二:虎に睨まれた鯉
永禄九年四月末、夜。駿府の今川館の中庭に、氏真の姿はあった。水干の上衣に指貫袴、それに先端が丸まっている独特な靴を履いている。そして、一心不乱に楕円形で中央が括れた球体を真上に蹴り上げている。
政務から解き放たれた氏真が熱中していたのは、蹴鞠。複数人で回数を重ねる団体戦と地面に落とした者が負けな個人戦があるが、何れにせよ如何に鞠を落とさないかが勝敗を左右する。一見簡単に思えるかも知れないが独特な形をしている鞠は靴の先端や内側で正確に当てないと明後日の方向へ飛んで行ってしまう。特に団体戦では他の人が受け入れ態勢が整うまで鞠を何回も蹴り上げていなければならず、精度を保つ為には持久力と集中力と技術が求められた。
氏真がこんな時間に蹴鞠の練習をしていたのは訓練を怠れば感覚が鈍り技術が落ちるのもあるが、何かに熱中して気を紛らわしたい思いが強かった。
(何奴も此奴も煩わしい事ばかり……)
思い出しただけでも腹が立ったのか、眉根を寄せる氏真。
去る二十一日、氏真は曳馬城を預かる江馬時成に宛てて知行安堵状を送った。これにより永禄六年から続いた“遠州忩劇”と呼ばれる国人衆による騒乱は終結を迎えた。
この造反は長年に渡り堆積されてきた今川家による統治の不満が根底にあるが、それを誘発したのは間違いなく隣国・三河の松平家による独立だろう。いや、今は姓を“徳川”と変えているか。完全に独立した証を示すかのようで実に腹立たしい。その徳川が今回の一件で裏から糸を引いているのは間違いない。織田家と同盟を結んだので西へ勢力を伸ばす道は絶たれ、北へ進もうにも奥三河から先は山地が続くので効率が悪い、残るは東だが代替わりで付け入る隙もある。燻る不満を煽り自らの元へ引き込もうという算段なのだろう。
今回の一件で遠江国内の不満分子を一掃し今川家の統治をより強固なものにしたと好意的に受け止められる。そう考えれば決して無駄だったとは言えない。しかしながら、決して楽観的に捉えられない事情があった。
(元康ならまだ分かる。それより気になるのは、やはりあの入道よ)
敵となった家康よりも癪に障るのは、本来味方である筈の相手が介入した痕跡がある事だ。
その人物とは――同盟を結ぶ甲斐国・武田家の当主であり、氏真の妹の舅でもある武田“徳栄軒”信玄。通称“甲斐の虎”。父の義元と同じく、名門守護大名から戦国大名へ変貌を遂げた傑物である。
武田信玄。大永元年〈一五二一年〉生まれで現在四十六歳。
武田家は河内源氏の流れを汲む名門で、安芸や若狭に分家を持つ宗家である。栄枯盛衰を繰り返し、先代の信虎の頃には甲斐国の再統一を果たし信濃や駿河・相模へ攻め込むなど積極的な外征で力を伸ばしていた。しかし、元々豊かでない国で度重なる外征費用捻出の為に重税が課され、信虎の強権的な家中運営に領民や家臣達の間に不満が蓄積。信虎に代わる新たな主君に担ぎ出されたのが、若き日の晴信(信玄の出家前の名)だった。
天文十年〈一五六一年〉六月、義元に嫁いだ娘へ会いに行き甲斐へ帰って来た信虎を、国境を封鎖。已む無く信虎は駿河へ戻って行った。この件には義元も一枚噛んでおり、行き場のない信虎は今川家が引き取った。こうして、平和的な追放劇で政変を実現させた晴信が武田家の当主に就いた。
晴信も信虎の領土拡大方針を継承。中小勢力が割拠する信濃を精悍な将兵を率いて少しずつ版図を拡げていった。天文二十二年〈一五五三年〉までに中信濃までほぼ掌握し信濃全土も現実味を帯びてきた中、晴信の前に難敵が立ちはだかる。――“越後の龍”こと、長尾“弾正少弼”景虎(後の上杉“不識庵”謙信)である。
