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第九話 本当に、わからない?

   

「おはよう。」

 クリスが挨拶を言いながら店に入って来た。

 彼は目線を足元にやったままカウンター席に腰掛け、頬杖をつくと下を向いてじっとしている。

「おはよう。」

 アンジーはクリスに返事を返したが、用もないのに奥へと移動して、手持ちぶさたで棚の中をごそごそ探ってる。クリスが来たから、カウンターを離れたのが丸わかりだ。

 二人はお互いに明後日の方を向いて、挨拶を交わしていた。

 メアリはそんなアンジー達を怪訝な顔で見る。

「あんたたち、いったいどうしたの?喧嘩でもしたの?」

 二人は一斉にメアリを見た。その目が、どちらも彼女に救いを求めている。メアリは訳が分からず面食らっていた。

  

 あの騒動のあった日から、クリスはまた店に顔を覗かせるようになった。

 だが、来たからと言って特にどうということはない。ただ朝、店で食事をして、メアリから昼食を受け取り学校へ行くだけだ。そう、以前の状態に戻っただけなのだ。

 なのに、何故、状況は変わらないのに状態が変わってしまったのだろう。

 アンジーは仕事をする振りをして、クリスを盗み見る。

 彼はメアリが用意した朝食を食べていた。美味しそうにスープを飲んでいる。クリスがスプーンを口に入れ、スープを飲む度に喉がごくりと動く。

 アンジーは魅せられたようにその様子をじっと見ていた。

   

 彼の口元からスプーンが離れ、唇が微かに動いた。

 アンジーは唇の動きを読み取ろうと、無意識に近付く。彼女の耳にクリスの呟き声が聞こえてきた。

   

「・・アンジー、・・んな・に見ないでよ。食えないだろ。」

 アンジーはハッとした。クリスが顔を赤くして彼女を見ている。

「ごっ!ご免なさいっ!」

 彼女も赤面して謝った。

   

(わたし、何してたんだろ?恥ずかしい。)

 食事をするクリスに見とれていたなんて、有り得ない。彼女は頭をぶんぶん振って、先程の自分を頭から追い出した。

   

   

   

「えっと、じゃあ、ご馳走さま。もう、学校に行くよ。」

 クリスが椅子から立ち上がり、厨房の中を覗いて声を掛ける。

「そう、気をつけてね。」

 メアリが昼食の弁当を持って来ると、クリスに渡しながらアンジーに声をかけた。

「アンジー、クリスが行くって。」

「・・聞こえてるわよ。行ってらっしゃい。」

 アンジーは奥に引っ込んだまま出て来なかった。

 メアリは、「全く、もう」とぶつくさ言ったがクリスは気にしていない。

 彼はメアリに笑い掛けると店を出て行った。

   

   

   

   

   

『好きなのは・・・。』

   

(僕はあの時、何と言おうとしたんだろう?)

 クリスは教室に入ると、椅子に項垂れるように座った。今さらながら顔が赤らむ。とっくに忘れていたはずなのに、時々あの時の光景が浮かび、どうしようもなく恥ずかしくなるのだ。


 もう、観念するしかないのかもしれない。中途半端な気持ちは吹っ切ってしまった方がいいんだ。

 クリスは目を閉じて自分に問い掛ける。

   

 ・・僕は、アンジーがす・き?

   

「クリス。」

「うわあ〜。」

 いきなり名前を呼ばれて彼は椅子から転げ落ちそうになった。

「な、な、なんだよ。」

「何をそんなに驚いてるの?」

 キャサリンは呆れたような顔をしている。

 クリスは罰が悪くなって、わざとつっけんどんに言った。

「久しぶりだね、キャサリン。ずっと僕を避けてただろう?今日はどうしたのさ。」

「あら、わたしが話し掛けなくて寂しかった?」

 キャサリンはにやにや笑う。

「寂しいだって?まさか。平和で良かったよ。」

「ふふ、憎たらしいわね。思い切り泣かせてやろうかしら。」

「えっ?」

 クリスは真っ青になって彼女を見た。今の今まで忘れていたけど、弱味を握られていたことを思い出したのだ。

「ぷっ!今の顔。」

 キャサリンはクリスの表情を見て大笑いをする。

 彼は目の前で爆笑しているキャサリンに困惑していた。彼女は何がそんなに可笑しいのだろう?

