第二話 月の精の秘密
「アンジー、起きてちょうだい。」
アンジーは母の呼ぶ声で目が覚めた。
メアリの心配顔が目に飛び込んでくる。
「母さん、あれ?」
彼女の頭は、はっきりしない。今は何時なのだろう?
「今朝は臨時休業にするわ。マギー達にはさっき言って来たから。」
メアリは窓の外を見る。もう既に太陽が上がって辺りは明るくなっていた。
アンジーは急いでベッドに起き上がる。
「わたし、今まで寝てたのね・・。ごめんなさい。」
メアリは俯いたままアンジーの横に腰を下ろした。
「母さんこそ、ごめんね。アンジーにずっと隠してた・・。」
アンジーは母の顔を見る。メアリは彼女を見て涙ぐんでいた。
「あんたが彼のこと好きなのは知ってたのにね。どうしても言い出せなくて。」
「母さん、」
メアリは首を振った。
「ううん、そんなの言い訳ね。ちゃんとあんたに早く言うべきだった。」
「わたし、母さんはずっと父さんを忘れられないのかと思ってた。」
メアリは微笑む。
「忘れてないわよ、今だって。」
アンジーは母の言葉に驚いた。
「え?じゃあ、どうして。」
メアリはアンジーから目を反らして前を向いた。どこか遠くを見てるようだ。「どうしてかな?母さんにも分からない。でも、ベンは、父さんを好きなわたしを受け入れてくれた。こんな母さんを全部受け止めてくれるって。」
アンジーは母の手に触れた。メアリの目から大粒の涙がまた零れる。
「だから、・・・彼に惹かれたのかもしれない。優しいところに・・。」
アンジーの手を握り返してメアリは泣いている。涙と鼻水でグシャグシャになった母も綺麗だと、彼女は思った。
「おじさんと結婚するの?」
メアリは涙声で応える。
「わたしは、今のままでいいと思ってる。結婚なんて・・・」
母はアンジーに遠慮している。彼女は直ぐに気付いた。
「母さん、わたしのことならもういいのよ。もう平気なの。自分でもびっくりなんだけど。」
メアリはアンジーを見て驚いている。涙も引っ込んだようだ。
「アンジー?」
「ベンおじさんのことは、子供の頃から好きだったからこれがわたしの初恋だったのかな。初恋が終わってわたしも少しは大人になれたかしら?ね、母さん。」
アンジーは照れたようにヘヘッと笑った。その姿にメアリは面食らっている。
「・・あんた、どうしたの?」
メアリは怖ず怖ずと聞いた。
娘のあまりの心境の変化についていけないようだ。
アンジーは立ち上がって窓辺に向かう。それから窓を開けて外からの空気を部屋に入れた。
朝のひんやりした風が彼女の上気した頬を冷やしてくれる。
アンジーはメアリを振り返った。
「わたし、好きな人が出来たみたい。」
メアリは絶句して声も出せないようだ。
アンジーはそんな母に慌てたように祝福を告げる。
「母さん、ベンおじさんと幸せになって。おじさんと本当の家族になれたら、こんな嬉しいことはないわ。本当におめでとう。お祝い言うの遅くなってごめんね。」
アンジーとメアリは昼食の仕込みをする為にアパートを出た。いつもならとっくに開店している時間だ。
マギー達も少し遅れて出勤してくるということで、二人はのんびり歩いていた。
店の前に着くと人集りが出来ている。彼らは何やら口々に騒いでいるようだった。
アンジーは急いで近付いた。
「どうしたのよ、これは?」
「あ、アンジー。どうしたのはこっちのセリフだよ。店が閉まってるじゃないか?」
彼女の前にジムが進み出て来た。
「それは、ごめんなさい!実はわたしがさっきまで寝てて・・。」
アンジーは、ばつが悪くて俯く。大勢のお客に迷惑をかけたみたいだ。
「なんだ、そうか。心配したんだぞ。市場にも来ないから。」
ジムはホッとしたように言った。
アンジーは冷や汗を浮かべて謝る。
「本当にごめんなさい。お昼からは開けるからぜひ食べに来て。」
アンジーは店の前に居た常連客に頭を下げた。皆、心配したよ、などと言いながら散っていった。
だが、ジムをはじめ数人がメアリの方を躊躇うように見て残っている。
メアリは不思議そうな顔をしながら彼らに近付いた。
「ジムさん、心配掛けたのね。ごめんなさい。」
「い、いや、メアリさん。何ともなくて良かった。」
彼らの態度は明らかにおかしかったが、アンジー達には理由が分からない。
「じゃ、俺らはこれで。」
ジムはそう言うと仲間を先導して去っていく。
「お昼にはぜひ来てね。待ってるわ。」
アンジーは彼らの背中に声を掛けた。
しかしジム達は振り返ると寂しげに笑うだけだった。アンジーとメアリは顔を見合わせる。二人には彼らの様子が理解出来なかった。
お店に入ると料理の仕込みを始める。今朝は市場に買い出しに行ってない為、材料が不足している。
急遽、アンジーが出かけて調達して来ることになった。
「じゃあ、肉と魚と野菜もいくつか買って来るわ。」
「ええ、お願いね。」
メアリはパンを焼く為小麦を捏ねている。
アンジーは急いで店を飛び出した。
市場に着いたアンジーは目当ての物を探す。
だが、もう日が登って随分時間が経っている。安くて良い物は既になかった。
仕方がないので少し値は張るが、妥協して残っている物から選ぶ。
粗方の物を揃え、店に戻ろうと振り向いた彼女の前に、誰かが近寄って来た。
「クリス。」
アンジーは驚いて大声が出た。
クリスは無言で彼女を見てる。
「どうしたの?学校は?」
彼は呆れたように息を吐いた。
「メアリ母さんに頼まれた。アンジーを手伝ってやってくれって。」
「そうなの?」
(あれっ?)