信濃国内で勢力圏を北上し続ける武田家を脅威と捉えていた景虎は、信濃の国人衆からの要請を受けて秘かに支援。しかし、進軍を食い止めるに至らず景虎自ら出陣する事を決断した。同年八月には川中島の地で両雄が相対すも、衝突は起きずお互いに兵を退いた。
こうした状況の中、水面下である計画が進行していた。甲斐・武田、相模・北条、駿河・今川の三者による同盟だ。
前述したように信濃から越後へ勢力を伸ばしたい信玄、関東制覇の実現へ邁進したい氏康、悲願の上洛へ向け三河掌握に注力したい義元。この三者の思惑は奇しくも重複しておらず、叶うならば敵に回したくないのが偽らざる本音だった。そして、力関係もほぼ互角で均衡が取れていた事も好材料だった。三者の利害が一致していた事を受け、信玄の軍師・山本“勘助”晴幸、義元の懐刀・太原雪斎、氏康を政治と外交の面で支えた大藤(“だいとう”とも)栄永(天文二十一年〈一五五二年〉に死去)の三名が細部に至るまで条件を擦り合わせ、同盟締結に至った。
条件は二つ。第一に、お互いの不可侵と誰か一方に外敵が侵攻してきた場合に援軍を出す事。第二に、同盟を結んだ証として武田家が北条家へ、北条家が今川家へ、今川家が武田家へ、それぞれ跡継ぎとなる嫡男へ正室を嫁がせる事。この時点で既に武田家から北条家・今川家から武田家へそれぞれ輿入れが実現されており、残すは北条家から今川家への履行を残すのみとなっている。
尚、同盟を結ぶに際し“三名が駿河・善徳寺(若しくは興国寺)で顔を揃えて会談した”という逸話があるが、それを裏付ける史料は現在のところ発見されてない。
後顧の憂いを絶った信玄(永禄二年〈一五五九年〉に出家)は信濃全土掌握を目標に何度も出兵、永禄七年までに上杉輝虎(永禄四年〈一五六一年〉閏三月に“上杉”姓へ、同年十二月に“輝虎”へ改名)との間で前回と合わせて計五度に渡り川中島を舞台に対峙した。
その信玄。上杉輝虎との死闘もあり信濃全土の掌握は断念せざるを得なかったが、別の方面への勢力拡大を目論んだ。信濃の西・飛騨へ介入したり、上杉勢の関東侵攻で敵の手に落ちていた西上野へ侵攻したりと、着実に版図を拡げていた。その矛先は、南へも向けられていた。
永禄六年に起きた遠州忩劇の折、反旗を翻した一部の遠江国人に武田家から内々に支援を匂わす密書が送られた、とされる。物証は押さえておらず武田家へ抗議の申し入れこそ出来ないが、明らかな背信行為だった。氏真が何より口惜しく思っているのは、父存命時は今川家の勢力圏を掻き乱す事は一切無かった信玄が、代替わりした途端に手を伸ばしてきた事である。表では手を取り合っていても裏では激しい鍔迫り合いを交わす戦国乱世にあって盟約など利害が一致している時しか効果は保たれないと理解しているけれど、あまりに露骨過ぎる。氏真はこの頃から信玄に不快感を抱くようになった。
信玄の今川軽視の姿勢はさらに強めていく。永禄八年〈一五六五年〉十月、跡継ぎで嫡男・義信の傅役を務めていた飯富虎昌や義信に近い家臣が『謀叛の計画を進めていた』として捕縛、処刑若しくは自刃させられた。信玄はこの件に義信も関わっていると判断、嫡男の座を剥奪した上で甲府・東光寺へ幽閉した。武田家内部では『義元亡き後に隙の見える今川領へ手を伸ばしたい』信玄と『盟約に則り友好的関係を維持したい』義信の間で亀裂が生じており、外交方針を巡り対立が深まっていたとする見方もある。何れにせよ、今川家に好意的な姿勢を貫いていた義信の廃嫡は、氏真にとって先行きを暗くする材料に変わりなかった。
