思い出のデパート
この春、大学入学を機に約十五年ぶりに東京に帰ってきた。帰ってきたといっても、私が東京で過ごしたのは生まれてから数年の間だけなので、ほとんど初めて上京したものだと考えるべきなのかもしれない。しかし、それにもかかわらず東京で忘れられない場所がある。それは池袋のデパートだ。私がまだ幼かった頃、私たちは池袋の近くに家族三人で暮らしていた。その頃、休みの日によく家族でデパートへ行き、ろくに買い物もしないのに家族みんなでデパート内をぶらついて一日を過ごした。そんなことを思い出したらデパートに行きたくなったので、道もよく覚えていないが池袋に行くことにした。
私は池袋に行くために私鉄に乗った。電車の中には家族連れがたくさんいた。そういえば今日は日曜日なので、家族連れが多いのも当然だ。どの家族も皆楽しそうにしている。そんな人々を横目に眺めながら、私は自分の家族のことを思い出した。
両親は、私が小学校に上がる前に離婚した。離婚後、両親はお互いに別々の人と再婚し、取り残された私は母方の祖父母に引き取られることになった。両親との別れの日は、東京駅のホームに雪が舞っていた。つらくなかったと言えば嘘になるが、両親が望むことだから仕方ないと考えることにした。両親は、目に気の毒そうな色を浮かべていたが、申し訳なさそうに振舞う様子の端々に安堵しているような様子が伺えた。祖父母は両親と口をききたがらなかった。おそらく言いたいことはすでに言ってあったのだろうが、それでも両親に対する冷淡な目つきには不満の色が残っていた。
私は、別れがつらい以上にその場の澱んだ空気が嫌で仕方がなくなり、なかなか鳴らない発車ベルに対して段々と苛立ちを覚え始めた。ようやく発車のベルが鳴り、列車のドアが閉まった。両親は私に向かって手を振っていたが、その姿はやがて雪に紛れて見えなくなった。それ以降、私は両親と一度も会っていない。
考え事をしているうちに景色は段々と都会らしくなり、急行列車は池袋駅に到着した。私鉄の改札は地下と地上に分かれている。電車の先頭車両に乗っていたので、周りの流れに乗って地上改札から出ることになった。池袋駅構内は予想以上に人がたくさんいた。道に迷いそうだと思ったが、デパートの入口は改札のすぐ近くにあったので、迷うことなくすんなりと入ることができた。
最初の目的地はおもちゃ売り場だ。私が幼い頃、家族でデパートに行くと一番最初におもちゃ売り場に向かった。私がおもちゃを見たがるというのもあるが、それ以上に父がおもちゃ好きだったので、一目散におもちゃ売り場を目指したのだ。さっそく私はおもちゃ売り場がある七階に向かった。七階に到着し、隅から隅まで歩き回っておもちゃ売り場を探したが、おもちゃ売り場は見つからなかった。どうしても見つからないので、私はエレベーター前の売り場案内を確認した。すると、おもちゃ売り場の位置は六階になっていた。おもちゃ売り場が七階でないことに少し複雑な気持ちになったが、六階のおもちゃ売り場に向かった。エスカレーターでワンフロア下りるとおもちゃ売り場が目に入った。当時から決して広くはなかったおもちゃ売り場は、昔よりもずっと狭くなっていた。少子化の影響でおもちゃ売り場のスペースが狭められたのが原因かもしれないが、そんなことはどうでもよかった。現在のデパートが私の記憶にあるものと異なっているという事実がショックだった。
沈んだ気持ちで、私は屋上へ向かった。心構えはしていたが、屋上もずいぶんと変わり果てていた。家族でデパートへ行くと、おもちゃ売り場を見た後に屋上に行くことが多かった。当時は、屋上が小さな遊園地のようになっており、メリーゴーランドや簡易的なジェットコースターがあって、そこで遊ぶのが家族でデパートに行った時の楽しみの一つだった。どの遊具も有料だったため、一日に一つしか乗れなかったが、今日はどれに乗ろうかと考えることすらも楽しかった。しかし、それらの遊具は一つも残らずなくなっており、屋上はだだっ広いだけの空間になっていた。これも少子化の影響なのだろうか。少子化以前に、最近はそもそも家族でデパートに行くような人が少ないのかもしれない。そんなことを考えていたらパラパラと小雨が降ってきたので、建物の中に戻った。