彼女はクリスの眼鏡の違和感に気付く。
「どうしたの?眼鏡。」
彼の眼鏡はフレームが壊れており、簡単に紐で繋いであるだけだった。
「昨日壊れたんだ。誰かを捜して広場を走ってた時に人にぶつかってさ。」
クリスは無表情に言う。
「・・ごめんなさい。」
アンジーは赤くなって下を向く。
「もしかして、昨夜のせいなの?声が変だわ。」
「風邪引いたみたいだ。誰かが・・」
「もう!悪かったってば。」
クリスは慌てるアンジーからぷいっと目を反らした。
「冗談だよ、声は二三日前からずっとおかしいんだ。」
そう言うと彼女の荷物を持とうと手を出す。アンジーは急いで言った。
「重たいわよ。あんたには無理よ。わたしは力持ちなんだから。」
だが、クリスは凄い勢いで荷物を奪い取る。そして彼女を見るとムッとしたように言った。
「何が、僕に無理だって?」
アンジーは目を丸くして彼を見た。
「大丈夫なの?無理しない方が・・・」
「あのね、いい加減にしてくれる?この位何でもないよ。」
彼は完全に怒ったみたいだ。アンジーに背を向けると前に歩き出した。
(何よ、チビの癖に無理しちゃって。ムカつくわ。)
アンジーは不貞腐れて後を付いて行く。
「ねえ、もう平気なの?」
その時突然、クリスの背中が聞いてきた。
「平気って何が?」
アンジーはピンとこなくて彼に尋ねる。
「父さんのことだよ。昨日見ただろ?父さんとメアリ母さんを。」
クリスは苛立つように振り向いた。珍しく顔を赤くさせている。
アンジーは呆気にとられる。彼女は本当に平気だった。それに彼が気にしてるとは、夢にも思わなかったのだ。
「ん、もう平気。母さんにもおめでとうと言ったわ。」
クリスはびっくりしたのか何も言わない。
「あんたにも、気持ち悪い思いさせて悪かったわ。」
アンジーは彼をチラリと見て嫌味を言う。
「なんでさ、なんでそんな一晩で・・・?」
クリスは彼女の心が分からないようだった。
「えっ?」
アンジーは顔がボッと赤くなった。まさか、そこまで聞かれるとは。
「なんだよ、その顔。」
クリスは益々不審がる。
「え?わたしの顔、変?」
「変なのはいつもだけど、凄い真っ赤だぜ?」
彼は意味が分からなくてどんどん不機嫌になっていた。
「何よ・・その言い方。」
アンジーは言い返すが、赤いと言われた顔が気になり口調は弱い。
そんなアンジーの様子にクリスの声は険しくなった。
「アンジー、全部、吐いて貰おうか。」
クリスは学校へ行く前に家に戻った。教科書を取りに行く為だ。
彼は部屋に入ると乱暴にドアを閉めた。
それから台所に行きコップに水を汲む。冷たい水を一気に飲むと大きく息を吐いた。
「アンジーって、本当に馬鹿じゃないの?」
誰も居ない部屋に向かって声が出る。
彼は真っ赤になってポツポツと話してたアンジーの顔を思い出す。なんだか無性に腹が立った。
「王子様みたいだったわ。」
アンジーは夢見るように口にした。目の前のクリスの表情になど、まるで気が付いていない。
「綺麗な金髪が月の光でキラキラしてて・・。」
「金髪?」
「わたし、思わず月の精なの?って聞いちゃった。」
最初は恥ずかしがって言い渋ってたことなど嘘のように、アンジーの口はよく滑っていた。
「呆れるね!王子様だって?月の精ってのにも耳を疑ったけど、あれでもうじき十八だぜ。信じられないよ。」
クリスはイライラしながら歩き回る。
教科書を取りに戻るという当初の目的は、既に忘れている。
「それに金髪だって?頭だけじゃなくて目も悪いじゃないか。僕の眼鏡をよく馬鹿に出来るよ。」
彼は前髪を煩そうに掻き上げた。
その時、彼の顔から眼鏡が落ちた。
「あ〜あ、大変だ。」
眼鏡がこれ以上壊れたらどうしようもない。クリスは屈んでそっと眼鏡を拾う。
そして手元の眼鏡を確認する。大丈夫みたいだ。彼はホッと安心した。
眼鏡を見ながら壊れた時のことを思い出す。
ベンとメアリの姿を見て全てを知ったアンジー。
クリスに怒って泣きながら人混みに消えた彼女を必死で捜す内、彼は歩く人にぶつかって倒れた。
その時、壊れた眼鏡をポケットに仕舞い、汚れた上着を脱いで腰に巻いた。
彼はアンジーの行き先に見当がついていた。眼鏡が無くて周りがよく見えないがあの場所にきっといる。
だから、クリスはあの時埠頭に―――
彼は眼鏡を置いて洗面所へ行く。
そして顔を洗って鏡を見た。
「本当に目が悪いよ。僕だって気がつかないなんてさ。」
そこには、アンジーが月の精だと言った男の子が、金髪ではなく茶色の髪の毛で映っていた。




