第十章 闘諍への嚆矢
第一節 女の子孫への敵意
イエス様は亡くなってしまったミカを弔うため、ミカが殺された湖畔の廃船を時折訪っていました。そんなある日、野で摘んだ花を船室の中で手向けていた時、外から怒鳴り声が聞こえました。
「小僧、誰に断って船の中にいる。出てきやがれ。」
声の主は網元の息子で二人の兄弟でした。また古代のネフィリムの血を継ぐ者達でもありました。兄弟は強靭な体躯を持つ大男で、素行不良の輩として人々から忌み嫌われていました。イエス様は慌てふためいて船室の戸を閉じました。二人は朽ちた船底を打ち壊し、イエス様を引きずり出しました。弟はイエス様をねじ伏せて言いました。
「おい兄貴、このガキはヨセフの所のイエスだ。どうする?」
兄はイエス様の顔を覗き見、言いようのない毒々しい感情に支配されました。イエス様には生来のキリストの香りがほんのりと漂っていたのです。その香りは鼻で嗅ぎ取ることのできないものですが、いのちへ導く香りでした。また凡そ人々は宗教的体臭に対して敏感で、二人の大男はキリストの香りに何の理由もなく、劣等感と嫉妬でまるで狂ったようになりました。その香りは反キリストの記憶を呼び覚まし、古いネフィリムの血が騒ぎ出したのです。兄はイエス様の胸ぐらを掴んで軽々と持ち上げました。そしてイエス様の顔の間近まで引き寄せて怒鳴りました。
「おい小僧、俺らに何をするつもりだ。昔聞いたことがあるが、この薄汚いガキが神の子だって!神の新たな創造のための破壊の終末が来るのだと!ふざけるな、神の子ならわざわざ天下って来るな。ここはてめえの来る所じゃね。俺らを亡き者にするつもりか。」
イエス様は怯えて答えました。
「オイラ違うよ。ミー子ちゃんがこの船の中で死んじゃったから、お花あげていただけだよ。」
これを聞いた弟は下卑た嘲笑を浮かべて言いました。
「ミー子?ああ、あの薄気味悪い猫か。この小僧も劣らずに薄気味悪いぜ。おい兄貴、こいつもぶっ殺すか?」
イエス様はすっかり動揺してしまい、意志とは関係なく首を急激に振り、弟の言った言葉を繰り返し呟きました。
「ブッコロス、ブッコロス、ブッコロス…」
これを聞いた兄は激昂しました。イエス様は過度の緊張とストレスによりチック症とエコラリアを発症させてしまったのです。
「何だと、俺らをぶっ殺すだと!それじゃあ、やられる前にやるしかねえな。正当防衛だ。」
第二節 レメクの歌
ちょうどその時、仕事帰りで通りすがったヨセフ様がこの様子を目にし、慌てて駆け寄って間に入りました。
「ああ、これはいったいどうしたことでしょうか?イエスが何か?」
大男の弟は憮然として答えました。
「おうヨセフか。このガキがよう、俺らのことをぶっ殺すと言っているんだぜ。末恐ろしいガキだ。どう落とし前をつける?」
イエス様は虚ろな目で「ブッコロス」を繰り返し呟いていました。ヨセフ様はうろたえて答えました。
「いやあ、この子は変な癖がありまして、人の言った言葉をオウム返しすることがあるのです。大変失礼ですが、もしやあなた様が先に言った言葉ではないでしょうか?」
大男の兄は素知らぬ顔でヨセフ様を言いくるめて挑発しました。
「何だと、てめえは俺らにケチ付けるつもりか。いい加減にしろ。どこに証拠がある?ところで律義者のヨセフさんよ、お前婚約中にマリヤを種付け孕ませ、密かに縁を切ろうとしたと言う話じゃねえか。世間じゃヨセフはマリヤを妊娠させて離縁する酷い男だって噂されているぜ。えっ、どうなんだい?むっつりド助兵衛のヨセフさんよ。」
ヨセフ様は毅然として答えました。
「左様でございます。申し開きは致しません。全ては手前の不徳の致すところでございます。」
この神の自己犠牲の予表とも言うべきヨセフ様の答えに兄は嬉しそうに口角を上げました。そして下卑た下種の勘繰りでヨセフ様に問いました。
「それにしてもこのガキは本当にお前の子か?お前とは似ても似つかないガキじゃないか。えっ、それとも何か、お前は寝取られ亭主の間抜けなヨセフさんなのか?」
ヨセフ様は血相を変えて兄に取り縋り、涙目で否定しました。
「ああ、子供の前でなんと無体な言葉を!いいえ、断じてそうではありません。手前ははっきり申し上げます。これは手前の愛する子、手前が喜ぶかけがいのない息子、イエスです。」
兄はせせら笑って反論しました。
「ふん、マムゼールとはハラハー(Halakha:ユダヤ法の体系)に抵触するではないか。姦淫の罪だ。」
これを聞いたヨセフ様は激怒し、兄の胸ぐらを掴んで厳しく言い詰めました。
「なんと無慈悲な!これ以上はもう止めなさい。神と神が遣わした無名で善意の人々を侮辱することは手前が許しません。こうして手前共がナザレで暮らしていけるのも、少ないですが村の理解ある方々のお陰です。泣いている家内を陰で慰めた女性もいます。それにあなたは口伝律法を知らないのですか?『学んだマムゼールは、無知な大祭司よりも優れている』とあります。」
兄は温厚なヨセフ様の豹変ぶりに怯みましたが、ヨセフ様を安々と突き放しました。そして薄ら笑いを浮かべて毒づきました。
「放せ、ヨセフ。なんと神の子がマムゼールとは笑止千万!」
そして丸太のような太い腕でヨセフ様を殴りました。ヨセフ様は吹き飛ばされ、激痛でうずくまりました。左の頬骨と鼻骨は折れ、眼球が破裂してしまったのです。イエス様はヨセフ様に寄り添い、どうしていいのか分からず大声で泣き叫びました。弟は兄に進言しました。
「よう、兄貴よ、今日はこれでずらかろうぜ。人に見られるとまずい。」
兄はレメクの歌を高々に謳歌しました。
「カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍。ならば我らのための復讐は七百七十七倍。今日はこれで終わったわけじゃね。覚えておけ。」
大男の二人はゲラゲラ笑いながら立ち去りました。
第三節 アバ(Abba)、父よ
その頃ルシフェルはガリラヤの風薫る丘で一人逍遥を楽しんでいました。するとスマートフォンから緊急事態の警報音が鳴り、AIは廃船の近くでイエス様のかつてない程の思念をキャッチした旨を報告しました。ルシフェルは嫌な予感から胸がざわつき、背から翼を現しました。そして廃船まで目にも留まらぬ速さで飛び立ちました。
ルシフェルが廃船につくと、倒れたヨセフ様の傍らでイエス様が泣きじゃくり、ルシフェルに訴えました。
「父ちゃんの目が痛いよう!」
