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19/29

 ビルの窓から漏れる照明の光が、夜の景色に模様を作っていた。日中の照りつけるような暑さは、空気中に残されたままだった。

 ハイヤーが東京駅に横付けされた。

 車内は革のシートの匂いと、微かな香水の香りが漂う。

 纏っているミッドナイトブルーのサテンドレスは、窓外からの灯りを受け、柔らかな光沢を放っていた。

 窓の外では人がとめどなく動いている。

 深呼吸を繰り返した。手に持つスマートフォンの画面にメロディとともにメッセージが表示された。短く息を吸いスマートフォンを顔に近づけた。

『今、ホームに着きました! すぐ行きます』

 ペットボトルの水を飲むと、空になった。

 人の流れの中で、周りを見回しながら歩く背の高い男性がいた。

「あ、照彦さんだ。ご案内して」

 運転手は照彦の元へ行き、白い手袋を動かしてハイヤーへと誘<いざな>う。

 照彦は、しわのない白のシャツにジャケット、グレーのパンツ、磨かれた革靴を履いていた。

 ドアが開く。照彦の表情が固まっていた。熱気が車内に流れ込んだ。

「こんばんは、照彦さん」

 照彦は何も言わず、目を泳がせた。

 音もなくドアが閉まった。車は都心のきらびやかな夜景の中を走り出した。

 照彦は汗をハンカチで拭いた。ほのかに石鹸の香りがした。

「暑い中、こっちまで来てもらってありがとうございます。お水をどうぞ」

「あ、ありがとう、ございます」

 照彦の震えた手がペットボトルに伸びた。照彦はハンカチをポケットにしまい、多くの水を口に含んだ。

「そして、もうひとつ」

 手に持った深いブルーのネクタイにはシルクの艶がある。

「これから行くところのドレスコードなんです」

「ドレスコード」

 照彦が繰り返した。

「驚かせてごめんなさい。実は私、モデルっていうだけじゃない、もう一つの顔があります」

 照彦は車の天井に目をやり、その後、目を向けた。

「なんでしょう。マフィアのボスの娘、とか?」

 笑い声が車内に広がる。

「違います」

「でしょうね」

 照彦は微笑んでいたが、頬に力が入っていた。

「もうすぐ着きます。そこで、全てお話しします」

「わかりました」

 照彦はネクタイを結ぶ。長さが合わず何度もやり直していた。

 ハイヤーが停まった。目の前には高層ビルが立っている。

「ここ知ってる。テレビで見たことあるよ。ホテル一ノ瀬だ」

 照彦は目を見開いて振り向いた。

「へっ? 一ノ瀬?」

 ゆっくり頷く。車から降りると、ホテルの支配人が近付いた。

「詩織お嬢様、お待ちしておりました。お連れ様もこちらへ」

 小さくてもしっかりと聞き取れる支配人の声は、優しく微笑んでいた。支配人の白い手袋に導かれて歩く。後ろの照彦は廊下を見渡していた。

「ごめんなさい、無理を言ってしまって」

 支配人にだけ聞こえる声を出した。

「いえいえ、とんでもございません。こんな日を今や遅しと待っておりました」

 支配人の目尻の皺が増えた。

「もう。でも、助かります」

 さらに声を顰めた。

「とても大事な人なんです」

「承知いたしました。レストランを貸切にしております」

 エレベーターで最上階に向かう途中、照彦の顔は見なかった。

 分厚い扉が開かれると、そこにはテーブルと、イスが二つだけある。

 窓の外には、東京を見下ろす夜景が広がっていた。小さい光が無数に広がる。イスに座ると、支配人が会釈して下がった。

 美しい料理が次々と運ばれてきた。

 照彦は背筋を伸ばしたまま、目を前後に行き来させていた。フォークを持つ手は何度も止まるが、食べ物を口に運ぶと、鋭い目つきで咀嚼していた。カトラリーが皿に触れ、澄んだ音が響いた。

 ナイフとフォークを、静かに置くと、照彦も同じようにした。

「驚かせてごめんなさい。でも、どうしても照彦さんに伝えておきたかったんです」

 照彦が頷く。唇に力が入っていた。

「私の父は、一ノ瀬ホールディングスの会長をしています。私は、その一人娘として生まれました。現在、兄が社長をしています」

 照彦の喉が鳴る。

「物心ついた時から、常に完璧でないといけないと教わってきました」

 夜の東京が電気を消費し、輝きを増していた。

「でも、照彦さんと出会ってその重荷を少しずつ下ろせていることに気付きました。だからこそ本当の自分を知ってもらわなきゃって」

 声が揺れた。照彦の瞳にシャンデリアの灯りが映る。

「また、会ってもらえますか?」

 照彦は口を開け、また閉じた。空調の音がにわかに大きくなった。

「し、正直、すごく、驚きました」

 照彦はこめかみを掻いた。

「本当に、想像のかなり上で」

 照彦は苦笑いをして、ゆっくり瞬きを一回した。

「でも、僕は、詩織さんの仕事や美しい顔に惹かれたんじゃない。いや、もちろん顔にもすごく惹かれてるんだけど」

 照彦は首を振りながら、ワインを一口飲んだ。

「えっと、つまり、確かに一ノ瀬ホールディングスのご令嬢っていうのは、驚きました。腰が抜けるほど」

 照彦がシャンデリアを見上げ、咳払いをした。

「でも、一ノ瀬家とかモデルっていうのも、今の詩織さんを作ってる、大切な『積み重ね』なんだと思うんです」

「積み重ね?」

「そう。今、ここにいる。その詩織さんそのものに、惹かれたんです」

 照彦は目を上に向け軽くのけぞった。

「ちょっと僕じゃカッコつかないなあ」

 詩織は首を振ってから、呼吸を整える。

「怖かった」

 照彦は微笑んだ。

「僕ね、詩織さんに話の途中で、『もう会うのやめましょう』って言われるんじゃないかって、ドキドキしちゃったよ」

 照彦は眉間に皺を寄せ、声色を変える。

「あなたとは住む世界が違うんですって」

 大きく首を横に振った。

「でもこの前、水族館を出たときに僕は気付いたんです」

 照彦が手元を見つめた。

「詩織さんのことが好きなんだって。一緒にいたいって」

 シャンデリアの優しいオレンジが、さらに明るく煌めいた。

「だから話を聞きながら、どんなことを言われても簡単にあきらめたりはしないって決めていました」

「照彦さん」

 ハンカチに顔を埋めた。薔薇の香りが優しく包み込む。

「僕は意外と頑固者ですからね」

 長く息を吐いた。ハンカチをおろし、呼吸を整えた。

「うれしいです。でも、一つだけ言いたいことがあります」

 照彦は背筋を伸ばした。

「な、なんでしょう」

「『水族館を出たとき好きだと気付いた』って言ってましたね」

「そうです。お金持ちって知ってからじゃないですよ。断じて――」

「遅くないですか?」

「へ?」

「私はとっくに大好きでした」

 しばらくの沈黙の後、二人は顔を見合わせて、笑い合った。夜の東京の光もまた、暖かく輝いていた。

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