鉄と霧の境界線
――ある大尉の戦争記――
霧は、いつも戦場の朝に似ている。
それは神秘でも救済でもなく、ただ視界を奪い、距離感を狂わせ、人の判断を鈍らせる。
エルンスト・フォン・ライナルト大尉は、丘陵地帯の前線観測壕の縁に立ち、双眼鏡を下ろした。
霧の向こうにあるはずの敵陣は見えない。ただ、低く湿った大地と、砲弾で抉られた土の匂いだけが確かだった。
この戦争が始まってから、三か月。
帝国と連邦――二つの大国は、互いに全面的な殲滅を避けながら、しかし確実に兵を削り合っていた。
理由は単純だ。
勝っても失うものが多すぎる。
「大尉。前進観測班から報告です」
副官のヴァルターが、濡れた書類を差し出す。
魔法による索敵結果が簡潔にまとめられていた。魔力を使った者は一人だけ。観測精度は低く、霧と地形に妨げられている。
「使えないな」
エルンストは淡々と言った。
「魔法は万能ではありませんから」
「万能であっても困る」
彼はそう付け加えた。
もし魔法が主戦力になれば、この戦争は今よりずっと短く、ずっと悲惨になる。
この世界では、魔法は存在する。
だがそれは希少で、消耗が激しく、そして不安定だった。熟練の魔導士であっても、砲弾一発で命を落とす。ゆえに魔法は補助であり、戦争の主役は依然として鉄と火薬だった。
丘の向こうで、砲声が響いた。
敵の試射だろう。距離を測っている。
「歩兵を下げろ。砲兵は位置を変えない」
「了解」
命令は簡潔だった。
この戦線で重要なのは、勇敢さではない。無駄に死なないことだ。
エルンストが軍人になったのは、英雄になりたかったからではない。
貴族の三男として生まれ、進むべき道がそれしかなかったからだ。
士官学校では戦史を学んだ。
剣と槍の時代、騎兵の突撃が戦局を決めた時代、そして今――銃と砲と補給が戦争を支配する時代。
教官は言った。
「諸君、戦争は勇気で始まるが、計算で終わる」
当時は理解できなかった。
今なら、嫌というほど分かる。
昼過ぎ、霧が薄れた瞬間を狙って、敵が動いた。
連邦軍の歩兵中隊が、散開しながら前進してくる。
その動きは慎重で、無駄がない。訓練された兵だ。
「射撃準備」
エルンストの声は冷静だった。
「距離三百。撃つな。二百五十まで待て」
銃声が轟いたのは、その直後だった。
帝国軍の一斉射。白煙が立ち上り、数名の敵兵が倒れる。
連邦軍はすぐに伏せ、反撃に転じた。
弾丸が地面を叩き、土が跳ねる。叫び声。負傷者。
戦場は混沌とするが、指揮官のやることは少ない。
止めるか、進ませるか。
「左翼、五十歩下がれ。中央は維持」
判断は遅れなかった。
結果、敵の前進は止まり、膠着状態に入る。
数十分後、砲兵が沈黙した。
双方とも、それ以上の消耗を避けたのだ。
これが、この戦争の日常だった。
夜、壕の中でエルンストは日誌をつけた。
――敵歩兵との接触。損耗軽微。戦線維持。
書くべきことはそれだけだ。
英雄的行為も、劇的勝利もない。
ヴァルターが言った。
「この戦争、いつ終わると思いますか」
エルンストは少し考えた。
「終わらない。形を変えるだけだ」
「勝敗は」
「それも、誰がどう定義するか次第だ」
若い副官は黙った。
答えが気に入らなかったのだろう。
三週間後、戦線はわずかに動いた。
だがそれは前進ではなく、後退だった。
帝国中央部で政治的動揺が起き、兵力の再配置が決まったのだ。
エルンストの部隊も、陣地を放棄する命令を受けた。
「負けたのですか」
ヴァルターが尋ねた。
「違う」
「ではなぜ」
エルンストは、しばらく答えなかった。
「戦争は、戦場だけで決まらない」
それだけ言った。
撤退は、攻撃より難しい。
恐怖が蔓延し、規律が崩れやすい。
だがエルンストの部隊は秩序を保って下がった。
それは彼が、兵を無駄に使わなかったからだ。
後方で、補給拠点を兼ねた小都市に入ったとき、彼は初めて列車を見た。
負傷兵と物資を運ぶためのものだ。
鉄道は前線を支配しない。
だが、前線が存在し続ける理由にはなる。
エルンストはそれを「隠し味」として理解していた。
表に出ることはないが、欠ければ全てが崩れる。
終戦は、突然だった。
外交交渉の結果、停戦線が引かれた。
領土の変化はわずか。だが、数十万が死んだ。
エルンストは生き残った。
それが勝利なのかどうかは、分からない。
帰還の日、彼は駅のホームに立っていた。
あの戦争の始まりと同じ、蒸気と鉄の匂い。
彼は懐中時計を見た。
定刻通りだ。
戦争は終わった。
だが、次の戦争の準備は、もう始まっている。
霧の向こうで、汽笛が鳴った。




