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鉄と霧の境界線

作者: 北の神
掲載日:2025/12/18

――ある大尉の戦争記――



 霧は、いつも戦場の朝に似ている。

 それは神秘でも救済でもなく、ただ視界を奪い、距離感を狂わせ、人の判断を鈍らせる。


 エルンスト・フォン・ライナルト大尉は、丘陵地帯の前線観測壕の縁に立ち、双眼鏡を下ろした。

 霧の向こうにあるはずの敵陣は見えない。ただ、低く湿った大地と、砲弾で抉られた土の匂いだけが確かだった。


 この戦争が始まってから、三か月。

 帝国と連邦――二つの大国は、互いに全面的な殲滅を避けながら、しかし確実に兵を削り合っていた。


 理由は単純だ。

 勝っても失うものが多すぎる。


 「大尉。前進観測班から報告です」


 副官のヴァルターが、濡れた書類を差し出す。

 魔法による索敵結果が簡潔にまとめられていた。魔力を使った者は一人だけ。観測精度は低く、霧と地形に妨げられている。


 「使えないな」


 エルンストは淡々と言った。


 「魔法は万能ではありませんから」


 「万能であっても困る」


 彼はそう付け加えた。

 もし魔法が主戦力になれば、この戦争は今よりずっと短く、ずっと悲惨になる。


 この世界では、魔法は存在する。

 だがそれは希少で、消耗が激しく、そして不安定だった。熟練の魔導士であっても、砲弾一発で命を落とす。ゆえに魔法は補助であり、戦争の主役は依然として鉄と火薬だった。


 丘の向こうで、砲声が響いた。

 敵の試射だろう。距離を測っている。


 「歩兵を下げろ。砲兵は位置を変えない」


 「了解」


 命令は簡潔だった。

 この戦線で重要なのは、勇敢さではない。無駄に死なないことだ。




 エルンストが軍人になったのは、英雄になりたかったからではない。

 貴族の三男として生まれ、進むべき道がそれしかなかったからだ。


 士官学校では戦史を学んだ。

 剣と槍の時代、騎兵の突撃が戦局を決めた時代、そして今――銃と砲と補給が戦争を支配する時代。


 教官は言った。


 「諸君、戦争は勇気で始まるが、計算で終わる」


 当時は理解できなかった。

 今なら、嫌というほど分かる。




 昼過ぎ、霧が薄れた瞬間を狙って、敵が動いた。


 連邦軍の歩兵中隊が、散開しながら前進してくる。

 その動きは慎重で、無駄がない。訓練された兵だ。


 「射撃準備」


 エルンストの声は冷静だった。


 「距離三百。撃つな。二百五十まで待て」


 銃声が轟いたのは、その直後だった。

 帝国軍の一斉射。白煙が立ち上り、数名の敵兵が倒れる。


 連邦軍はすぐに伏せ、反撃に転じた。

 弾丸が地面を叩き、土が跳ねる。叫び声。負傷者。


 戦場は混沌とするが、指揮官のやることは少ない。

 止めるか、進ませるか。


 「左翼、五十歩下がれ。中央は維持」


 判断は遅れなかった。

 結果、敵の前進は止まり、膠着状態に入る。


 数十分後、砲兵が沈黙した。

 双方とも、それ以上の消耗を避けたのだ。


 これが、この戦争の日常だった。




 夜、壕の中でエルンストは日誌をつけた。


 ――敵歩兵との接触。損耗軽微。戦線維持。


 書くべきことはそれだけだ。

 英雄的行為も、劇的勝利もない。


 ヴァルターが言った。


 「この戦争、いつ終わると思いますか」


 エルンストは少し考えた。


 「終わらない。形を変えるだけだ」


 「勝敗は」


 「それも、誰がどう定義するか次第だ」


 若い副官は黙った。

 答えが気に入らなかったのだろう。




 三週間後、戦線はわずかに動いた。

 だがそれは前進ではなく、後退だった。


 帝国中央部で政治的動揺が起き、兵力の再配置が決まったのだ。

 エルンストの部隊も、陣地を放棄する命令を受けた。


 「負けたのですか」


 ヴァルターが尋ねた。


 「違う」


 「ではなぜ」


 エルンストは、しばらく答えなかった。


 「戦争は、戦場だけで決まらない」


 それだけ言った。




 撤退は、攻撃より難しい。

 恐怖が蔓延し、規律が崩れやすい。


 だがエルンストの部隊は秩序を保って下がった。

 それは彼が、兵を無駄に使わなかったからだ。


 後方で、補給拠点を兼ねた小都市に入ったとき、彼は初めて列車を見た。

 負傷兵と物資を運ぶためのものだ。


 鉄道は前線を支配しない。

 だが、前線が存在し続ける理由にはなる。


 エルンストはそれを「隠し味」として理解していた。

 表に出ることはないが、欠ければ全てが崩れる。



 終戦は、突然だった。


 外交交渉の結果、停戦線が引かれた。

 領土の変化はわずか。だが、数十万が死んだ。


 エルンストは生き残った。

 それが勝利なのかどうかは、分からない。


 帰還の日、彼は駅のホームに立っていた。

 あの戦争の始まりと同じ、蒸気と鉄の匂い。


 彼は懐中時計を見た。

 定刻通りだ。


 戦争は終わった。

 だが、次の戦争の準備は、もう始まっている。


 霧の向こうで、汽笛が鳴った。

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― 新着の感想 ―
 得たものが存命者の命以外、あるかどうか怪しく、失ったものは万を超え……ですか。エルンストさんの無謀になるのを抑えての采配故に大敗はしなかったですが、複雑な気分にさせられますね。  線路などで事故や…
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