四:鯉の一跳ね
浜松に移り住んだ氏真は悠々自適な生活を送っていた。徳川家中には「仇敵の情けに縋って暮らして恥ずかしくないのか」と陰口を叩く者も居たが、氏真は想像以上に徳川家へ貢献していた。駿府で暮らしていた頃に京から下向してきた公家や文化人と交流があった氏真は、都の関係者との人脈に乏しい家康の仲立ちをしたり、そうした人物が浜松へ来た際には蹴鞠や和歌で饗応したりと大いに助けた。“金食い虫”と揶揄されながらも得意分野で支えている現状に、氏真は満足していた。
月日は流れ、天正三年〈一五七五年〉正月。新年の挨拶に浜松城へ伺候した氏真は、家康から「内々に会いたい」と小姓を通して申し入れてきた。小姓に案内されて通された書院には、やや固い面持ちをした家康が待っていた。
「治部大輔(氏真の官名)殿には御足労頂き、真に忝い」
家康は臣下に等しい身分の氏真に対して、常に敬語で話をする。近頃では“律義者”の評判が定着しつつあるが、実際その通りだと思う。永禄十一年に盟友・織田信長が上洛戦を興して以降、織田家の命運を賭けた戦いの多くに馳せ参じている。援軍を出しているのに見返りを求めないどころか、元亀元年の越前侵攻では盟約を結ぶ浅井家の叛逆で敵中に取り残された際も文句一つ言わなかった。他にも一度結んだ約束は家康の方から殆ど守っており、状況の変化で同盟を破棄する事が横行する戦国乱世では稀有な存在だった(例外は、一向一揆を首謀した三つの寺に『前の状態に戻す』と約束して和睦したが、後日破却し『(建てられる)前の状態』に戻している)。
今は徳川家の庇護の下で生活しているのだからそんなに配慮しなくてもいいのに……と氏真は思うが、性根はなかなか変えられないみたいだ。
「実は、上総介様より『治部大輔殿と会いたい』と申し入れがあった」
その言葉を耳にした瞬間、氏真の体内の血が一気に沸き立つ感覚に陥る。
家康の表情が強張っていたのも、人払いをして二人きりで話を切り出したのも、全てこの事が起因していたか。
織田“上総介”信長。言わずもがな、今川家を凋落させた張本人である。
父・義元を討ち取り今川勢を撃退した信長は、三河の松平家と同盟を結んで東から侵攻される脅威を取り除くと、美濃の奪取へ攻勢を掛ける。尾張国内の反信長勢力に手を焼いたり美濃・斎藤家に大敗を喫したりして結果がなかなか出なかったが、永禄八年〈一五六五年〉に尾張を再統一・永禄十年〈一五六七年〉には美濃を手中に収めるなど、徐々に軌道へ乗り始める。
そして、信長の名を一躍全国に広めるキッカケになったのは、永禄十一年〈一五六八年〉の上洛だ。
越前・朝倉家に寄寓していた足利義昭を七月二十五日に岐阜へ迎え入れると、立政寺で対面した信長は『自らが滞在する屋敷が欲しい』と要望した義昭にこう宣言したとされる。
『その必要はありません。一月後、都へお送り奉ります』
信長はその言葉通り、約一カ月後の九月七日に一万五千の兵を率いて岐阜から出陣。徳川家康・浅井長政からの援軍を加え総勢五万の大軍勢は南近江を席巻。露払いを済ませ道中の安全を確保した上で義昭を都へ奉じたのである。南近江には古豪・六角家、京を始めとする畿内の大部分は三好三人衆が掌握しており、決して簡単に倒せる相手ではない。それを鎧袖一触で一掃出来たのは、“公方候補・足利義昭を擁して幕府を再興する”という大義名分を掲げていたのもあるが時流に乗り空前規模の大軍勢を用意し長期間の出征に耐え得る兵站能力と資金力を有していた事が何よりも大きかった。
晴れて第十五代将軍となった足利義昭の後ろ盾を得た信長は、さらに飛躍を遂げる。山城・大和など畿内の主要な国を押さえただけでなく、武家勢力の支配を受けず商人達で構成される会合衆が取り仕切っていた堺を統治下に収め、さらに伊勢も掌握。一気に国内屈指の版図を誇る勢力に躍り出たのだ。