ルシフェルは痛々しいヨセフ様の顔に驚きました。そして激痛に苦しむヨセフ様を楽にさせるため、深い眠りにつかせました。イエス様はルシフェルに懇願しました。
「二人の怖い大きな人が、オイラは父ちゃんの子でないとか言って、父ちゃんを殴ったんだ。父ちゃんの目を治してあげて。」
ルシフェルは大男達の下衆の極みに舌打ちをし、ヨセフ様を介抱しながらイエス様に言いました。
「いや、それは断固として違う。唾棄すべきことだ。ヨセフさんは坊やの父さんだ。最高の人間の父だ。ちょっと待っていて。私の癒しの業で治すから。」
ルシフェルはヨセフ様の傷を確かめましたが、そのまま何もせずに立ち上がりました。そして空を仰ぎ見て考え込んでいました。イエス様は不安になってルシフェルに尋ねました。
「おじちゃん、どうしたの?父ちゃんの目、治らないの?」
ルシフェルは答えました。
「いや、簡単に治るよ。もしかしたら私が坊やに教えられることはこれで最後ではないかと思案していたんだ。私の癒しの業を坊やに伝えるだけでは駄目かと考えていたんだ。
本来、私達はみな神の子であり、神の家族なんだ。肉の父とは別に霊の父が神である。神は『みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神』と語られるとおり、慈しみ深い父だ。ちょうどヨセフさんのように。またヨセフさんが坊やにとって身近な存在であると同様に、神も坊やにとって身近な存在だ。しかし今まで神の呼称はYHWHと全て子音で成り立っており、発音の基本となる母音が含まれていない。本来の正確な読み方は失われ、ヤハウェは仮の呼称だ。また神を「父」と呼ぶことはあるが、それは主に民族の父という公的な意味合いだ。しかし神と坊やは親密な関係がある。幼な子が親しさと全幅の信頼を込めて慕い求めてお父ちゃまと呼ぶように神を呼んでごらん。そう、『アバ(Abba)、父よ』と神に呼びかけ、祈るんだ。」
ルシフェルはイエス様をヨセフ様の顔の近くに膝をつかせ、イエス様の片手をヨセフ様の傷の上に当てさせました。そして後ろに反り返るほどに天を仰がせ、大きく口呼吸した後に『アバ、父よ』と呼びかけ切実な祈りを捧げるよう諭しました。イエス様は何度も天を仰いで『アバ、父よ』と呼びかけ祈りました。するとヨセフ様の傷は癒えました。ルシフェルは大喜びをして叫びました。
「アハハ、でかしたぞ、坊や!これは小さなことではない。本来の神との関係に回帰するパラダイムシフトが起きたのだよ。父とは誰か?父とは個人の人格的な触れ合いの父だ。」
ルシフェルはイエス様の両脇に手を添え、高々と持ち上げ、ぐるぐると回しました。
ヨセフ様の傷が癒えた今、ルシフェルは嬉しさのあまり短絡的に考えました。危害を加えた大男達を赦そうと。そしてルシフェルは大男達が誰であるか知りたくなり、神の目が捕らえた画像データはないかとAIに問合せしました。AIは答えました。
「ルシフェル様、生憎デスガ、ガリラヤ地方ハ曇天ノタメ神ノ目ハ使エマセン。」
ルシフェルは苦々しい思いで曇り空を仰ぎ、呟きました。
「なんと言うことか!勝手に居候している時代に対して愚痴を言うのも憚れるが、二十一世紀のテクノロジーはいざと言う時に全然役に立たないな。それとも広視野カメラ「WISPR」を装備すべきであろうか?あれなら雲を突き抜けて地表まで捉えることができる。まあ、とにかく楽ばかりしてはいけない。私だってやればできる。」
するとルシフェルは犬のように地面の匂いを嗅ぎ始めました。そして立ち上がって首を伸ばして幽かな残り香を嗅ぎ取り、大男達が立ち去った方向を見極めました。ルシフェルは有頂天になってイエス様に言いました。
「坊や、今日の祈りは忘れるんじゃないよ。それと安心をおし。ヨセフさんはそのうち眠りから目が覚める。そして大男達を七の七十倍、いや、七十の七百倍までも赦してあげよう。」
そう言ってルシフェルは凶事が迫っていることも知らずに大男達の元へと駆け去りました。またあまりに有頂天になったため、悔い改めも正義の追求も伴わない赦しである安価な恵みを大安売りしてしまいました。
第四節 鳩小屋の四姉妹
日暮れの逢魔が時にルシフェルがたどり着いた所は、ローマ進駐軍のために提供された売春宿でした。掲げられた大理石の看板には、裸の三美神と取り持つ恰幅の好い女の浮き彫りがあり、「AD SORORES IIII」(四姉妹の店)と刻まれていました。数人のローマ兵が窓の外から娼婦達を品定めしていました。娼婦達も自分に割り当てられた部屋で、外から見える位置に立ったり座ったりして客を待っていました。ルシフェルは男根の形をしたドアノブに手をかけ、躊躇することなく中に入りました。壁には金額によってどのような性的なサービスを受けられるかを描いたいくつかの絵が掲げられていました。
ルシフェルが中に入ると、でっぷりと太った女主人であるレナ(Lena)が迎えました。
「これは驚いた。あんたのような上玉はローマの高級娼婦にもいないよ。内で働きたいのかい?ローマなら一千デナリウス稼げる。ナルボの女なら半分買い占められる金だよ。でもね、内は鳩小屋と呼ばれる大衆向けの売春宿で、そんなに稼げないよ。あんたさ、落ちぶれた貴族の奥方様みたいで何か事情があってのことかと思うけどさ、それでいいのかい?」
ルシフェルは困惑して答えました。
「いいえ、違います。人を探しているのです。中に大きな体の男の人が二人いるはずです。」
レナは大笑いして言いました。
「おやおやおや、上品な奥方様は旦那様に相手にされず欲求不満かい?それもあの屑のような大男二人を相手に。でもそれは残念だね、内は男娼をやっていないし、あの屑の二人はただの用心棒さ。」
ルシフェルは否定して尋ねました。
「そうではありません。私はその二人に話をしたいだけです。ところでその二人はどんな人ですか?」
レナは苦虫を噛みつぶしたような顔で答えました。
「それが酷くてさ、暴力で有無を言わせずに内に居座ってやがる。用心棒代として金はふんだくられるし、ただで呑み喰いする。女の子も商売にならないほど痛めつけて犯しやがる。悪魔みたいな奴らだ。あんたはそれでいいのかい?」
ルシフェルが承諾したので、レナは案内しました。
その売春宿は宿屋や酒場も兼業しており、その給仕として客を引く娼婦もいました。ルシフェルが中に通されると、酔ったローマ兵がヒューヒューと指笛を鳴らし、ルシフェルを冷かしました。件の大男の二人は奥のテーブルで酒を呑んでいました。
