01.太古の昔のクマとヒト
01.太古の昔のクマとヒト
古代ギリシャで最も有名なクマは大熊座だろう。次いで小熊座だが、こちらはギリシア哲学者列伝によればミレトスのタレスまたはサモス島のフォコスが発見したものだという。その北極星は航路の指標としてフェニキア人に採用されていた。
大熊座はギリシャ神話の一説においては、ヘラの嫉妬かアルテミスの怒りによって熊に変えられたカリストーを表す。そしてカリストーの子アルカスが山中で熊となったカリストーを狩ろうとしたときにゼウスが憐れみ、カリストーを天に昇らせて大熊座にしたという。
すなわちアルカスは熊狩りをしていた。オウィディウスの変身物語には彼が網の罠を使ったとあり、偽エラストテネスは熊を集団で追い立てたと書く。
ヘレニズム時代の狩猟に関してはクセノフォンの「狩猟についてCynegeticus」が参考になる。ウサギ狩りや猪狩りについては詳細に書かれているが、クマは他の猛獣──ライオンやヒョウなどとまとめて簡潔に書いている。
クセノフォンは山岳に棲む猛獣狩りの手段として、毒を使う方法、罠を使う方法、集団で追い立てる方法の三つを提示している。
毒にはトリカブトが用いられ、動物の好物に混ぜて水場に設置するという方法が挙げられている。
熊の食性について古代ギリシャの人々どのように理解していたのかについては、アリストテレスの動物誌で以下のように触れてられいる。
熊は雑食性であり、木を登って果物を採り、蜂の巣から蜂蜜を得る。野菜や蟹を食べ、猪や雄牛も襲う。そして冬眠から目覚めた熊はまずアルム草Arumを食べると信じられていた。
またイソップ物語には子ヤギを襲おうとしている熊が描かれている。
罠については、「溝を掘る」とあるから落とし穴を作るのだろう。
アリストテレスは動物誌において、妊娠した熊を捕らえるのは困難な仕事だという。熊は冬眠中に妊娠すると考えられていて、それゆえに外に出ることがなく毒餌や罠に掛かる機会が無いからだろうか(※実際は春か夏に交尾した後、秋に着床して冬に出産する)。勿論冬眠中の熊を狙うこと自体も危険だが。後の世でプリニウスは妊娠した雌熊が発見しづらいものとして解釈しているようだ。
一方、集団での狩りは、熊が山から麓に降りてきたときに行われる。こちらは住民の保護を目的としていた。古代ギリシャの熊狩りの壁画には、犬を走らせ馬に乗って槍を掲げている狩人の姿が描かれている。
当時の熊はライオンと並び立つほど強大な存在で、例えばホメロスのディオニュソス賛歌には突然現れた熊とライオンに逃げ惑う人々の姿が描かれ、前述のイソップ物語の話では子ヤギを巡ってライオンと果敢に戦っている。
熊狩りは無事に済まない場合もあり、プルタルコスによればアレクサンドロス大王の将軍ペウケスタスは狩りの最中に熊に噛まれて怪我をしている。またクセノフォンのアナバシスによれば小キュロスは熊と格闘し、生涯消えない傷を負った。
熊は突然襲ってくると思われていたようで、キュロスの教育には狩りの最中に熊とライオンに突然襲われ、槍を投げて殺した話がある。またイソップ物語にも突然熊と遭遇した旅人の話があり、旅人の一人は木に登り、もう一人は死んだふりをして助かったという。
アリストテレスは子連れの雌熊の方が雄熊より凶暴だと書いている。旧約聖書のサムエル記にも子を奪われた熊が狂暴になるとある。雌熊がその仔を大切にすることはよく知られていて、神話の中では人間の子供を大切に育てたりもしている。
パウサニアスのギリシャの説明によれば、アルテミスに動物の犠牲を捧げるラフィリア祭にて熊の子を捧げる者もいたというから、捧げ物のために熊の仔を攫うことはあったのだろう。
殺された熊の部位のうち、毛皮には価値があったように見える。
ギリシャの説明においては、アルカディアの山岳民が熊の毛皮を着ている。アポロニウスのアルゴナウティカにも熊の毛皮をまとったアルカディア人が登場する。そのほかホメロスのアフロディーテ賛歌によれば、山暮らしのアンキセスは寝床に自ら仕留めた熊とライオンの毛皮を敷いていたという。アルカディアはカリストーの神話にも関わる山がちな土地で、狩猟とよく結びつけられていた。