しかし……“将軍を頂点に全国の大名を統治する体制を目指したい”義昭と“天下布武(織田家による天下統一)”を標榜する信長との間で少しずつ不和が表面化し始めると、風向きが変わり始める。元亀元年〈一五七〇年、同年四月に改元〉四月下旬、越前へ攻め込んでいた織田勢の元に同盟を結んでいた浅井家の叛逆が伝えられて撤退に追い込まれたのを皮切りに、敵対勢力のみならず敵対していなかった勢力も敵方に転じるなど反信長包囲網が構築された。これには裏で義昭も糸を引いており、突出した力を持つ織田家を削ぎたい思惑が込められていた。
四方を敵に囲まれ苦境に立たされながらも、一つ一つ潰していく信長。元亀三年秋には最強の敵である武田家が参戦してきた際はどうなる事かと思ったが、信玄の死去でその脅威から解放された。そうとは知らず挙兵した義昭を元亀四年〈一五七三年〉七月に京から追放、足利幕府は終焉の時を迎えた。翌月に信長の奏上により元号が“天正”へ変わると、信長は天下人の階を昇っていく事となる。
氏真が御家も領地も家臣も全て失った原因は、信長が父を討ち取った事から始まる。盟約を破り駿河へ侵攻してきた信玄や武田家は憎き仇だが、信長や織田家も許せる存在ではなかった。
「如何致しますか? こちらから何か適当な理由を付けてお断りする事も出来ますが……」
家康がおずおずと訊ねてくる。氏真からすれば顔を合わせるどころか名前を聞くだけでも不快に思う仇敵から『会いたい』と言われて受けるとは普通思えない。しかしながら相手の信長は天下人にして同盟を結ぶ相手、突っ撥ねる訳にもいかない。その為、氏真の意向を尊重した上で返答したい思惑が透けて見えた。双方に気を遣わなければならず、板挟みになっている家康は大変だなと氏真は思う。
「分かりました。お受け致しましょう」
一拍の間を挟んで氏真が答えると、家康は信じられないものを見るように目を丸くしていた。まさか応じるとは思っていなかったみたいだ。
確かに、信長は父を討った仇である。だが、父が亡くなってから十五年の歳月が過ぎ、仇を討ちたい思いは氏真の中で風化していた。それを象徴するかのように、家康の知らない所で信長は氏真へ接触している。
天正元年、伊勢・大湊の商人から氏真へ相談が持ち掛けられた。大湊の商人に預けている今川家所有の名物『千鳥の香炉』を信長が譲って欲しいというのだ。信長は上洛してから茶の湯に傾倒するようになり、“名物”と呼ばれる茶器や道具を蒐集していた。村田珠光が発案した“侘び茶”が武家階級のみならず町民にも浸透し、茶の湯は大流行していた。守護大名の今川家は将軍家との繋がりから名物を幾つか保有しており、昨今の茶の湯文化の流行で譲渡を申し込んでくる者も少なからず存在した。
先に述べた『千鳥の香炉』は甲斐で武田勢が戦の支度を進めている兆候が見られた事から、戦禍による消失や略奪から避ける為に信頼する伊勢の商人に預けた。その後、今川家は滅亡。流転の身となった氏真に名物を手元に戻す程の余裕は無く、そのまま保管してもらっている状態だった。それを何処からか聞きつけた信長が商人に対し、接触してきた次第である。
伊勢は織田家の統治下にあり強権的に接収する事も出来たが、信長は相応の金額を支払うと伝えてきた。これに対し、氏真は信長の求めに応じる意思を伝えた。家宝ではあるが氏真自身にそこまで強い思い入れは無く、北条家の援助で暮らす身で手元にない名物を資金に替えられるならそれも已む無しと考えていた。手放す事に対しても、仇敵に売り渡す事に対しても、特別抵抗感は持たなかった。
仇敵の名が出て血が滾ったのも刹那のこと、すぐに鎮まった。信長の意図は分からないが、会いたいと言っているのなら応じてもいい。世話になっている家康の顔を立てる意味でも。
