第六話 彼の災難
着替えを済ませたクリスが、居間へ入って来る音がして、アンジーは彼の方へ視線を向けた。
「あら、良かった。思ったよりサイズが合ってて。」
人の良さそうな笑顔を浮かべて、この部屋の主の女性が温かいミルクを運んで来る。そしてアンジーの前と、もう一つを彼女の向かいに置いた。
「うちの亭主のだから、ちょっと大きいと思ったんだけど坊やが着ても可笑しくないね。」
彼女は彼を見てカラカラと声を出して笑う。
「どうもご迷惑をお掛けしました。服まで借りてしまって、ありがとうございます。」
クリスが小さな声で、彼女にお礼を述べるのが聞こえた。だが、顔は複雑な表情を浮かべている。坊やと言われたのが気に入らないようだ。
(そんな顔してると余計に幼く見えるわよ。)
アンジーは心の中でこっそり思った。
今日のマックスはやっぱり彼女のよく知る少年に似ている気がする。憎たらしくて、生意気で、でも何故かとても気になるあの少年に。
クリス本人なのだから似てるも何もないのだが、彼女はその事実をまだ知らないのだから仕方ない。
「そんなのいいのよ。だって周りをよく見ないで、表に出たわたしが悪いんだから。こっちこそ、ごめんなさいね。水なんか掛けちゃって。風邪なんか引かないといいんだけど。」
女性はそう言うと彼に濡れた服を入れた袋を渡しながら席を進めた。
「さあ、温かいミルクを召し上がれ。」
「・・・いただきます。」
クリスは暫く迷っていたが、アンジーの向かいの席に遠慮がちに腰掛ける。
その時、彼のお腹がぐうっと派手な音を立てた。
「あっ!」
彼は真っ赤になって固まった。そして「くそっ」などと言って慌てている。
アンジーは、ぼんやりと彼を見て考えていた。そう言えばクリスはちゃんとお昼を食べたのだろうか。マックスの姿にクリスの面影がよく重なる。不思議な程だ。
「お腹空いてるのね。何か持ってきましょうか。」
女性が彼に優しく話し掛ける。彼は慌てて返事をした。
「いや、そんなお構い無く。」
「もう、若いんだから遠慮しないで。軽いおやつを持って来てあげる。」
彼女は笑い声を上げて、キッチンへと消えて行く。
クリスは立ち上がって彼女の去った後を茫然と見送っていた。その後ろ姿が、一人にしないでと言っているみたいだ。
アンジーと二人になるのは嫌なのだろうか?彼女は彼の態度を不愉快に感じ出す。この家に入ってからの彼は、彼女と目も合わせていないのだから酷いのではないか?
「ねえ、座ったら?」
彼女の問い掛けに彼の背中がビクッと動いた。
クリスは無言でゆっくりと腰を落とす。
しかし、相変わらずアンジーと視線が合わない。彼女はカチンときた。
「あなたって金髪じゃなかったのね。」
だからその一言が、少し責めるような言い方になってしまった。見間違えたのは自分だけど、なんだか彼が悪いような気さえしてくる。
本当はこんな調子で会話がしたいわけじゃないのに。
そしてやはり、この言い方は彼の癇に触ったようだ。
「ああ、生まれた時からこの茶色の髪さ。」
クリスは先程と違い、真っ直ぐ彼女を見つめる。睨むような視線だった。
「何も怒らなくてもいいでしょ?ちょっと勘違いしただけよ。」
「勘違い?僕の髪が金髪に見えたのが?まあ、いいや。けど、そのことでこちらを責めるのは筋が違うと思うけど。」
「責めてなんか・・・」
彼女は彼の態度に怯む。彼がきつく言い返してくるとは思わなかった。
「そう?じゃあ、そう聞こえた僕の耳が可笑しいんだな。」
彼の言い方にはトゲがあり、アンジーはグッと言葉に詰まる。
(なによ、この言い方。なんだか本当にクリスといるみたい。お祭りの日とは大違いだわ。)
アンジーはベンの部屋から出る際、彼に呼び止められた事を思い出していた。
「と、待って。アンジー。」
ベンの声が聞こえ、アンジーは部屋から出るのを止め振り返った。
「何よ、おじさん。まだ何か?」
「ああ、変な事聞くけどな。この前、店で『マックス』とか呟いていなかったか?」
アンジーは顔が赤くなる。まさか、聞かれてたなんて。
「メアリに聞いたんだけど、アンジー好きな奴が出来たんだって?それって『マックス』って名前なんじゃないか?」
「・・うん、そうだよ。おじさんに聞こえてたなんて・・・。恥ずかしいわ。」
アンジーは項垂れたように頷く。照れ臭そうに笑って誤魔化した。
「どこの奴か分かってんのか?」
ベンは心配なのだろう。やけに詳しく聞いてくる。
「ううん、分からない。祭りの日に初めて会って、それからは一度も会ってないわ。都から来たって言ってたけど嘘かも・。」
「祭りの日に・・、そうか。」
ベンは少し考えていたが、顔を上げるとアンジーを見た。
「アンジー、俺に心当たりがあるんだ。アンジーの会った『マックス』とは違うかもしれんが、祭りの日にはこっちに来てたし、俺の甥っ子かもしれん。」
「えっ?おじさんの甥?」
アンジーはベンの言葉が信じられなかった。
あんなに会いたかったマックスが、こんな身近にいるかもしれないなんて。彼のことで悩んでいたのが冗談みたいだ。
「ああ、俺の兄貴の子さ。」
それからベンは真剣な顔になって彼女に聞いたのだ。
「アンジー、会ってみるか?」と。
それは、ほんのついさっきのことだ。彼女がマックスに再会する少し前のこと。
ベンが言った甥のマックス、それは今アンジーの前にいるこの少年のことではないのか?