(あの飢えた獣のような入道にとって、駿遠はさぞかし美味そうに映っているに違いない。然れど、絶対に渡さない。渡してなるものか)
自分が舐められていると思うと怒りが込み上げてくる。無意識の内に力が入ってしまい、僅かに捉え損ねた鞠は真上ではなく斜め前へ飛んで行く。放物線を描いた鞠を、氏真は追いかけようとはしなかった。当主としても、蹴鞠の技術にしても、まだまだ自分は未熟だ。しかし、鞠を蹴る回数を重ねていけば技術は上達していく。自分はまだまだ発展途上、老獪で狡猾な相手かも知れないが、絶対に守ってみせる。
強い決意を胸に誓い、地面に転がった鞠を拾いに踏み出す。その足取りは見た目以上に荒々しかった。
武田家と今川家の関係は表面上穏やかに見えたものの、水面下では日を追う毎に冷却していった。両家はお互いに家臣を通じて『疑う事や疑わしい事はしませんように』と申し入れているが、それも相手への牽制にしかならなかった。。
そして――永禄十年〈一五六七年〉六月、氏真は遂に決定的な行動に打って出る。北条家へ内々に協力を仰いだ上で、甲斐国へ食塩や海産物の搬入禁止措置を執ったのだ!! 武田家は領有する国全てが内陸部にあり、海に面していないが故に塩は他国からの輸入に依存していた。塩は生活に欠かせない必需品、無いからといって摂取しなければ健康を害する恐れがある。当然ながら戦に出る際も携行するので、このままでは戦も出来ない。唯一の泣き所を攻められ、流石の信玄も頭を抱えた程だった。
しかし、思わぬ方面から救いの手が差し伸べられる。越後から国境を越えて塩商人が入ってきたのだ。これにより塩を入手する方法が確保され、一先ずは危地から脱する事が出来た。この逸話から『敵に塩を送る』の諺が生まれたとされるが、それを裏付ける根拠となる史料は現在まで発見されておらず、後世の創作の可能性が高いとされる。
思わぬ救世主の登場で武田家を締め上げる事に失敗した氏真。この一事をキッカケに、義信廃嫡に端を発した関係悪化は、いよいよ修復不可能なところまで来ていた。
永禄十年十月、東光寺に幽閉されていた義信が病死。享年三十。義信の正室で氏真の妹・嶺松院を返還するよう氏真は信玄へ申し入れたが、「両家友好の証だから」と難色を示した。この期に及んで何を言うか……と氏真は思ったが、翌十一月には信玄側も受け入れて嶺松院を駿河へ送り出した。これにより今川・武田家の間を繋ぐ証は失われた事になる。
氏真も悪化していく状況を座視していた訳ではない。迫り来る脅威に備え、出来る限りの事はしようと動いていた。盟約を結ぶ北条家との関係強化を図るのと平行し、強力な勢力に接触を試みていた。――越後の上杉輝虎である。輝虎は関東管領・上杉憲政の宿敵である北条家と相容れない敵対関係にあったが、「武田家に対抗出来る相手は輝虎しか居ない!」として氏真が恩讐を越えて同盟を結ぼうと接触したのだ。この交渉過程に措いて氏真は三国同盟で締結された機密を上杉方に漏らしてしまい、武田家のみならず北条家からも信頼を失う事となる。輝虎も助けを求めてきた氏真の気持ちに応えたかったものの、両家を隔てる距離はあまりにも遠く、交渉は遅々として進まなかった。
結果が見えないまま月日だけが過ぎていき――永禄十一年〈一五六八年〉十二月六日、信玄は一万を超える軍勢を率いて駿河国を越境。今川領へ侵攻してきたのだ!!