「……畏まりました。上総介様にはそう伝えておきます」
氏真の反応を暫く観察していた家康は、そう答えた。その面持ちは、どこかホッとしているようにも映った。
正月が明けてから浜松を発った氏真は、旅情や景色を満喫しながらゆるゆると進む。京に到着した後も神社や寺に参拝したり交誼のある公家と会ったりと悠々自適に過ごした。
そして――天正三年三月十六日、運命の時が訪れた。
対面の場となったのは、京・相国寺。天下人として多忙を極める信長は都に滞在する事が多く、面会を求める人が絶えなかった事から日程の調整が直前になるまで付かなかった。
手入れの行き届いた庭園を眺めながら当人の到着を待つ氏真。約束の刻限が目前に迫り、廊下からこちらへ近付いてくる足音が聞こえてきた。それに合わせて氏真は頭を下げる。
ドスドスと力強い足音を立てながら入室した当人は、上座にどっかと座る。
「面を上げよ」
やや高音な声に促され、氏真は顔を上げる。視線を上げた先に、瓜実顔の男性が座っていた。
これが、あの信長か。延暦寺焼き討ちを始めとした残虐な仕打ちの悪評から、血も涙もない冷酷な人物か悪逆非道の限りを尽くす怖い人物と想像していたが、思いの外普通な感じがする。
織田信長、天文三年〈一五三四年〉生まれで当年四十二。今年三十八歳の氏真の四つ上に当たる。端正な顔立ちや肌の白さから、年齢以上に若く見える。
御家を飛躍に導いた偉大な父を持ちながら、今では信長と氏真は天地の差が開いている。隔世の感を抱かずにいられなかった。
暫く氏真の顔をじっと見つめていた信長は、ポツリと漏らした。
「……お主、蹴鞠をするそうだな」
あまり感情の込もってない声で訊ねる信長。
「はい」
「お主の技を、見てみたい」
間を置かず畳み掛ける信長。余計な言葉は一切含まず端的に自分の言いたい事だけ言ってくるが、氏真はそれを不快に思わなかった。
「畏まりました」
「四日後、場所は此処でよかろう。時間は追って知らせる」
日時だけ告げると、信長はサッと立ち上がって退室して行った。何とも気忙しい人だな……と思ったが、天下人の身分なら致し方ないかと察した。皇室や公家達との折衝、各方面への指示や命令、国許の政など体が幾つあっても足りないくらいに忙しいのだ。
上洛するに当たり、蹴鞠の装束や道具は持参していた。蹴鞠の愛好家は公家が多く、和歌と並んで蹴鞠が交流の手段の一つになっているくらいだ。氏康も交流のある相手と久し振りに競技を楽しむ目的で携行していたが、まさか信長の目の前でやるとは夢にも思っていなかった。
しかし、信長はどうして自分の蹴鞠を見たいと思ったのか。氏真はその点だけ幾ら考えても答えが出なかった。
三月二十日。相国寺は前回と比べて多くの人が詰めかけていた。
蹴鞠は基本的に三人以上の複数人で行われる遊びなので、蹴鞠を嗜む公家達が信長の呼び掛けで用意されていた。他にも氏真の蹴鞠が見れると知った公家や町人、それに信長と随伴する家臣が興味半分で会場に居たりと、多くの観客が密集していた。
用意された部屋で支度をする氏真。その表情は、これから遊戯を楽しむ者とは思えないくらい、真剣そのものだった。
着衣や靴の確認を済ませ、氏真は会場へ向かう。他の三人の参加者も既に準備万端で、後は空席になっている床几に座る人の到着を待つ。
程なくして、小姓を伴った信長が姿を現した。全員が頭を下げる中で信長は用意されていた床几に腰を下ろす。
「では、始めさせて頂きます」
氏真の言葉に、信長は無言で頷く。了承と捉えた氏真は鞠を持つ者に目配せを送る。
それを合図に、鞠を持っていた者が蹴り上げる。それを他の競技者が掛け声を発しながら別の競技者へ送る。