スーダの辞典によればアルテミスの神殿には雌熊が飼われていた。未婚の少女が雌熊を虐めたために爪で引っ掻かれてしまい、雌熊はそのために打ち殺されて、以来アテネでは疫病が流行った。アテネの人々はデルフォイの神託を受けて5歳から10歳の少女が熊を演じるブラウロニア祭を開くようになったという。熊を演じるといっても少女たちの衣服は黄色いローブと決められていて、熊の毛皮は着ない。雌熊は捕らえたものか、贈られたものだろう。
イソクラテスもアンティドーシスで飼い熊に言及していて、毎年開催されるショーで踊ったり格闘したりしていたという。
アテナイオスの食卓の賢人たちによれば、何でも食べる人間だけが熊を食べた(2.72)そうだから、普段は殺した熊の肉を食べることは無かったはずだ。
人間は先史時代の頃からクマを狩っていたかもしれない。
氷河期のユーラシア大陸にはホラアナグマという種のクマがいた。体重500kg超の巨大なクマで、食性はほぼ草食だった。ホラアナグマに対する狩猟や共存の証拠は十分に無いが、熊の骨がネアンデルタール人によって儀式的に使用されていたと信じる人々もいる。
彼らは洞窟の中に単独あるいは集団で冬眠していたが、旧石器時代の終わりに滅亡した。原因は洞窟の所有権争いか、あるいは単純にこの時期の大型動物の大量絶滅の影響とされる。そして以降はホラアナグマより小さくそして何でも食べる雑食性のヒグマがヨーロッパに広がり、稀にホラアナグマと同程度に大きい亜種も現れた。
青銅器時代の中東にはシリアヒグマが生息していた。古代エジプトや古代メソポタミアでは熊はシリアからの献上品として描かれている。シリアヒグマは比較的小柄なヒグマで、北海道にいるのより小さいがツキノワグマくらいはある。
都市国家時代のシュメールの頃から熊は調教され、踊らされてきた。熊はシリアのエブラ王国から贈られたという。
アッシリアの王は熊を含む多くの動物を集めて臣民に見せびらかり、庭園に住まわせていた。
またヒッタイトもクマを狩猟対象にしていたようだ。祭事の中には、熊に扮して踊ったり矢で射られたりする演目があった。
先に書いたキュロスの話にもあるように中東を支配したアケメネス朝ペルシャでも同様に熊狩りが行われていた。イランの熊狩りは少なくともエラムの頃まで遡るが、猛獣としてはヒョウやライオンの方が優位にあったかもしれない。
熊は古代のエジプトにも生息していたようで、ヘロドトスが数少ないものの熊が居たと書いている。第五王朝のサフラー王のピラミッドやテーベの墓地群の壁画にも鎖に繋がれた熊が描かれているが、いずれもエジプト産というよりは他所からの貢物に見える。前者は現代では既に絶滅したアトラスグマで他の動物たちとともにリビアから連れてきたものかもしれないし、エブラから贈られたものかもしれない。後者は新王国時代に地中海を経由してシリアから輸入したものかもしれない。いずれも壁画でははっきりわからない。どちらにせよ熊は現地人の熊使いに連れて来られた。
エジプトの民話ライオンとネズミの物語にも熊が登場する。この熊は人間に爪と牙を奪われて飢えていた。優位性はライオンの方に置かれていたようだ。狩猟でも熊狩りよりライオン狩りの方が重視され、ファラオだけがライオンを狩ることができた。
イスラエルではライオンと熊は同列に置かれていた。
旧約聖書のサムエル記によれば、ダビデは羊の群れがライオンと熊に奪われたとき、ライオンと熊をぶっ殺して羊を取り返したという。また箴言では、悪徳君主はライオンや熊のようだと例えている。
やはり強力な存在と考えられていて、列王記には預言者エリシャが町の子供たちによって禿げ頭を嘲笑されたとき、2頭の熊が森から現れて42人の子供たちを襲ったとある。黙示録の獣も、その身体の一部が熊の足で構成されていた。