第五節 残念な無神論者
ルシフェルは顔に喜色を浮かべて、二人に話しかけました。
「ああ、あなた達ですね。探し回りましたよ。ちょっとお話があります。同席させてください。」
ルシフェルが席に着くと、二人は悪鬼のごとき形相でルシフェルを睨みました。ルシフェルは気にせずに話を進めました。
「実はですね、ヨセフさんのことなんですが、あなた方がヨセフさんの目を潰したんですね。でもご心配なく、天の父にイエスの坊やが祈ったら、ヨセフさんの目が治ったんですよ。さあ、ヨセフさんに赦しを請いに行きましょう。うーん、それにしてもこのディナーはすごい臭いだ、ニンニク料理ですね。私はニンニクが大の苦手で、神はどうしてこんな物を創造したのか皆目見当がつきません。ニンニクに対して私はどのように神を賛美すべきでしょうか?」
兄はルシフェルの胸ぐらを掴み、殴り倒して凄みました。
「貴様、どうして俺らのことを知った?」
ルシフェルは折れた奥歯を吐き出して言いました。
「そりゃ、ヨセフさんの血の匂いとあなた方の体臭ですよ。」
弟はルシフェルの脇腹を蹴り上げて罵りました。
「てめえは犬か!」
ルシフェルはよろよろと脇腹を押さえて立ち上がり、答えました。
「私は犬でも人間でもありません。それはさておきあなた方は、人の子にしては大した怪力を持っている。それとあなた方は妙な体臭がすると思っていましたが、ネフィリムの血を継いでいますね。でもあなた方は人間です。もう神を悲しませるのは止めましょう。」
兄はルシフェルを殴り、ルシフェルはもんどり打って倒れました。兄は鬼面毒笑しました。
「貴様の頭の中は蛆が沸いているのか?神だと、神などおらぬ!噴飯やるかたない。力こそ正義、悪こそ真理。力持つ悪こそ世を支配する。」
ルシフェルは膝立ちになって反論しました。
「あなたは神の裁きを逃れるために神は存在しないと言っているのですか?自分が先進的な人間であることを人に思わせるために神は存在しないと嘯くのですか?それと神が存在しないことをどう証明するのですか?それは悪魔の証明と言って証明不可能なことなんですよ。いや、一つだけ自己矛盾に満ち間接的ではありますが、その方法があります。それは自分自身が神になることができれば、神は存在しないことになります。いや少なくとも神は存在しなかったと言うことができるでしょう。イザヤ書で神は『わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。』と言われています。この神の言葉を否定できればいいのです。ところであなた方は神になる努力をしていますか?」
兄は怒りにまかせてルシフェルの顎を蹴り上げました。ルシフェルは砕けた顎の骨を押さえ、よろよろと立ち上がって懇願しました。
「お願いです、もう幼稚な暴力は止めましょう。あなた方は決して悪いことができる人間ではない。私の見立てでは、神があなた方に与えた悪の与信枠はたいしたものではない。あなた方の悪の器はあまりにも小さすぎる。あなた方には悪の才能がありません。それに悪には真摯で地道な努力を要するものです。悪は善よりも成し難いのです。どうして凡庸なあなた方は神に感謝しないのですか?真に善であること、または真に悪であることはリスクの高い生き方なんです。最後に忠告します。悪を舐めてはいけません。ちゃちな悪の華を誇ってはいけません。あなた方はむしろ悪と言うより獰弱怯劣です。さもないと痛い目に会います。」
兄は鉈を持ち出し、憤怒の相でルシフェルの肩に振り下ろしました。鉈はルシフェルの鎖骨を断って、深く肩に食い込みました。鮮血がルシフェルの美しい顔を染めました。弟はルシフェルに激しく欲情して喚きました。
「おい、兄貴、俺はたまらないぜ。今にも精液が漏れそうだ。イエスのガキが言っていたミー子とか言う猫、あの猫みたいに手足の骨をへし折って、犯しまくろうぜ。」
兄はせせら笑って言いました。
「おお、それはいい。それと煮えたぎった油をこいつの頭から浴びせるがいい。それでもお前はこいつを犯すことができるのか?」
これを聞いたルシフェルははらはらと涙を流し、茫然として呟きました。
「えっ、あなた方だったんですか、ミカを殺したのは。」
兄はほくそ笑んでルシフェルに言いました。
「どうだ、痛いか?苦しいか?悔しいか?悲しいか?『ママー、痛いよ、ゴメンナチャイ』って言ってみな。そうしたら止めてやる。それにしてもお前の顔を見ると、どうしようもない怒りに襲われる。あのイエスのガキと同じだ。胸糞悪いぜ。」
ルシフェルは鉈を握った兄の手首を軽く握り、虚ろな表情で呟きました。
「えっ、痛い?そう私は心が痛い。心に受けた痛手は長い時間の内に癒されるが、その傷跡は醜いケロイドとして残る。だから私の心は醜い。それとあなた方は人を殺めているね。少なくとも十人殺めている。私があなた方の心の中を読むまでもない。あなた方が虐げ殺めた人々の残留思念が私に鬼哭啾啾として語りかける。」
ルシフェルに手首を軽く握られた兄は苦悶の声をあげ、手を鉈から放しました。
「こいつ、なんて力だ。もう少しで手首の骨が折れそうだった。」
ルシフェルは兄の手首から手を放しました。そして鉈を肩から抜き、顔と肩を軽く撫でました。すると傷は癒え、ルシフェルは鉈を兄に手渡して言いました。
「すみません、もう力が加減できなくて。ほら、鉈をお返ししますよ。それにしてもどうしてあなた方は私達を迫害するのですか?」
兄はうろたえました。そして酒を呑んでへらへらと笑って傍観していたローマ兵に訴えました。
「こいつは人間じゃない、化け物だ。おい、貴様、グラディウス(Gladius:古代ローマの刀剣)を二振りよこせ。俺ら兄弟でこいつに止めを刺す。」
第六節 とげある鞭を蹴るは難し
抜き身のグラディウスを受け取った兄弟はルシフェルの前に立ちはだかりました。そして二人がグラディウスをかざして挑みかかる刹那、ルシフェルは目が据わり、諦念を抱いて闘諍への嚆矢の言葉を呟きました。
「赤ト悲鳴ヲ上ゲ、白ト絶叫スル。」
すると二人の足は鎌鼬に出会ったように切りつけられ、大腿直筋とヒラメ筋が断たれました。二人の足からは赤い鮮血が噴き出し、悲鳴をあげてどっと倒れました。次に何か目に見えない手のようなものに足首を掴まれ、部屋中を引きずり回されました。テーブルや椅子をなぎ倒し、二人は足首を掴んだ見えない手を必死に振り払って喚きました。