(遂に、この日が来たか)
一報を聞いた氏真に、驚きは一切無かった。甲斐国内で戦の機運が高まっている兆候は事前に掴んでおり、その矛先もこちらに向けられると覚悟はしていた。そして、侵攻を想定した準備も内々に進めてきた。
「北条へ直ちに援軍の要請を。それと、薩埵峠で敵勢を迎え撃つ」
氏真は冷静沈着に命じる。
甲斐方面から今川家の本拠である駿府へ攻め入るには薩埵峠を通る経路しか存在しない上に、山が海にせり出す地形である為に東海道の三大難所に数えられる程の隘路だった。神懸かり的な采配を振るう信玄と言えど、大軍を展開出来ない地形では対処するのは難しい。薩埵峠で時間を稼ぎ、救援に駆け付けた北条勢と挟み撃ちにする。それが氏真が考える武田家に勝つ最善の方策だと確信していた。
事前の想定通り、武田勢は南下した後に進路を東へ転換。十二日には薩埵峠へ差し掛かった。ここに今川勢一万五千が待ち構え、攻防戦が開始。氏真も後詰で清見寺に陣を構えた。
しかし――ここで氏真に思いがけない報せが飛び込んでくる。
「……寝返り、だと?」
戦いが始まって暫くし、一部の将が手勢を率いて戦線から離脱。そのまま武田方の陣へ入っていったというのだ! 薩埵峠の今川勢は大混乱に陥り、防衛線を易々と突破されてしまった。薩埵峠を越えられては駿府まで遮るものは何も無く、氏真も兵を退かざるを得なかった。駿府へ逃れるも武田勢が迫っていた事から取る物も取り敢えず西へさらに逃げるしかなかった。この時、氏真の妻・早川殿は輿ではなく徒歩で移動したとされ、如何に事態が切迫していたかが窺い知れるかと思う。
行き場を失った氏真は腹心が守る掛川城を目指したが、こちらにも敵の手が迫っていた。時を同じくして、三河の徳川家が遠江へ侵攻を開始。遠江方面でも事前に調略の手が伸びていたのか国人衆が次々と降伏し、今川方の城も成す術なく落とされていた。
氏真が上杉家へ接触したのと同じように、信玄もまた内々に準備を進めていた。徳川家との間で今川領を山分けしないかと持ち掛け、家康もこれを了承したのだ。それと平行して今川家内部へ調略を仕掛け、一定数の家臣達から内応の受諾を得ていたのだ。武田家と今川家の戦いは、駿河へ侵攻する前から既に決まっていたも同然だった。
掛川城へ落ち延びた氏真は朝比奈泰朝に迎え入れられ、徳川勢と対峙した。しかし、今川領は既に大部分が武田・徳川の手に落ち、助けが望めない孤立無援の状態にあった。半年以上の籠城戦の末、勝ち目は無いと判断した氏真は永禄十二年〈一五六九年〉五月十七日に将兵の助命を条件に徳川方に降伏した。これにより、今川家は全領土を喪失。
名門・今川家は滅亡の時を迎えた。
城を明け渡した氏真は、妻の実家である北条家の領地である伊豆へ船で送られる事となった。
東へ向かう途上、氏真は館から何とか持ち出した鞠を手に大海原を見つめていた。
(終わった……何もかも……)
一応、開城する折に『武田勢を駿河から追い払ったら、駿河国を氏真へ返還する』約束を氏真・家康に氏康を加えた三名の間で取り交わしている。しかし、それが履行されるとは思わない。命懸けで奪った土地を何の苦労もしていない他人に譲るなんて話、聞いた事がない。
自分は結局、父のようになれなかった。父のようになれなくても、今川家を守る事は出来ると思っていた。けれど、それも叶わなかった。脈々と受け継いできた土地を全て失い、父を始めとする先祖に顔向け出来ない。
今更こんな鞠を持っていたところで、何になるのか。腹を満たせる訳でもないし、金に換える事も出来ない。荷物になるくらいならいっそ捨ててしまおうか。そういう考えが一瞬過る。
海へ抛ろうとした寸前――氏真の動きが止まる。
(……いや、終わってない。終わってないではないか)
直後、捨てようとしていた鞠を大事そうに抱え込む氏真。
命ある限り、挽回の余地はある。約束は履行されないかも知れないが、己が手で故郷を取り返せばいいだけの話。北条家で武功を挙げ、旧臣に参集を募り、今川家を再興する。その為にはまず命を繋ぐ事こそ重要だ。
叶うかどうか分からない大望の為に生きていくのは大変だし、苦しい筈だ。それを耐える為には何が必要か。……誇りである。名門・今川の血筋、磨いてきた技術、これまでの生涯で得てきた知識。何物にも替え難い志こそ、艱難辛苦を乗り越える生き甲斐や支えになる。
たった一度の失敗に、負けてたまるか。氏真は決意を燃やし、東の方角へ強い視線を送り続けるのだった。