このまま帰るのはどうも納得いかないので、私はもう一つの思い出の場所を探すことにした。もしかしたらあの場所もなくなっているかもしれない。心の中でそんな不安を抱きながら、私は最後の思い出の場所を探した。階段を上がってすぐのところにあったはずなのだが、どこの階段だったか分からないのでなかなか見つからなかった。しかも、このデパートの階段はどれも見つけづらいところにあるため、階段を見つけることすらほとんどできなかった。結局、フロア案内を見ながらひとつひとつの階段を見てまわることにした。それから色々な階段を見てまわり、売り場は改装されて小綺麗になっているけれど、階段は昔と変わらず年季が入ったままであることに気がついた。久しぶりにきたこの場所は、私の記憶の中とは全くの別物になってしまったと思っていたが、意外なところに昔と変わらないものを見つけて少しだけ安心した。
その後もいくつかの階段を見てまわり、私はようやくその場所を見つけることができた。結論から言うと、やはりその場所も昔とは変わり果てていた。かつて、階段を上ってすぐの休憩スペース横に、小さなアイスクリーム屋さんがあった。売っているフレーバーが十種類にも満たない、本当に小さなアイスクリーム屋さんだったのだが、休みの日にはたくさんの家族で賑わっていた。私たちも、昔はたくさんの家族に混じって三人で仲良くアイスクリームを食べていた。数種類しかフレーバーがないのに、どれにしようかずっと悩んで、結局いつもミルクアイスを選んでいた。そのお店のミルクアイスは当時の私にとっては世界で一番おいしい食べ物だった。ミルクアイスを味わっているひと時は、デパートにいる間で私にとって最も幸せな時間だった。しかし、今目の前にはアイスクリーム屋さんがあったような形跡は全くない。私はベンチと自動販売機しかなくなった、ずいぶんと静かになってしまった休憩所で、一人ただ呆然とすることしかできなかった。
その後、私は私鉄の急行に乗って池袋をあとにした。車内にはデパートの袋を持った子連れの家族がいっぱいいる。どの家族も楽しそうな笑顔を浮かべている。そういえば、行きの電車もたくさんの家族が乗っていた。考えてみればこの私鉄の沿線には他に繁華街が少ないので、休日に池袋に遊びに来る家族が多いのだろう。
私たちも、かつてはそのうちの一家族だったのだ。そんなことを思いながら車内の様子を眺めていると、この中に昔の私たちが居るような気がしてくる。すでに両親の顔は失念したので車内にいたとしても分からないし、そもそも両親はそれぞれ別の人と再婚した後に東京から離れたようなので、こんなところに居るはずがない。しかし、座席に後ろ向きに座って景色を見る子供が、少し体を傾けて子供と一緒に車窓から景色を眺める父親が、座席に足を乗せて窓のほうを向くために靴を脱ごうとする子供を宥める母親が、昔の私たちに見えてしまう。
私は、雪の舞う東京駅のホームでのことを思い出した。家族が離れ離れになって寂しいと感じなかったわけではない。しかし、当然ながら幼い私には、両親が決定した事項に異論を唱えることは許されなかった。寂しいと思ったところで無意味だったので私はすぐに思考を閉ざした。それが一番良い方法だったと今でも思っているし、それ以外にどんな対応をすればいいか私にはわからなかった。
だが、いくら見て見ぬ振りをしようとしても上手くいかないことがあった。授業参観や学校行事に親が来てくれないことに寂しさを感じたこともあるし、突然深夜に理由のない不安感に苛まれて眠れなくなることもあった。寂しくて、悔しくて、でもどうにもできなくて、やるせない気持ちを抱えながら途方に暮れるしかないときもあった。
そんなとき私はどうしていたのだろうか。明瞭には思い出せないが、私は自分の中でものの考え方とか感じ方とかそのような類のものを無理矢理に変化させていたような気がする。それらを変化させることで自分の抱えている苦悩をも変化させようとしていたのだと思う。全てのものは意図せずとも変化している。きっとそうでもしないとそのものの存在を保つことができないのだろう。私の家族もそうだった。私の両親は家族を変化させなくては自分というものの存在を保てなかったのだろう。デパートもそうだった。消費者のニーズに合わせて売り場を変化させなくては、デパートの存在を保てないのだろう。しかし、思い出はいつまでも変わらないので、現実と思い出の間はどんどん差が開いてしまう。
ふと車窓から景色を眺めると、少し前まで都心にいたのが嘘のような、郊外の住宅地が広がっていた。急行列車の車窓の変化は早い。しかし、考えてみると世の中の大半のものも、急行列車の車窓と同じぐらいの早さで変化しているのかもしれない。思い出はいつまでも変化しないが、現実は日々刻々と変化していく。移り行く車窓によって、そんなことを強く実感させられた。