 キャサリンはそんなクリスを益々愉快に感じてるようだ。

「・・君、アンジーに僕のことを言う気なの?」

「う〜ん、どうしようかしら。」

 キャサリンはちらりとクリスを見た。彼はビクッとする。

「くす、くす。可笑しい〜。あなたってばすぐ反応するのね。」

 キャサリンの大きな笑い声に、教室内にいる他の生徒も振り返って見ている。

 クリスは彼らを気にしながら声を潜めた。

「声が大きいよ。」

 キャサリンはつまらなさそうに唇を尖らして、首をすくめる。

「どうでもいいわ。小心者ね、あなた。」

 クリスはむっつりと黙り込んだ。

 キャサリンは睨むように目を細めると、彼に近付き低い声で囁く。

「いいこと教えてあげる。わたし、馬鹿にされるのが許せないの。・・あなたのことは許してあげようかと思ったけど、止めたわ。あなたとあの子、二人共困るといいのよ。」

「どういう意味だよ?」

 キャサリンはクリスを見て微笑んだ。意地の悪い笑顔だ。

「じきに分かるわ。」

「キャサリン!」

 クリスは彼女に追い縋るように手を出した。彼の手が彼女の服を掴んでいた。キャサリンはその手をじっと見ている。

「あ、ご免!」

 クリスは慌てて手を離した。彼女は溜め息を吐くと彼を見て呟いた。

「アンジーのこととなると必死なのね。」

「違うって、関係ないよ。今は君が二人共って僕のことも言っただろ?」

 クリスは慌てたように横を向くと、早口で告げた。

 彼女はそんな彼を苦笑を浮かべて見ている。

「今度の町長選の演説会には必ず来ることね。」

「えっ?」

「あなた達二人が、どんな顔をするか見ものだわ。」

 キャサリンは笑いながら彼の前から去って行く。

「待てよ!」

 クリスは追い掛けたが、彼女は足早に教室からも出て行った。そして、彼の方は一度も振り返らなかった。

 授業の始まるベルの音が鳴り響く。教室内に散らばっていた生徒も、各自の席に着いて準備を始め出した。

 しかし、彼は茫然として立ち止まったまま、彼女の消えた教室の外をいつまでも見ていた。教師が来て注意を受けるまで、キャサリンの言葉で頭がいっぱいだったのだ。

   

   

   

   

   

 アンジーはメアリに言われて、ベンの昼食を届けに港に来ていた。

 彼はいまだに店には顔を見せない。だからアンジーが母に代わり、色々な場所に昼食を届けに行く。今日はベンの職場の近くだ。

 待ち合わせは、波止場の隅の目立たない場所だった。彼の姿はまだ無い。アンジーはぼんやり海を見ていた。

   

『僕もだよ。ちっとも平気なんかじゃないみたい。・・アンジー、どうしようか?』

   

 不意に、この前港で聞いたクリスの言葉が蘇った。

「ああ〜もう!またっ。」

 アンジーは頭を抱える。最近いつもこうだ。ふとした瞬間に浮かんでくるのは、クリスのことばかり。

(前は違ってたわ。)

 少なくともクリスのことは小さい頃を除けば、腹を立てた記憶が殆んどだ。だから思い出すとしても、不愉快なことばかりだった。

 でも今は、何故か面映ゆいことばかりが記憶されている気がする。クリスのことを思い出したとしても腹立ちはない。

 だが、そんな今の自分が分からなくて嫌にはなるけれど。

   

「そう言えば・・、」

 あの時クリスは何と言おうとしたんだろう?