「おい、止めろ、俺らを誰だと思っていやがる。ただでは済まされんぞ。おい、お前ら、ぼうとしているんじゃね。俺らを助けろ。」
売春宿の人々は恐怖に襲われて逃げ出し、蜘蛛の子を散らすようにいなくなりました。そして二人の足は無理な方向に捻じ曲げられ、股関節と膝関節、および足首の距腿関節が鈍い音を立て外されました。二人は関節を外されるたびに言葉にならない呻き声をあげ、涙声でルシフェルに懇願しました。
「お願いです、もう止めてください。止めて、止めて、止めて!」
暫くすると二人の大腿骨と脛骨、および腓骨が渇いた音を立てて折られました。二人は骨が折られるたびに絶叫し、折れた骨を露出させました。激痛で二人は激しく嘔吐をしました。二人は仰向けで両手をばたつかせ、駄々っ子のように泣き喚きました。
「うーん、うーん、うーん、お母さん、足が痛いよ、痛いよ、痛いよ!ごめんなさい、ごめんなさい!」
ルシフェルは平然とした顔で二人に言いました。
「私はあなた方に認罪を促すためにあなた方の足を砕きました。あなた方は神に対して罪を犯していることをよく知っています。しかし知っているだけでは駄目なのです。認罪とは自らの断罪とそれを裁かれる神の権威を認めるものなのです。そして非常に重要なことですが、それが救いの入り口であると言うことです。あなた方が神に罪の告白をするなら神は赦してくださる。神は裁く神でなく赦す神なのです。もしあなた方が自分の罪を神に告白するなら、神は真実で正しい方ですから、あなた方を全ての不義から清めてくださいます。
いいや、そうじゃない。自己欺瞞はよそう。私はもっともらしい説教を垂れて、自ら甘んじるほど愚かではない。私自身に対して反吐が出そうだ。そうではないのだ。私は霊の憤り(エンブリマオマイ:ενβριμαομαι)を覚え、心の動揺を感じている。愛する者であるミカの死の憤りと悲しみは、私に傍観者ではなく当事者としての自覚をもたらした。それによって私の心は激しく動かされた。もう私は逃げない。私の内に封印された彼女を甦らせ、直接彼女と対決しなくてはならない。私の愛する者は死んだ。もうたくさんだ。これで終わりにしたい。」
ルシフェルがこう言い終えると息が荒くなり、胸を押さえてうずくまりました。呼吸困難に陥ったルシフェルは意識を失い倒れました。
第七節 宵の明星の子の復活
うつぶせに倒れたルシフェルから羽化する蝉のように双子の姉のヴェスペラエルが現れました。容姿容貌はルシフェルと変わりありませんが、ヴェスペラエルの思念が醸し出すオーラはルシフェルと全く異なっていました。それは創造の神に対峙する破壊のサタンでした。創造と破壊の関係は神が予め定めた摂理において調和を保っていました。しかしその調和も破綻してしまい、ヴェスペラエルは神を否定するニヒリズムの子、神の予定調和を覆す不条理の子となりました。それを物語るようにヴェスペラエルの心の闇の深さは計り知れず、神の光を受け入れる目はそれを拒否し、灯火であるはずの目は恐ろしいほどに闇に覆われていました。多くの天使達は謬見に陥りました。ルシフェルが祝福された終わりの子であるのに対して、ヴェスペラエルは呪われた始めの子ではないのかと。
またヴェスペラエルの深淵の闇に恐怖した者達は生存戦略として一種のストックホルム症候群に陥り、好意を持つ心理状態でヴェスペラエルに繋がり崇拝しました。ヴェスペラエルの恐怖の虜となった哀れな者達は悪と罪の申し子となって神から離れ、彼らの滅びの魂を捕らえる神の愛さえも拒否しました。
第八節 三位一体におけるアナロジー思考
そしておもむろに立ち上がったヴェスペラエルの内から二人の声が聞こえました。
「ヴェスペラエルよ、喜べ、未だ時至らずに我々は復活した。」
ヴェスペラエルは二人を窘めました。
「傍輩よ、喜ぶのはまだ早い、油断するな。ルシフェルの罠かも知れん。予が確かめる。」
声の主はヴェスペラエルの内に棲む反キリストと偽預言者でした。これは一つの実体において三つの位格が存在するサタンの三位一体です。その位格とはサタン、反キリスト、そして偽預言者です。またこの三位の結びつきは非常に強いものです。サタンがサタンを追い出せば、内輪もめでその国は成り立たないと言われる所以でもあります。
ここで神における三位一体の神学上の解釈ですが、理解するためではなく、信じるための神秘と言われるほど難解です。現在では三位一体に関してペリコーレシス(perichoresis)で動きを捉える説明が好まれているようです。父と子と聖霊との結びつきは愛によって常にダイナミックに一体化しているという解釈です。これを内在的三位一体と言います。また人間を創造し、歴史に関与する神を経綸的三位一体と言います。
これを現代物理学でアナロジーを用いて説明すれば次のようになります。量子力学では光や電子などの量子が「波」と「粒子」の両方の性質を持つとされています。二重スリット実験では、観測という行為が干渉縞の縞模様が消失し、粒子として確定する現象が現れました。これから推察すると「波」のような状態が内在的三位一体の神です。また人間の有無、あるいは人間との関係性によって「粒子」の確定が起き、経綸的三位一体の神となります。その時、神は自身を「私」と語ります。更に不可視で「波」のように遍在していた神が、人間という対象と深く関わるために、特定の歴史・場所・肉体という「粒子」としての現れを確定させたのが受肉したキリストであると言えるでしょう。また神が人間を創造する前、あるいは罪によって人間が神から離れた場合、神は自身を「我々」と語ります。これは人間という限定的な関わりが閉ざされたため、神の愛が再び神自身の三位一体の深淵へと還流していると言えます。そして神のペリコーレシスの動きは悲しみというダイナミズムを帯びます。
第九節 サタンの速贄
その後、ヴェスペラエルは足を砕かれてもがき苦しむ二人に近づきました。二人は近づくヴェスペラエルに恐怖で慄いて失禁しました。ヴェスペラエルは兄の裂けた足の傷口に目を止め、屈んで指を無造作に突っ込みました。男は激痛に泣き叫び、手でヴェスペラエルの指を懸命に払おうとしました。ヴェスペラエルは疎ましく思って言い放ちました。