彼女は本当の事が知りたい。確かめてみたい。
(あなたはベンおじさんの甥で、クリスの従兄弟じゃないの?)
アンジーが黙り込むと急にクリスは落ち着かなくなったようで、ミルクを少し口にする。
彼女は彼を見ながらポツリと呟いた。
「クリスって知ってる?・・・」
「ブッーッ」
彼はミルクを吹き出した後、激しく咳き込んでいる。
「大丈夫?」
アンジーは目を丸くして、苦しそうに咳をする彼を見た。
クリスはアンジーの視線から逃れるように横を向くと、焦って口元を拭うが、その仕草は幼い少年のようだった。
そんな彼を見てるとアンジーは可笑しくなってくる。いつの間にか声を出して笑っていた。
彼は呆気に取られて見ている。苦しげだった息遣いも既に楽になっているようだ。
「ねえ、あなた、クリスの従兄弟なんでしょう?だってよく似てるもの。その髪も、雰囲気も。顔は全然違うけど。」
「えっ?ど・・して・それを・」
目の前の少年は物凄く驚いている。その表情が可愛くて可笑しかった。
「ベンおじさんよ。クリスの父さん。知ってるよね?」
だが、返事はない。彼は言葉もないようだ。無理もないかもしれない。誰だって偶然出会った他人が、自分の親戚の知り合いだったらとても驚くだろう。
「びっくりしてるわね。わたしも、おじさんから聞いて驚いたわ。あのね、さっきまで同じ名前の別人かと思ってたけど・・。本当におじさんの親戚だったのね。世の中って狭いわ。」
「・・・ああ、そうだね。本当、世の中狭いよ。」
少年の顔は青くなっていたが、微笑むアンジーは気が付かなかった。
その後、女性から軽い食事を振る舞われて彼女と暫く時間を共にした後、二人は女性の家を後にした。
彼は必ず近いうちに服を返しに来ると彼女に言い、いつでもいいわよと笑顔で返されていた。
本当にベンの甥だったのなら、これからはもっと頻繁に会えるはずだ。アンジーは嬉しくなっていたが、まだ他にも気になる事があった。
「ねえ、どうしてさっきは逃げたの?」
彼はゆっくり彼女を振り返ると、言いにくそうに話す。
「ごめん。なんか恐くなって。」
「恐いって、わたしが?」
アンジーはムッとして聞いた。彼女には聞き捨てならないセリフだ。
彼は顔を赤らめて下を向いた。
「違う。そう言う意味じゃない。恐いって言うのは、・・・つまり、その・・、今、どんな顔をして君に会えばいいのか分からなかったから・・それで、つい、」
「え?」
アンジーは彼の赤く染まった横顔を見つめる。
彼の赤面の理由が気になる。どういう意味なのだろう?
「ねえ、また会ってくれる?」
アンジーは彼に微笑みかけた。彼女の頬もピンク色をしている。
この次に会う時は、彼の気持ちを聞いてみよう。彼女は心の中で決心する。
「うん。」
彼は小さく応えていた。その姿は、完全に彼女に主導権を握られているように見えた。
つまり、その・・・、今、
どんな顔して君に会えばいいのか分からなかったから・・・
赤い顔でいるだろう、うつ向いて下を向く自分の姿。そして、じっと彼を見るアンジー。
(何だよ!それ?)
