一:早瀬に放り込まれた鯉
永禄四年〈西暦一五六一年、以下西暦省略〉四月、ささくれ立っていた氏真の元に、その憤懣が頂点に達する報せが飛び込んできた。
「松平が牛久保を攻めた、と?」
駿府・今川館の御殿で報告を受けた氏真は苛立ちを隠す事なく問い返す。
今川“治部大輔”氏真、天文七年〈一五三八年〉生まれで当年二十四。今川家十二代当主で、駿河・遠江・三河の三ヶ国を勢力圏に収める太守である。三年前の永禄元年〈一五五八年〉に父・義元から家督を譲り受け、本来ならば将来の権限移行へ向け肩慣らしの段階にある筈だった。
全てが狂ったのは、去年に起きた忌々しい出来事だ。
永禄三年〈一五六〇年〉五月十九日。今川義元、討死。
そもそも、父の義元は“英邁”と呼ぶに相応しい才覚人だった。今川家内部の権力争いや守護大名の地位低下などで弱体化していた今川家の立て直しに成功し、甲斐の武田晴信・相模の北条氏康と三方で縁組を交わす“甲相駿三国同盟”を締結させて北と東から攻められる懸念を取り除き、弱体化の一途を辿っていた三河国の松平家を事実上傘下に収めるなど、功績は数え切れない。落ち目の守護大名から時代の潮流に乗る戦国大名へ変貌を遂げたのは、義元の才覚に因る所が大きかった。
そんな義元には、大望があった。――上洛である。
応仁の乱以降、幕府と守護大名による統治は形骸化し、将軍家の威厳も地に堕ちた。それでも武士の頂に立つ“征夷大将軍”の看板と血筋は替え難く、現に畿内では将軍家や幕府内部の地位を巡る争いが頻発していた。有名無実の将軍家を再興する大義を掲げて京に上り、帝や将軍家の後ろ盾を得て天下にその名を轟かせんと義元は考えていた。
途方もない野望を抱いている義元にとって追い風だったのは、頭角を現しつつある隣国の武田晴信・北条氏康と(義元を含めた三者共に肚の内では味方と思っていないが)三者の利害が一致したところを起点とする不可侵関係を結んだ事も大きかったが、東海道筋の国々で義元の進軍を阻む程の勢力が存在しなかった事が挙げられる。一番の対抗馬と目されるのは尾張守護代の家臣筋の家柄から尾張統一を果たし美濃や西三河にまで版図を拡げた“尾張の虎”こと織田信秀だが、その信秀は天文二十一年〈一五五二年〉に急死。跡を継いだ信長は周辺各国に“うつけ”の悪名で知られ、家督継承後は家臣のみならず身内からも離反者が相次いでおり、尾張国どころか織田家存亡の危機に瀕していた。その先に控える美濃にも“美濃の蝮”の異名を持つ斎藤道三という傑出した雄が居たが、弘治二年四月に子の義龍に討たれている。その義龍は斎藤家をまだ鎮められておらず、道三と比べて器の面で劣る。さらにその先にある近江は北近江を治める京極家・南近江を治める六角家の双方共に内紛などで衰退しており、三ヶ国を領有する今川家の敵ではない。
今川家は駿遠三の三ヶ国で約七十万石、当時の戦国大名で十指に入る規模を誇る。加えて、駿府を始めとする東海道筋の宿場町から上がる運上金など年貢以外の収入もあり、実入りは石高の数字以上に豊かだった。当時の換算で一万石につき二百~二百五十名の兵力があるとされ、それに当て嵌めれば今川家が動員出来る兵数は一万四千~一万七千五百。一見すれば少なく感じるかも知れないが、この当時一万を超える軍勢を抱える大名家はとても珍しかった。さらに臨時雇いの兵を合わせれば二万、いや三万を超えるだけの余力を有していた。これだけの大軍勢を集められる上に、将兵達の食糧や牛馬の飼葉など兵站面でも長期間の出征にも耐えうる程の資金力も兼ね備え、正しく“天下に号令する”大望へ挑む資格を有する圧倒的強者だった。
将来的な上洛を前提に、義元は尾張へ手を伸ばしていた。好敵手・信秀亡き後の織田家へ調略を仕掛け、尾張国内に橋頭保を築く。そして――永禄三年五月、尾張奪取を掲げた義元は満を持して出陣。公称四万、総勢二万五千(諸説あり)の大軍勢で尾張に侵攻した!