蹴鞠は鞠を蹴る高さの目安となる木を四隅に植えた三間の敷地内で行われる。通常は六人か八人で行うのが一般的だが、今回は四人と人数が抑えられている。上座は師範で以下身分の順で位置が決まるが、位などで順番が前後する場合がある。最初の内は準備運動を兼ねた“序の鞠”を行い、体が温まった頃合を図り各々が好きなように蹴る“破の鞠”へ移行し、後半になると競技者が輪を小さくし回数をどこまで伸ばせるか追及する“急の鞠”となる。これが蹴鞠の基本的な流れだ。
皆、蹴鞠を愛好しているだけあって、回数はどんどん重ねていく。優雅な所作で鞠を追いかけ、他の人へ送る所作は見ていて美しささえ感じられる。
四人のやりとりに観客が魅入られる中、突如声が上がった。
「待て」
声を発したのは、信長。氏真の方に顔を向けると、欠伸を噛み殺したような顔をして話す。
「お主だけでなく他の者も名足なのは分かった。だが、ちと退屈だ」
その一言で信長がある程度蹴鞠の知識を持っている事が分かる。ちょっと見ただけで名足か非足か判別する事は難しい。この当時、蹴鞠は武家の嗜みとして各地方へ波及しつつあり、信長も茶の湯や相撲を好んだが蹴鞠も最低限経験したとされる。
確かに、信長の指摘も一理ある。信長が好んだ相撲は一瞬か僅かな時間の間に勝敗が決するが、蹴鞠は鞠が地面に付くまで延々と続く。ただ鞠を落とさないよう蹴るだけの光景は、慣れてない人には変化に乏しいと受け止められても仕方ない。
「そこで、興を変えようと思う」
唐突な信長の提案に、氏真は顔を強張らせる。顎に手を当てた信長は氏真に問い掛けた。
「お主、どれくらい鞠を落とさずにいられる?」
話の流れが分からず困惑する氏真。しかし、訊ねられた以上は正直に答えなければならない。
「さて、数えた事はありませんが――」
「百回だ」
氏真が答え終わる前に、被せるように具体的な数字を告げる信長。周囲がざわつく中、信長はさらに言葉を継ぐ。
「百回落とさなかったら、お主が望むものを一つ呉れてやる。但し、出来なければ――素っ首、貰い受ける」
その内容に、今度は居合わせた全員が息を呑んだ。突然の趣向変更を提案したかと思えば、設定した回数に満たなければ首を刎ねると信長は言う。あまりにも惨い条件を突き付けられた氏真の反応は如何に。
「畏まりました。受けて立ちましょう」
挑発的な言動に対し、氏真は落ち着いた口調で応じる。事実上の天下人である信長の命令を、落魄した身の氏真に断れる筈がない。拒否すればその場で斬り捨てられても文句は言えないくらい、立場が弱かった。
着衣の乱れや冠を直しながら、氏真は精神を集中させる。信長の意図は分からないが、売られた喧嘩は買う。闘志で気が昂るのを必死に抑え、平生を保とうとしていた。
そして――手に持った鞠を離し、蹴り上げる。氏真の命と名誉を懸けた戦いが、始まった。
一回、二回……氏真はその場から動かず真上に蹴り上げ落ちてきた鞠を再び真上へ蹴る事を繰り返し、順調に回数を重ねていく。
十回までは最初の位置から一切動かなかったが、二十回を過ぎた辺りから僅かながら足の位置が動き始める。
蹴鞠を続ける場合、自分の背丈の倍くらいの高さで真っ直ぐ上に上げるのが理想だ。これは靴の当て方と力加減、軸足と均衡を保つ点が揃ればそんなに難しくないが、そのコツを体に覚え込ませるまでに相当な練習が必要となる。真上に上げれば風を受けない限りは自重で真下に落ちてくるので直前と同じ動作をすれば再び真上へ蹴り上げられるが、風の抵抗を受けたり靴の当たる面がズレたりした場合は鞠に角度が付く為、落下地点まで移動した上で地面と平行に蹴る必要が出て来る。
五十回。氏真の腕や額に汗がじんわり滲む。それでも動きは依然軽快で、優雅さも保っている。