   

 アンジーが彼にキャサリンのことを好きなのか、と聞いた時。クリスは好きじゃない、とはっきり答えた。

 でも、その後・・・

 小さい声で何か言わなかった?

 アンジーにはよく聞き取りにくかったけど・・・。

 確か・・・、

   

『すきなのは・・・』

 記憶の中のクリスが呟いた。彼はアンジーだけを真剣な眼差しで見ている。

   

 アンジーの胸は物凄い勢いで動き始める。

 彼女の頭の中ではクリスがずっと同じことを話していた。

『好きなのは、・・』

   

   

「アンジー、何ジタバタしてんだ?」

 その時、ベンの不思議そうな声が聞こえてきた。

   

「おじさん!」

 アンジーは急いで振り返る。彼女は耳まで真っ赤だった。

「何でもないわよ。」

「おい、大丈夫か?顔が赤いぞ。」

 ベンが驚いてアンジーを見ている。彼女は酷く恥ずかしくなった。

「大丈夫よ!それより遅かったじゃない。」

「ああ、出掛けに客が来てさ。こっちに用事があって来たらしいんだが、俺を訪ねて来てくれたんだ。」

「ふうん、そうなの。」

「誰だと思う?」

 ベンはにやりとアンジーを見て笑った。

「分かんないわよ。わたしの知ってる人?」

 アンジーは怪訝な表情を浮かべる。

 ベンは彼女の顔を見て更に笑みを深めた。アンジーはムッとする。

「おじさん!」

「ははっ。おい、こっちに来いよ。」

 ベンは後ろを振り向いて誰かに手招きをした。彼の背中から一人の青年が出て来る。

 アンジーはびっくりした。ベンの体にすっぽりと隠れていたので、青年に全く気付かなかったのだ。

 青年はベンにどことなく似ている。茶色い髪と同じ色の瞳。

 アンジーは気付いた。

 彼はベンと言うよりクリスに似ているかもしれない。クリスよりは背が高く逞しい体つきで、少し日焼けしているが爽やかな感じの整った顔立ちをしていた。 多分クリスより幾つか年上だろう。

 それに、他にも誰かに似ている気がする。彼女のよく知る誰かに。

 青年は彼女を見て愛想よく笑っている。

 ベンが相変わらずにやにや笑いながら、片目を瞑って言った。

「アンジー、こいつは俺の甥のマックスだよ。」

「ええっ?」

 アンジーは驚いて大声を出す。彼女はもう一度じっくりと青年を見た。

 彼はその目線に少し怯んで後退りをする。

(似ているわ。・・でも、やっぱり違う!)

 ベンが連れて来たマックスは、彼女のよく知るマックスとは似ているようで全くの別人だった。

   

   

    

    

    

「と、以上のことからわたしは、この町を次代を担う若者が離れて行かない、活気ある港町へと変えて行きたいと思っています。どうかご支援をよろしくお願いします。」

 壇上で若い町長候補が演説を終えて礼をした。人々の盛大な拍手に送られて階段を降りて行く。

   

 暖かい長閑な日曜の昼下がり、町一番のメイン広場で町長選の演説会が行われていた。

 町民の殆んどは選挙に関心があるらしく、大勢の人で広場は溢れかえっている。

 彼らの注目は、今演説を終えた若い候補と、現町長のバーク氏との一騎打ちにあった。

 今やどちらが次の町長になるか誰にも予想出来ない。それが余計に今回の選挙に緊張感を与え、人々は夢中になっているらしかった。

 当然だが、バーク町長側は面白くない。

 彼は歴代の町長を務めた由緒ある一族の子孫だ。ぽっと出の素性の知らない若者に負ける訳にはいかないのだ。

 彼はこの演説会で大差をつけることが出来なければ、政治生命が終わるかも知れないと、危機感を募らせていると専らの噂だった。

   