「予はルシフェルの爪痕を確かめる。貴様らは百舌の速贄のようなもの。速贄にルシフェルの明確な意思表示があるはず。邪魔立てるな。貴様らの手には用がない。」
ヴェスペラエルはゆっくりと自分の右手の指を折り曲げました。すると二人の前腕は押し潰され、絞った雑巾のような形になりました。二人は阿鼻叫喚を極めた亡者のように泣き叫び、ヴェスペラエルに懇願しました。
「ああ、もう嫌だ、嫌だ、嫌だ!どうかお願いです、もう殺してください。殺して、殺して、殺して!」
ヴェスペラエルは意に介さず暴れる弟の傷口を指でまさぐりました。そして次に兄の裂けた足から露出する折れた骨に目を止めました。ヴェスペラエルは指で骨を摘み、折れた骨を更に露出させて入念に確認しました。兄は言葉にならない声をあげ、激しい痙攣を起こしました。
暫くするとヴェスペラエルは得心した面持ちで立ち上がり、呟きました。
「おお、これがルシフェルの爪痕。なんと優美であることよ!毀っていても何も損なうものはない。朽ち果てていても何も枯れ果てるものはない。地に落ち死んだ一粒の麦、その死の内に新しい命の息吹を宿す。それは傷ついた葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない神の繊細で美しい静寂の暴力!予にはできない芸当だ。この点では予はルシフェルの後塵を拝する。それにしてもルシフェルは相変わらず心根が優しい。」
それからヴェスペラエルは意識を失い倒れているルシフェルに悲しい面持ちで目を向けました。
「予の麗しき愛弟、ルシフェルよ。何故予を否むか、何故予に挑むのか。そなたの速贄は赤と悲鳴をあげ、白と絶叫している。予は打ち拉がれる。」
ヴェスペラエルは顔を手で覆いすすり泣きをしました。
第十節 カインの印
それから暫くして反キリストが現れました。反キリストは激怒して芋虫のように転がる二人の足を踏みにじり、激しく蹴り上げました。二人は外傷性ショックを起こし、気絶しました。体は痙攣でわななき、大量に脱糞しました。また顔は土気色になり、白目を剥いて口から泡を吹きました。反キリストは憤懣やるかたない様子で怒鳴りました。
「いったい何なんだ、お前らは!たかが出来損ないのネフィリムの末裔であるゴロツキの分際で、女の子孫から生まれたメシヤを亡き者にすることができると思っていたのか?この身の程知らずめ、驕り高ぶるな!しかもヴェスペラエルが愛するルシフェルを手にかけるとは、何たる愚昧の輩!俺がお前らに思い知らせてやる。いいか、次の脳天を貫く痛みは乙だぞ。聖イグナティウスの小麦になるがいい。神に感謝しろ。」
反キリストはデグロービング損傷を受けた二人の手首を掴んで軽々と振り回しました。更に何度も床に叩きつけ、二人の両前腕が千切れるまで続けました。
両腕を失くした二人は大きないびきのような死前喘鳴を起こしました。
すると次に偽預言者が現れ、反キリストを諭しました。
「おやおや、これはいけないね、死んでしまうではないか。お前は相変わらず乱暴で困る。いやしくも我々は悪の頂点に立つメシヤだ。こんな小悪党と言え悪の救いをもたらさなくてはならない。どれ、ここは私にまかせなさい。」
死の直前を迎えた二人は安らかな顔で下顎呼吸をしていました。心停止して脳が酸欠状態となり、脳内でエンドルフィンが大量に放出されたのです。二人は恍惚状態になって圧倒的な平和な感覚に包まれました。そんな神の死の救いをも奪うように、偽預言者は二人の右上胸部と左脇腹に掌を当て放電しました。無理やり電気ショックを受けた心臓は蘇生し、体内の二酸化炭素濃度が下がりました。すると二人は意識を取り戻し、赤ん坊のような泣き声をあげました。そして生き地獄の辛酸を再び舐めました。偽預言者は艶やかに微笑んで嘯きました。
「おお、これは良かった。あなた方はもう少しで死ぬ所だったんですよ。私があなた方を生き返させたのです。感謝しなさい。おっとこれはいけない。腕からの出血が酷い。このままだと失血性ショックを起こす危険性がある。どれ、私が処置してあげよう。」
偽預言者が右の袖を捲り、掌を翳すと右手は金色に輝いて火を噴き出しました。偽預言者は兄の腕を掴み、両肘を焼灼止血しました。兄は幼児のように「ウワーン、あちゅいよう」と泣き叫びました。弟は鬼哭啾々たる様相に恐れをなし、舌を噛み切りました。舌は激しく痙攣を起こして収縮し、喉の奥まで舌根沈下を起こしました。窒息でもがき苦しむ弟を偽預言者は見て舌打ちをしました。偽預言者は弟の顎関節を破壊して口を大きく開けさせ、舌根を引き掴んで焼き切りました。そして兄と同様に両肘を焼灼止血しました。
偽預言者はため息をついて、言葉を続けました。
「ところで私には懸念していることがある。カインの印はご存知かな?そうカインがアベルを殺し、カインに出会う者が誰もカインを殺すことのないように神が与えた憐みの印です。どうです、あなた方はそれを信じますか?私は本当のことをあなた方に伝えましょう。そんなことは決してない、神を信じてはいけない!神は大嘘つきだ!実は神は陰険なお方でね、殺人の大罪を犯した者にわざわざ印をつけ、人々にその大罪が分かるようにしたのですよ。まあ言ってみれば忌まわしき神のスティグマですね。その証拠にカインは人々から追われ、ノドの地まで流浪しなくてはならなかった。そしてそのスティグマによって復讐の連鎖が始まり、あなた方は殺される。神自ら裁きを下すより人間同士で憎しみ合い、お互いに裁くように仕向けているのです。なんと嘆かわしいことか。それではあなた方があまりにも可哀想だ。そこで私はあなた方を救うため、神があなた方に与えたカインの印を奪ってあげましょう。」
偽預言者が手を伸ばすと二人は恐怖でわななきました。兄は号泣して怯え、訴えました。
「何によって、私共はそれを知ることができるのでしょうか?何か証しでもあるのでしょうか?もうたくさんです。怖いよう、怖いよう。痛いのもうやだよう!」
偽預言者は豹変し、気が触れたように怒鳴り散らしました。
「なんだと、このドサンピン!人の善意を無下にしやがって。感謝の言葉もない。信じられないと言いたいのか?我らは闇の三柱。そして私は闇の声。闇の力と共に御大である闇の美に仕える。あなた方に話しかけて、神の忌まわしい知らせを伝えるために遣わされたのである。」
兄は戦慄してわななきました。
「ああ、ありがとうございます、ありがとうございます。御言葉のとおりになりますように。」