クリスは苛立つように鏡の中の自分の顔に水をかけた。荒々しく洗面台の前を離れる。
(何だか、まるで・・告白みたいじゃないか。)
アンジーは笑っていた。わたしには分かっているのよとでも言うように。
おまけに次に会う約束までさせられて。彼には断る口実が見つからない。
これ以上マックスとして彼女の前には出たくないのだ。いつか、とんでもないことになるに決まってる。
「どうすりゃいいんだよ。」
「どうした、悩み事か?」
ベンが寝室から出て来た。最近ベンは一人で起きれるようになっている。アンジーは祭りの次の日からベンを起こしに来ることはなくなった。
「うるさいなぁ。何でもないよ。」
クリスはベンを睨み付けると、プイッと前を通り過ぎた。
(元はと言えば、こいつが余計なことをアンジーに吹き込んだからだ。息子の苦労を増やしやがって。)
ベンはクリスの不穏な空気を物ともせず、彼の肩に腕を掛けて笑った。
「何だよ、坊主。反抗期か?おやっ、お前。眼鏡はどうした?男前になっちまって。」
クリスはバッと顔を押さえる。
眼鏡はキャサリンが持って帰ってしまっていた。彼はもう一つの憂鬱なことを思い出す。眼鏡は返して貰えるのだろうか。
「おはよう。クリス。」
クリスがアパートを出ると意外な人物が声を掛けてきた。
彼の前に現れたのは、今まさに彼が考えていた少女だった。
「キャサリン、君、何故ここにいるの。」
彼は驚いて少し後退りする。
キャサリンの住む屋敷はこの町では一番立派な建物だ。彼女の家は表通りの一等地にあり、クリスのアパートとは距離があった。学校とも方向が違う為、彼女がわざわざ彼の家まで来る理由が分からない。
「ご挨拶ね。あなたの眼鏡を持って来てあげたのに。学校へ着く前に渡してあげようと待ってたのよ。」
キャサリンは笑みを浮かべ彼に眼鏡を掛けた。そして満足そうに頷く。眼鏡は綺麗に直っていた。
「それは、ありがとう。随分待った?」
クリスはビクつきながら彼女を見る。昨日、教室でキスされたことを思い出した。彼は頭を振って記憶を払う。
「ええ、まあね。でも、あなたの顔を誰にも見せられないと思ったから、頑張って早く起きたのよ。」
そう言うとキャサリンは、彼の腕に手を巻き付けてすがって来た。そして彼にしなだれかかる。
クリスは慌てて彼女の手を離そうともがいた。
「あのさ、ちょっと歩き難いから手を離してくれないか。」
「嫌よ。このまま学校まで一緒に行きましょうよ。」
キャサリンは、強引に彼の腕を引き寄せて離そうとはしない。二人はアパートの前で腕を引っ張り合って騒いでいた。
「何してんの、あんた達?」
クリスが振り向くと、通りの向こうから、アンジーが怪訝な表情で見ているのが目に入ってきた。
彼は慌てて自分の腕に回されたキャサリンの手を、無理矢理引き剥がす。
キャサリンが「痛いじゃないの。」と睨んだが無視をした。
何故だか考えたくもないが、キャサリンといるところをアンジーに見られたくない。
アンジーが二人をじろじろ見ながら近付いて来た。
「ねえ、クリス。何してたの?」
アンジーも、キャサリンを無視してクリスの側に来ると彼の目を覗き込む。
「べっ、別に。何でもないよ。」
クリスは凄い早さで彼女から離れた。アンジーの目がやっぱり見れない。彼女の表情はますます険しくなる。
「何よ、その態度?」
彼女がムッとして言った。
(どうしてこの二人が一緒にいるのかしら?仲は悪かったはずよね。)
アンジーは不思議でしょうがない、だが同時に何故か不快感も湧いてくる。
彼女は苛立ちながらクリスの顔を見た。
「・・あれ?眼鏡が直ってる。」
そして彼の眼鏡に気が付く。
「そうよ、わたしが直して差し上げたのよ。」
ずっと二人に無視をされていたキャサリンが、得意気な顔をしてアンジーの前に出て来た。
彼女は茫然としているクリスの腕を再び取ると、しっかりと自分の手を絡める。それから彼の肩に当たり前のように頭を乗せると、アンジーを悠然と見て意外なことを口にした。
「わたし達、付き合ってるの。ね?クリス。」
キャサリンは見せ付けるかのように、アンジーの目の前でクリスと見つめ合い笑う。
アンジーは驚きのあまり声も出ない。今見たことが信じられなかった。
だがよく見れば、クリスの顔色も変わっていたのだが、この時の彼女はそのことに気が付くことが出来なかったのだ。
そのくらい、衝撃的な言葉だった。