 クリスは渋るベンやメアリ、アンジーを連れて広場にやって来ていた。

 思った以上に多い人だかりにやや驚いている。それにしても暑い。喉が渇いてきていた。

「ねえ、クリス。選挙の演説会に行こうなんて、どうしたの?・・店を閉めてまで来なくてもよかったんじゃない?」

 メアリはクリスの半ば強引な誘いに、不満タラタラだ。横で彼女は帰りたそうに愚痴を言っていた。

 メアリは選挙に関心はなかった。女性には参政権が無いので当たり前かもしれない。

「店開けてたって、今日は商売になりはしないよ。だって皆、演説会を見に来てるんだよ。」

 クリスは冷めた目でメアリを見て言った。彼も子供なのでやはり参政権は無い。

 だが、彼は演説会に興味があった。あれからずっと、キャサリンの言った言葉が心を占めている。嫌な予感が頭から離れなかった。

 彼はそのことを誰にも言っていないので、メアリ達は演説会に何故連れて来られたのか分からないのだ。

 ベンは彼らから離れた場所に一人でいる。町中の目があるので、メアリの側には近寄らないつもりでいるらしい。彼はこちらをチラチラ気にして見ていた。

   

 クリスは呆れたように父親に一瞥を送ると、アンジーを見た。

 アンジーは沈んだ目をして俯いている。元気はまるで無い。

 彼女はいつからか、暗い顔をするようになっていた。彼には、その原因となる事柄に幾ら考えても心当たりはなかった。

(そうだ、あの日だ。キャサリンが不気味なことを言ってきた日からだ。)

 クリスは彼女の様子が変わった日を思い出す。

 あの日の朝はアンジーはいつも通り元気だったはずだ。

 だが、彼が帰って来た夕方には明らかに変だった。目は虚ろで口数もなく、何よりクリスを見ると泣きそうな顔をしていた。

 いったい、あの日何があったんだろう?クリスは黙ったままのアンジーを見詰めた。

   

   

「続きまして、現町長のバーク氏の演説です。」

 司会らしき男の声が響いた。

 クリスはハッとして壇上の方を見る。

 町長のバークが拍手に迎えられて姿を現した。彼は口髭を生やした威厳のある顔と、恰幅のいい小太りな体型が特徴的な男だ。目付きは鋭く周囲に睨みを利かしている。

 スラリとした美人のキャサリンはあまり父親には似ていないようだった。

  

  

「我が一族は、先祖代々この町の長を務めてきました。わたしもその役目を全うするべく、日夜努力をしております。しかしながら、我が先祖が初代町長を務めた時から比べ、町は発展してきたのでしょうか?」

 バーク氏はグルリと目線を動かし、広場にいる町民を見た。広場は水を打ったように静かだった。

 バーク氏は満足したように笑う。そして演説を続けた。

「確かに我々の生活はその頃に比べ便利になりました。だが、それは町が発展したことには為らない。この町は相変わらず小さな港町でしかないのです。それは初代町長の頃から変わっていません。」

 クリスはじっとバーク町長の言葉に耳を傾ける。

 バークは話を一旦切ると、目を閉じて大きく息を吐いた。それから彼は再び目を開けた。

「わたしはこの町をもっと大きくしたいのです。沢山の大型船舶が入港してくる港と、そして大勢の観光客が訪れる都市、物と人が集まる活気ある街に、つまり隣国の海運都市のようにしていきたいと思っています。」