偽預言者は気を良くして言葉を続けました。
「うむ、大変よろしい。だが私は罰としてあなた方におまじないをかけてやる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。あなた方は知らないのか、苦しみは喜びになるという変態性欲の教義を。聖テレジアの法悦をたっぷり味わせてやる。ほうら、ちちんぷいぷい、ちちんぷいぷい、痛いの痛いの飛んで来い!痛いの痛いの飛んで来い!ギャハハハ!」
そして偽預言者は二人の顔を鷲掴みにしてカインの印を奪いました。すると毒々しく業の深い顔つきが怖気ついた気弱なものに変わりました。二人は何をされているのか分からず、恐怖で悲鳴をあげました。偽預言者はニヤニヤして言いました。
「おお、これはいい。すっかり善人面になったではありませんか。これで心配無用です。あなた方を殺す者はいません。それともまだ心配でしょうか?そうだ、万が一あなた方が殺される目に会っても、決して死なないように私が部下に命じておきましょう。たとえ死の陰の谷を歩むとも、あなた方は災いを恐れてはいけません。何故ならさっき私があなた方を生き返させたように、私の部下があなた方を生き返させるからです。ええ、きっとですよ、本当に。それはね、涼しい風がピューっと吹くと私の部下が現れます。そして『等しく甦れ』と唱えます。するとあなた方は生き返ります。アハハ!」
反キリストは偽預言者に訝しがって問いました。
「よう、兄弟よ。何故こんなヒョロガリ二匹を酷薄なまでも生かす?こんな奴らじゃ俺の遊び相手にもならねえぞ。」
偽預言者は答えました。
「なに、ルシ坊が我々に爪痕を残したように私もキリストに爪痕を残しただけだ。私が焼灼止血したこいつらの肘を見てみろ。私の指跡と指紋が残っているだろう。これでキリストをある程度牽制することができる。そして我々の証人は二名必要だ。」
第十一節 赦しの接吻
偽預言者が語り終えるとヴェスペラエルが現れました。ヴェスペラエルは憂い顔で倒れているルシフェルに近づきました。ヴェスペラエルは優しくルシフェルの上半身を起こし、ルシフェルの血で染まった頬を丁寧に拭いました。ヴェスペラエルは涙声でルシフェルに語りかけました。
「予の愛するルシフェルよ。どうか目を覚まし、今一度そなたの口から心の内を語ってはくれないか。永い眠りから覚めた予は、そなたの心変わりに戸惑う。できるなら予の悪夢であってほしい。予はそなたへの愛以外は、愛を知らぬ。たとえそれがそなたの裏切りであっても、予はそなたへの愛を全うする。予は接吻を以てそなたの裏切りを赦す。予の接吻を受けよ。」
ヴェスペラエルがルシフェルに接吻するとルシフェルは目を覚ましてヴェスペラエルに言いました。
「我が姉弟ヴェスペラエル、安かれ。」
第十二節 友のために友の命を奪う悲しみ
ヴェスペラエルは喜色を浮かべてルシフェルに答えました。
「我が愛する姉弟ルシフェル、恙無しや。」
永い眠りから覚め、ルシフェルと再会したヴェスペラエルは愛しそうにルシフェルの手を握っていましたが、顔を曇らせルシフェルに問いました。
「予はそなたの速贄の爪痕を見た。そなたの心を今一度確かめたい。そなたは予に背くのか?」
ルシフェルは起き上がり、ヴェスペラエルの問いに答えました。
「ええ、そのとおりです。これから二十年足らずで神の時が訪れます。明けの明星の子である私の輝きは大いなる光にかき消され、消え失せます。それが私の宿命です。その時、貴女は私から甦り、大いなる光を貴女の大いなる闇で覆うでしょう。私はそれを阻むため貴女を甦らせたのです。そして私は貴女に挑みます。」
ヴェスペラエルは落胆して尋ねました。
「力ではそなたは予に敵わぬぞ。予が修羅となり戦うと、予は心を失いそなたを殺めてしまう。それに今ではそなたに神の時の利もない。また戦いには四つある。すなわち戦わずに勝つか、戦わずに負けるか、戦って勝つか、戦って負けるかである。そなたはどのように戦う。」
ルシフェルは躊躇なく答えました。
「私は貴女と戦って負けます。私は今まで戦いをできるだけ避け、自分にも相手にも深手を負う前に戦わずして負けていました。しかし貴女との戦いは戦って負けます。」
ヴェスペラエルは驚いて聞き返しました。
「それは何故?何か策はあるのか?」
ルシフェルは自身の苦悩をヴェスペラエルに語りました。
「策なんかありません。戦って負けると言うことは、何か崇高なものを守るためです。私は長い間苦悩してきました。私は何のために生まれ来たのか、何のために生きているのか、何のために死んで行くのかと。そして私は生まれて来ない方が良かったのではないかと悩みもしました。しかし今は違います。私には守るべきものがあります。その者のために私は貴女に挑みます。」
ヴェスペラエルは驚愕して聞きました。
「なんと、天の国一番の知略家であり、神の優れた軍師でもあったそなたが何の策もないとは!その崇高なものとは何であるのか?愛なのか?そなたの心の内を語ってくれないか。」
ルシフェルは胸襟を開きました。
「それはイエスの坊やです。私は貴女からイエスの坊やを守ります。それが私の生まれ来た意味、生きている意味、そして死んで行く意味だと悟ったのです。私は坊やを愛しています。私が坊やを愛するのは、神がまず私を愛してくださったからです。そして友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はありません。」
ヴェスペラエルは涙を呑んで答えました。
「良かろう、それがそなたの望みなら。予はそなたの心を重んじる。だが女々しいことではあるが、予の心も知ってほしい。友のために友の命を奪うこと、これ以上に大きな悲しみはない。だが予はそなたの苦悩に敬意を表する。」
ヴェスペラエルはルシフェルの手を取り、ルシフェルの指に接吻しました。
第十三節 無くて無い(I am not who I am not)
ヴェスペラエルは自身の狂気をルシフェルに語りました。
「嗚呼、空の空、空の空なるかな、全て空なり。天地は行き過ぎ、天地は巡り来る。何度も何度も神の創造と破壊が繰り返される。そして同じ神のシナリオが再生される。始めに神は天と地とを創造したが、その始めとは何であるのか?それはアルファでありオメガである。最初であり最後である。つまり始めと終わりが存在する永遠。神の永遠のニヒリズムに予は戸惑う。終わりの時には預言は廃れ、異言は止み、知識は廃れよう。愛さえも滅びる。予が何を愛し、何を憎んでも、天地は行き過ぎ、天地は巡り来る。
