺………ですか?」
名刺なんてこの辺りではすごく珍しいものだ。
田舎だから大抵顔パスで、男性でも持たない人は多い。商会なんかのお偉いさんや、色々手広くやっている技術屋なんかが持っているくらいだ。イリスの知っている中では、デザイナーのマイラや幼馴染の一人で商会の三男坊のロージくらいだろう。お偉いさんと言えばお偉いさんだが、名士であると共に地方貴族の地位のあるルークはまた別の意味で顔パスだから持っていないはずだ。おおざっぱな性格のジジも面倒くさがって持っていなかったと思う。だから、特に、女性の名刺とは本当に珍しい。
物珍しがってそれをじっと見ていると、「相談師 フィーア=エーレ」とだけ書いてあった。灰白紙に緑色のインクでそうとだけ書いてあるものだから、まるで何の役に立つのかもわからない。けれど、フィーアの方はそれで満足らしい。イリスに何の質問も許さず、「もしもの時の法の下の最終兵器よ」と言って消えた。なんのことかさっぱりわからない。
その場でぼんやり立ち尽くしていると、周囲の何気ない会話が耳に入ってきた。
「マジ、ありえねぇ。馬車が一か月街だと」
「ハァ、何だよそれ。聞いたことねぇぞ」
「なんでも金持ちが片っ端から借りてるらしい」
「なんだよ! それじゃあ、王都の祭りに間に合わねぇじゃねぇか」
「そうだよ! 金に物言わせて馬車借りまくってんだ。乗合馬車もほとんど金持ちどもの荷馬車にされて、残ってるやつが予約でいっぱいなんだよ」
「うわぁ。オレ祭り行きたかったんだけどな………」
「オレもだよ」
なんて聞こえてくるものだから、移送ギルドの方へ足を向けようとしていたイリスの足が止まった。
一か月もグシェルで滞在して、その後王都へ行ける程の資金をイリスは持ってきていない。勿論、並んでいる金持ちたちを押しのけて馬車を借りるなんてマネも出来るはずがない。最後に残された選択肢は、徒歩だ。
イリスの旅路は、またも難航するのだった。
※※※※
次の日の朝、
「はぁっ? お嬢がいない?」
イリスが泊まった宿で主を捕まえて聞けば、そんな答えが返ってきた。
「ええ、そのお客さんなら朝早くに出て行きましたよ。乗合馬車はまだ出てないって言ったんですけどね、えぇ、歩いていくから構わないって」
「歩く? 王都までどれだけあると………」
乗合馬車を乗り継いでもひと月はかかる。それを徒歩で行けば、乗り継ぎの間こそ早くても結局は乗合馬車の方がずっと早く着く。だから、ここで急ぐよりも待つ方が上策なのに。
そのあたりの計算を間違う人間ではないと思っていただけに、ジジは参ったと頭を抱える。
「俺がいるってのに、頼るつもりもないのかよ………」
移送ギルドの支部長であるジジの口利きがあれば、人の好い商人の馬車に相乗りする位出来る。無茶苦茶な予約でパンク状態のギルドではあるが、昔馴染みのイリスのためならジジだってそれくらいしてやるつもりでいたのに。
「そうしますか、支部長?」
宿を出ると、訳を知る年上の部下が尋ねてきた。頭のいい男で、体を動かす方が得意なジジをうまくサポートしてくれる。今もその頭には既に多様な考えが浮かんでいるのだろうが、あくまでジジの意見を優先してくれるか勝手のいい男だ。
「これからここを出る王都行きの馬車に『亜麻色の髪に黄緑色の目をした十代後半の少女』を見かけたら俺に連絡がいくように手配してくれ。俺は一度ソラドラに戻る」
だが、この後、ジジの下にイリスに関する情報が入ることはなかった。
旅人:フィーア=エーレ
上品なマダム。天然最終兵器みたいな人。伏線っぽいもの張っていったけど………
旅人:シアラ=エーレ
16歳の恋に興味津々の少女。ジジに惚れたようだけど………
旅人:ウルト=エーレ
なかなか強烈な母姉を持って、将来大物になりそうな少年。
→なんとなくで名前を決めたせいで、語感に統一感がなくなってしまった家族。
昔馴染み:ジージック=モズ(ジジ)
25歳。未婚(嫁募集中)。移送ギルド中南部区域支部長。
時々やってきて面倒見てくれる気のいい親戚のお兄ちゃんくらいの立場。イリスを「お嬢」、マイラを「姉御」と呼び名をつけて、女性の名前を呼ぼうとしない少し初心なところがある元剣士ギルドのエース。
知人:リゼット
アルザス邸のメイド。縫物の腕がいい。
玩具:ヴィヴィアーヌ
イリスが結婚祝いにもらった巨大な兎のぬいぐるみ。もふっもふで抱き心地よい。