 町民達はバーク町長の話を、夢中になって聞いている。町長は、町民一人一人に語り掛けるように言葉を紡いだ。

「共に町や港を大きくするべく動きましょう。我々皆で豊かな暮らしを手に入れましょう。」

 バーク町長が話を終えると大歓声が起きた。皆、彼の話に感激したようだ。

 先に演説した候補よりも大きな歓声に、バークは気をよくして笑っている。

 クリスは、壇上の近くにキャサリンの姿を見付けた。彼女はビラのような物を持っている。よく見れば、彼女の他にも何人か、同じようにビラを持って立っている人がいた。

「あれは、ジムさんだわ。あんな所で何をしているのかしら?」

 メアリがその中に見知った顔を見付けて、不思議そうに呟いた。

 クリスは嫌な胸騒ぎを感じて、キャサリンを見る。彼女は得意気な笑みを浮かべて立っていた。

   

 壇上ではバークが再び演説を始め出した。

 それに伴い、キャサリンを始めとする壇上近くにいた人々が、広場にいる町民にビラを配り出す。

「この町を将来の海運都市にする為に、手始めに港近くの整備を考えています。観光客も呼べる港にするには、裏通りの整備は欠かせません。綺麗な通りにする為に裏通りの建物を一新したいと思います。」

 クリスの横で何かが落ちるような大きな音がした。

 彼が振り向くと、メアリが貰ったビラを持ったまま、崩れるように座り込んでいた。彼女は青冷めて震えている。

「嘘よ、こんな。わたし達の店が・・・。」

 メアリの目には涙が溢れている。クリスは彼女から奪い取るようにビラを取り上げた。

 ビラには、町長の言う計画が細かく書かれている。それには、港近くの商店や食堂の近代化を進めるとあった。特に裏通りにある、労働者向けの店に焦点を当てている。

 それは、どちらかと言えば安さを売りにした店なので、あまり綺麗な建物ではない。町長の計画ではこれらを取り壊し綺麗な町並みにしていくとあった。

 そして、メアリとアンジーの食堂は、正にその対象に含まれていた。

「今の状態では汚いので観光客を呼べないですって・・、港で働く人達はどうでもいいって言うの?」

 メアリは取り乱したように叫ぶ。アンジーは驚いてクリスの持つビラを覗き込んで来た。

「どういうこと?」

 アンジーはクリスに不安気な視線を寄越す。

 クリスは彼女を苦し気に見詰めた。

(このことだったんだ。・・キャサリンが言ってたことは。)

    

「ジムさん!」

 メアリがビラを配るジムを見付けて近寄る。

「あなたが、どうして?」

 彼女は涙を湛えた目で彼に詰め寄った。

 ジムは苦い顔をすると、横を向いて言葉を絞り出した。

「・・こうすることが町の為になる。皆の為になるんだ。」

「そんな、嘘でしょう?私の店を好きでいてくれたんじゃなかったの?」

「メアリさん、長い目で見ればあんたの為にもなるんだよ。」

 それだけ言うとジムは、彼女の顔も見ず足早に立ち去った。メアリは追い掛ける気力も無く崩れ落ちる。

 ベンがやって来て彼女を支えた。メアリは立ち上がることも出来ないようだった。

 クリスは周囲を見渡した。彼らのように、ショックを受けているだろう人々があちこちにいる。それは全体から言えば多い数ではないが、決して少ない人数ではない。皆、このビラの中で対象となる商店の関係者だろう。

 彼は視線を感じて振り向く。キャサリンが笑ってこちらを見ていた。

   

 バーク町長の話が終わり演説会もお開きとなった。

 町民の反応はバークの計画を歓迎する者と、計画に困惑している者に別れている。

 良くも悪くも、バークは場の空気を独り占めした形となった。始めに演説した候補者はすっかり忘れられてしまっていた。

「クリス、俺はメアリをちょっと落ち着かせて戻る。お前、アンジーを送って行ってやれ、頼む。」

 ベンがメアリを支えながら立ち上がると、クリスの方を向いて言った。

 広場に集まっていた町民は、それぞれ戻り始めている。

 クリスがアンジーを見ると、彼女は放心したようにまだビラを見ていた。

「分かったよ。」

 ベンはクリスの返事に頷くと、メアリと連れ立って広場を出て行った。

「アンジー、僕らも帰ろうよ。」

 クリスの声にアンジーはぼんやりと顔を上げた。

 彼は、精一杯優しく見えるように笑顔を作る。

 アンジーの目からブワッと涙が出てきた。彼女はクリスの肩にしがみつくと、思い切り泣いていた。

   