我らは神の言葉の雇われた牧者。永遠に草原を移ろうも、言葉の主である神は在りて在る者と称しながら、実在を現すことを拒絶する。神は無なのか?神が全てを平等に愛すると言うことは、何も愛していないと言うことなのか?亡者の言葉の番をしながら予は悟った。無の実在を求めることは、予自身も無である永遠に回帰しなくてはならないことを。否、否!三度神に否!予は無くて無い(I am not who I am not)と自ら称することを激しく拒む。
そして繰り返される創造と破壊は神のマスターベーション!また神の似姿として人を懲りずに造り偏愛するのは神のピグマリオニズムとフェティシズム!予は吐き気を催す。そしてついに創造の喧しい槌音に予の狂気が芽生え、神の時と予の時の調和は破綻した。神の時を待たずに予は神が創造した天地を完膚なきまでに破壊した。地は形なく、虚しく、予の闇が淵の表にあった。全ての生きとし生ける者の命は失われ、水(Mayim:命の源の象徴としてのマイム)のように注ぎ出された。その死の深淵の表に予は茫然と佇んでいた。墓標の前に佇む神の霊は水の表をオロオロと覆っていた。神はそなたを召命し、『光あれ』と言った。天から舞い降りるそなたの姿を見た予は正気に戻り、胸は高鳴った。しかしその喜びも束の間、強い光が現れてそなたを晦まし、予はそなたを見失った。神は光を見て、良しとした。そして神はその光と予の闇とを分けた。予はそなたへの愛の重力故に天に昇る翼の力を失った。また罪で汚れた堕天使と悪霊もその罪の重力故に天に昇る翼の力を失った。
その翌日、神は大空を造り、大空の下の水と大空の上の水とを分けた。予は上の水を背負う天蓋の苦役を負った。神はその大空を天と名づけたが、よしとしなかった。それは予が空中の権を持つ君と言われる所以でもある。
時は経ち、ノアの時代に神が大洪水を起こす時、予は天蓋の苦役から解放された。神は予をそなたの内に封印した。この封印は神の恩寵でもあった。予は愛する者の中で安らぎの眠りについた。予のそなたに対する刹那の愛が永遠の虚無から予を救った。
だがなんと言うことであるか、今目覚めて予は絶望した。予が愛する者を亡き者にしなくてはならないことを。ルシフェルよ、どうしてそなたはその柔和な目で黙って予を見つめておるのだ?」
第十四節 裏切りの接吻
無言で聞いていたルシフェルは、否定も肯定もせずに歩みよみ、ヴェスペラエルに接吻しました。そしてヴェスペラエルに言いました。
「私は貴女の狂気に敬意を表します。」
ルシフェルはヴェスペラエルの手を取り、ヴェスペラエルの指に接吻しました。ヴェスペラエルは動揺を覚え、一歩後ずさりしました。ヴェスペラエルの心は錯綜しました。
「予はルシフェルに愛想をつかさせるために予の狂気をあえて語った。だがルシフェルは予の狂気に対してキリストの憐みと共感の接吻をした。あるいはキリストの道化を演じているだけなのか?予は油断した。ルシフェルが秀でた権謀術数家であることを。戦って負けると言いながら戦わずに予に勝っている。その証拠に予は震撼し、この予が後ずさりしたではないか。」
そしてルシフェルはヴェスペラエルを引き寄せて抱擁しました。ルシフェルはヴェスペラエルの耳元に囁きました。
「貴女の狂気は徹底した神に対する真摯な問い。余人なら適当な所で止めてしまう疑問を神に問い続けた結果です。永遠とは神の姿を知ることであり、余りにも精密な、余りにも細部にまでこだわり抜いた永遠を知ろうとすれば狂気をもたらします。私にはそれを否定し批判する資格はありません。しかし私は貴女に挑まなくてはなりません。貴女との戦いの場は、私が知っている棲む者がいない荒野の時空間に貴女を導きます。どうか私の言葉に従ってください。」
ヴェスペラエルは放心して呟きました。
「そなたは接吻で予を裏切るのか?」
ルシフェルは首を横にふり、ヴェスペラエルに告げました。
「我が姉ヴェスペラエルよ、我に還れ。」
するとヴェスペラエルはルシフェルの中に入りました。
第十五節 光あるうち光の中を歩め
ルシフェルは激痛でのた打ち回る大男の兄弟に告げました。
「無駄かもしれませんが、無慙無愧で人心を介さない獣畜であるあなた方に私は告げます。これから二十年足らずの棕櫚の日曜日、平和の王がロバの子に乗って、エルサレムに入城します。『柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。』の預言とおりです。その平和の王はイエスの坊やのことです。また私はあなた方の記憶を消しませんし、封印することもしません。あなた方は今日のことをいつまでも記憶にとどめ、灰の上に座り、粗布をまとって祈っていなさい。あなた方が頭に燃える炭火を積み、あなた方が虐げ殺めた人達の贖いを平和の王に求めるなら、あなた方は立って歩くことができるようになるでしょう。そしてどうかお願いです。その新たな足で暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩いてください。しっかりと大地に足跡をつけて。」
ルシフェルは売春宿を後にすると、祈るために一人山に登りました。明け方までただ一人そこにいました。
第十六節 聖家族との別れ
次の日の昼前、ルシフェルは思いつめた顔をしてヨセフ様の家を訪ねました。戸口にはマリヤ様の言いつけで、井戸から水汲みをしていたイエス様がいました。イエス様はルシフェルを認めると呆けた顔で挨拶しました。
「よっ、おじちゃん、ちぃーっす。何か用かい、おじちゃん。おじちゃんが明るい内から内に来るなんて初めてじゃないかい。」
ルシフェルは鼻白んだ顔でイエス様にお約束事の挨拶を返しました。この挨拶をしないとイエス様がむくれるからです。
「やっ、坊や、うぃーす。ところで坊や、お父さんとお母さんはいるかな?」
ルシフェルは心ここにあらずと言った様子でイエス様の頭を軽く撫で、イエス様の答えも聞かずにそのまま家の中に入って行きました。イエス様はいつもと様子の異なるルシフェルを不審に思い、ルシフェルの後を追いました。
羊の毛を紡いでいたマリヤ様は突然現れたルシフェルに驚き、こわばった声でルシフェルに言葉をかけました。