六十回。五十回を過ぎた辺りからこれまでの右足だけでなく左足で蹴る事も出てきた。普段使わない逆足でも遜色なく蹴り返せるのは名足たる所以か。
七十回。鞠を上げる高さにバラつきが現れ始めている。息も荒くなり、珠のような汗が浮かんでいる。
八十回。軸足だけでなく体のあちこちから悲鳴が上がる。氏真も明らかに苦しそうだ。
真っ直ぐ上へ蹴り上げる確率が大分減ってきた。前や横へ飛んだ鞠を追いかける瞬発力と一定の箇所に一定の力加減で当てる精密性を求められ続け、下半身を中心に酷使し続けてきた体は明らかに張りや痛みが生じていた。
技術と共に優雅さも求められる蹴鞠とはかけ離れた競技となっていたが、固唾を呑んで見守る観衆は氏真の一挙手一投足に釘付けとなっていた。
視線を向けられる氏真は、周囲のことなど構っている余裕なんか一切なかった。ずっと鞠から目を離さず、行方を瞬時に判断して動く事と足の蹴る角度に気を付ける事で手一杯だった。回数は五十を超えた辺りから覚えてない、数える事にさえ意識を割く事が惜しかった。
自分はどうして醜態を晒してまで鞠を追いかけているのだろうか。痛みや苦しみに耐え、仇敵の前でおもちゃのように扱われ、自分はどうしてこんな事をしているのだろうか。それでも、鞠を蹴る事を止めない。動きを止めれば、鞠を落としてしまったら、自分は取返しのつかない負けを認める事になる。それだけは嫌だった。家を潰し、暗君と後ろ指を指され、仇同然の相手から情けを受けながら生き永らえるよりも、この勝負にだけは負けたくなかった。
足が、上がらない。力加減が分からない。動き出しが一瞬遅れる。それでも足掻くように根性で鞠を追いかけ続ける。体はとうに限界を超えている。今、一体幾つなんだ。氏真が考えるのを止めた、その時――。
「そこまで!」
会場に、信長の声が響く。呆然と立ち尽くす氏真、地面に落ちる鞠。床几に座っていた信長は拍手しながら立ち上がる。
「見事だ。魂の込められた美技の数々、感服した」
最大限の称賛を送られる氏真。その言葉から、自分が百回達成したのだと初めて理解した。極度の疲労と激しい呼吸、全身の痛みで意識半分といった感じだが。
直後、氏真の挑戦を見守っていた観衆から万雷の拍手が沸き上がった。前代未聞の挑戦を見事に成し遂げた氏真に、惜しみない賛辞が向けられる。
「約束だ。何を望む?」
棒になっていた足を折るように座った氏真へ、信長から声が掛けられる。そうだ、この勝負に勝ったら何か貰えるのだった。何を貰うか全く考えてなかった氏真は暫く考え込んだ後、息を整えてから整然と答えた。
「宗祇香炉を、頂きたく存じます」
氏真の回答に、観衆はキョトンとした。
宗祇香炉は今川家が所有していた香炉で、名物として有名な『千鳥の香炉』と比べれば知名度で劣るものの茶人界隈では知る人ぞ知る道具だった。こちらも天正元年に信長へ譲り渡している。
無茶ブリで命を懸けた勝負をさせられたのだから「駿河を貰い受けたい」と要求しても文句は言われなかったのだが……これは氏真自身の名誉を懸けた戦いであり、この勝負に勝ったからと言って失った国を返してもらうのは筋が違うと思っていた。弓矢で以て取り返すのが武家の習い、氏真もそこまで落ちぶれていなかった。
氏真の回答に、信長はややつまらなさそうにフンと鼻を鳴らすと、何も言わず会場を後にした。その心中はどうだったか、それは誰にも分からない……。
諺に“鯉の一跳ね”というものがある。捕まえられた鯉は逃れる為に必死に抵抗の姿勢を一回見せるも、その後は大人しくなるとされる。この事から『潔い、すぐに現実を受け入れて諦める』という意味だ。
鯉から龍になった成功者へ、龍になれなかった鯉が最後の意地を見せた。そう捉えられるのは私だけだろうか。