   

   

   

   

「落ち着いた?」

 クリスが声を掛けると、アンジーは顔を赤らめて返事をした。

「うん。ありがと。」

 彼女は、涙でベタベタになった顔を必死で拭っている。鼻水と涙がぐちゃぐちゃになって余計に汚くなっているが、クリスは笑わなかった。意地悪を言う気にもなれない。

 アンジーは自分の泣き顔が恥ずかしいのか、彼の肩から急いで離れた。そして濡れている彼の服を見て驚いて謝る。

「ご免っ!」

「いいよ、これくらい。」

 クリスは気にならなかった。アンジーは不思議そうな表情を浮かべる。

 彼は自分でも不思議だった。何故彼女に優しくしたいのだろう?今までの、彼女を見ると苛立ち皮肉を言ってしまう自分はどこに行ったんだろう。

 いつの間にか広場には人が居なくなっている。沢山いた人が消えて二人きりになっていた。

   

 アンジーの涙は止まったが、彼女は相変わらず塞ぎ込んでいる。今日のことだけじゃない。ここ何日か、彼女は全然元気が無かった。

「アンジー、聞いてもいいかな?」

 クリスが躊躇ったように呟いた。聞くのが少し怖かった。

「何?」

 アンジーも緊張しているようだ。

「最近どうして暗かったの?元気なかっただろ。」

「えっ?」

 アンジーは顔色が変わる。彼女は何かを思い出したようにまた泣き出した。

「ど、どうしたの?アンジー。」

 クリスは驚いてアンジーの肩を掴んだ。彼女がクリスに視線を向ける。

「マックスが、マックスがね、・・」

「マックス?それがどうしたんだ。」

 クリスはイライラしてきた。何故今、マックスという名前が出てくるのか分からない。

「別人だったのよ!ベンおじさんの甥じゃなかったの!わたしにはそうだと、言ったのに。」

「えっ?」

 クリスは衝撃を受けたように体が固まる。彼は震える声で聞いた。

「・・マックスに会ったの?」

「この前会ったのよ。おじさんの甥のマックスに。よく似てたけど違う人だったわ。」

 アンジーからは、また涙が溢れてきていた。

 彼女はマックスに裏切られたように感じているのだろう。だって、彼女はマックスに恋をしていたのだ。

 そして、クリスはその事をよく知っている。他ならぬアンジー自身に聞いていたのだから。

   

   

「・・アンジー、僕達、どれ位長い間一緒に居たと思う?」

 彼はポツリと彼女の耳に問い掛けた。声はもう落ち着いていた。

 アンジーは涙に濡れた目で彼を見上げる。

「僕は君のことを知っている。いい所も、悪い所も。きっと誰よりも知っている。・・もしかしたら、メアリ母さんよりも。」

 彼女は戸惑っていた。彼が何を言うつもりなのか見当も付かないようだ。涙はいつの間にか止まっている。


  

 クリスは微笑んだ。アンジーの反応を少しだけ寂しく思いながら。

   

「ねえ、君は?君はどうなの?」

 彼はそう言うと眼鏡に手を掛ける。そして、それをゆっくりと外していく。

   

「マックスが誰なのか、・・・本当に、・・分からないの?」

  

 クリスは眼鏡を外して彼女を見た。

 彼の茶色の瞳は、驚くアンジーを映して寂しげに揺れていた。

  

  

  


あと一話で終わる予定です。ちゃんと、まとまるか不安ですが…。

最後までお付き合い下さると嬉しいです。

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