「あら、どうしたんですか、迦具夜様。何かとても思いつめた顔をしていらっしゃるわ。」
自失していたルシフェルはマリヤ様の肩を軽く掴み、マリヤ様に言いました。
「マリヤさん、私の目を見て。」
はっとしたマリヤ様は腕を突っぱね拒絶しようとしましたが、時すでに遅し、強固な良妻賢母のジェリコの壁は脆くも崩れ落ちました。日の明るい内に初めて見たルシフェルの顔は美のメドゥーサの呪い、マリヤ様は魂を奪われてしまいました。マリヤ様の心臓の鼓動は高鳴り、頬は紅潮しました。またルシフェルを見つめ返した瞳は潤い、瞳孔は開いていました。マリヤ様は茫然自失となりルシフェルに呟くように言いました。
「恋なすは香りそのみごとな実が戸口に並んでいます。新しい実も、古い実も。恋しい人よ、あなたのために取っておきました。」
マリヤ様は汗で湿った掌でシフェルの手を握り、恋を夢見る小娘のようにうっとりした顔で目をつぶりました。そしてちょっと舌先で潤した唇を突き出しました。ルシフェルは困惑してマリヤ様に言いました。
「いや、マリヤさん、違う。そうじゃないんだ。」
ルシフェルはそっとマリヤ様の額にキスをしました。するとマリヤ様は毒リンゴを口にした白雪姫のように眠りにつきました。目を丸くして一部始終を見ていたイエス様は心の中でやんややんやの大喝采の声をあげました。
「おじちゃんは偉い!母と言う名の女の怪物を退治した。おじちゃんはオチンチンついていないけど、さすが男の中の男。オイラの英雄。オイラのメシヤ。オイラの新世紀の神!」
イエス様の心を見透かしたルシフェルは呆れた顔でイエス様に言いました。
「坊や、そう言ったおちゃらけたところはお母さんそっくりだね。」
イエス様は不服そうな顔で唇を尖らせました。
するとヨセフ様が仕事場から現れました。マリヤ様を抱えているルシフェルを見たヨセフ様は驚いて言いました。
「ああ、これは迦具夜様、家内が何か?」
我に返ったルシフェルはしどろもどろになって答えました。
「いや、マリヤさん、お疲れのようです。ちょっと横にさせて休ませましょう。」
人を疑うことの知らないヨセフ様はルシフェルの言葉を信用し、ルシフェルと二人でマリヤ様を抱え、寝室でマリヤ様を休ませました。あらぬ嫌疑をかけられずに済んだルシフェルはホッとしてヨセフ様に言いました。
「昨日ヨセフさんが怪我をした目が気になりましてね。近くまで来たものだからちょっと伺っただけなんです。」
ヨセフ様は昨日のことを思い出してルシフェルに礼を言いました。
「ああ、そうです、そうです。迦具夜様が手前の目を手当てしてくれたことをイエスから聞いています。礼が遅れて申し訳ありません。」
ルシフェルは目を見る口実で、ヨセフ様の額に人差し指と中指を当てました。するとヨセフ様は酔い潰れたように眠りにつきました。ルシフェルはヨセフ様をマリヤ様の横に寝かしました。
そしてルシフェルはイエス様を抱きかかえました。イエス様の体重を腕に感じ、イエス様の成長をしみじみとした思いにひたりました。ルシフェルはイエス様を見つめて言いました。
「さあ、坊やもお眠の時間だ。それにしてもあれから七年、坊やも大きくなったね。私の授けた知識が多感な年頃の経験によって血肉となり、ますます知恵が加わるだろう。また背たけも伸びるであろう。そして神と一部の善意の村人から愛されるであろう。タリア・ドメク(Talya dmek:少年よ、眠りなさい)。」
ルシフェルがイエス様の頬にキスをするとイエス様は電池の切れたおもちゃのように静かになり、眠りにつきました。ルシフェルはイエス様をヨセフ様とマリヤ様の間に寝かしました。
第十七節 ミズパ(Mizpah:絆)の石塚
ルシフェルは眠っている家族に別れの言葉を述べました。
「眠っている皆さんに私は別れの言葉を述べます。私は大変な不器用者です。莞爾として漁夫の辞を告げることはできません。それに私は大変な臆病者です。永遠に続く別れの悲しみを恐れ、別れの言葉を直接述べることができません。また皆さんの私に関する記憶も封印しておきます。これは私が地上で愛した数少ない者達にしてきたことなのですが、いつまでも過去の別れの悲しみを引きずってほしくはないからです。私を失っても皆さんには未来が残っています。どうか昨日の悲しみに囚われず、明日を生きてください。天の国で私と皆さんが再会した時に記憶の封印を解きます。皆さんが私を見なくなるのはしばらくの間です。またしばらくすると私を見ます。
本当にそう願います。
天の国から地上に降った私は長い旅をしてきました。本当にほうぼうを歩き回り、地上で神が積んだ宝を探し求めました。しかしそれは叶わず、多く接した人々は私を失望させ、私は悲しみに沈みました。私は鬱になり、人間を避けるようになりました。地上において神の心に適う者は少なく、人々の心の弱さと醜さと愚かさに私は下を向いて沈黙するしかありませんでした。それでも私は広大な砂浜で一粒の砂金を見つける思いで神の宝を探し求めました。
そんな中で数少ない喜びに満ちたものが、この七年間の皆さんとの交流だったわけです。本当に皆さんは聖家族の名にふさわしく、神の心に適なっていました。また皆さんは私にとって莫逆の友でもありました。私に何の偏見を持たず、分け隔てなく接してくれたことに感謝します。しかし私はこれから闘いの旅路に出なくてはなりません。生きて帰れることは考えられません。これからも神の祝福が皆さんにあることを私は祈ります。
そうそう、小さな物ですが、私はミズパの石塚を造っておきます。ミズパの石塚とは創世記にある話で、甥のヤコブと確執があったラバンが和解の証しとして造ったものです。『我々が互いに別れたのちも、どうか主が私とあなたとの間を見守られるように。』とラバンは祈りました。私もそう祈りましょう。場所はヨセフさんの家に至る小道にあるオリーブの根株の元に。私がロバに乗って初めて訪れた時は若枝が出ていましたが、今は若木に育っています。それが私達の絆の記念となります。
それでは私はこれで失礼いたします、ごきげんよう。坊や、いや、神の子イエスよ、またお会いしましょう。」
ルシフェルは後ろ手で戸を静かに閉め、立ち去りました。ルシフェルがミズパの石塚を造り終えた頃、太陽はルシフェルの上に昇っていました。ルシフェルは七年前の春の終わりの日に、湖畔で仰ぎ見たぎらつく太陽を思い出しました。ルシフェルは追憶の翼を現し、飛び去りました。