敵の包囲で兵糧不足に陥っていた大高城へ先鋒を務める朝比奈泰朝・松平元康が砦を攻略し兵糧を運び入れるなど戦況は序盤から今川勢優位に進み、織田家は成す術なく戦国乱世の荒波に消える……誰もがそう思っていた。
しかし――桶狭間(田楽狭間とも)で休止していた今川本隊を、織田信長率いる手勢が急襲! 直前に雹混じりの暴風雨に遭い兵が雨宿りの為に分散していた不運もあり、義元の周りは兵が手薄だった。その僅かな間隙を突かれ、義元は討死。総大将を討たれた今川勢は算を乱して撤退に追い込まれた。後に“桶狭間の戦い”と呼ばれる尾張侵攻戦は、損害こそ少なかったものの総大将義元を筆頭に松井宗信・井伊直盛・由比正信など譜代・外様の有力武将を多く喪う歴史的大敗北という結果に終わった。
その凶報を受けた時の氏真の心境は、悪い夢以外の何物でもなかった。今川家の家督は譲られたが実権は父が握っており、氏真もその状態が暫く続くだろうなと思っていた。絶対的君主が絶頂期に家督を譲る例は決して珍しい事ではなく、毛利家では元就が五十歳の時に嫡男・隆元へ家督を譲っており、織田家でも後年信長が四十二歳で嫡男・信忠へ家督を譲っている。まだ力のある内に隠居する事で、別の一大事業へ注力する狙いが込められていた。氏真も長期的視点に基づいて、着実に今川家を継承していく腹積もりだった。ところが……青天の霹靂とも呼べる義元の敗死で、根底から覆されてしまった。
氏真が真っ先に取り掛かったのは、動揺の隠せない今川家中の引き締めである。氏真の名で知行宛行状を発布し、今川家への忠誠を家臣や国人達に誓わせた。迅速な行動の結果、駿河や遠江・東三河の家臣や国人達は今川家へ変わらず臣従する姿勢を見せ、影響を最小限に食い止められた。偉大な絶対的君主の喪失を機に家中が分裂や離反する例も少なくない事を鑑みれば、氏真は凡愚ではないと分かるかと思う。
大混乱の中で今川家当主の座に就いた氏真は無我夢中で駆け抜け、空中分解の危機から脱した。しかし……ホッと一息つける頃になると、新たな頭痛の種が出てきた。未来の今川家を支える若手有望株にして三河の有力国人・松平元康の動向が怪しいのだ。
松平“蔵人佐”元康、天文十一年〈一五四三年〉生まれの十九歳。斜陽の道を突き進んでいた松平家に生を享けた元康は今川家の援助を受けるべく六歳の時に駿府へ人質に出されたが、家臣の裏切りに遭い尾張の織田家へ攫われた。二年後に人質交換で松平家へ返還されるも、約定通りに今川家への人質として駿府へ送られた。三歳で家の都合で母と離れ離れになるなど、九歳にしてなかなかの苦労人である。
人質の身ながら、その器量を高く評価した義元は懐刀である太原雪斎を学問の師に付けるなど厚遇。弘治三年には義元の姪・瀬名を元康の正室に娶らせ、一門衆に準ずる扱いを受けた。
(これ程までに恩を掛けてやったのに、この仕打ちか)
憎々し気に脇息を叩く氏真。
氏真の中の元康は、常に周囲へ気を遣いオドオドしている印象が強かった。事実上の人質である事に加え、気品高い主君筋の勝気な姫を娶った事でいつも何かに怯えている風に見えた。自信が無さそうに義元や今川家の家臣達の顔色を窺い、機嫌を損ねまいと必死な元康を、氏真は正直見下していた。
その元康――先述した通り、尾張侵攻戦では先鋒として活躍。大高城への兵糧搬入の役目を果たして休息している間に義元討死の報を受けた。元康は松平勢を率いて三河まで退くと、城代が逃げ去った岡崎城に入っている。
岡崎城は元々松平家の居城、それを接収するのは氏真も別に咎める気はない。寧ろ、家中の動揺を抑えるのに全力を注ぎたい氏真からすれば、西から迫る織田家への防波堤の役割を元康に期待した。その元康も駿府の氏真に対し「主君の弔い合戦を!」と頻りに呼び掛けており、特段怪しい動きなど見せなかった。
ところが……暫く月日が経過すると元康は弔い合戦について言及しなくなった。その前後から三河国内の国人に対して松平家の旗下に加わるよう働きかけるようになり、今川家中の中では「独立に向けた動きでは?」と怪しむ声が出始めた。氏真も当初は破格の扱いを受けてきた元康が離反する筈がないと取り合わなかったが、こちらから駿府へ来るよう求めても理由をあれこれ付けて拒む事が何度か重なり、次第に疑うようになった。
疑念を抱き心中穏やかでない氏真の元へ、信じがたい情報が持ち込まれた。元康の腹臣で松平家の外交を司る石川数正が尾張へ内々に足を運んでいるという。尾張と言えば、仇敵・織田信長が居る地。弔い合戦を求める裏でその敵と通ずるとは何事か。五歳下で弟のように思っていた元康の背信行為に、氏真の心はチリチリと痛んだ。
元康の対処をどうすべきか家中で検討を重ねていた最中に舞い込んだ、今川家臣が守る牛久保城への攻撃。元康もこの城が今川家のものと分かっていての行動だろう。それ即ち、今川家支配からの独立を宣言するに等しかった。
「もう許せん! 松平追討の兵を直ちに用意せよ!」
怒髪天を衝く勢いで命じる氏真。
幸いな事に牛久保城への奇襲は失敗に終わったものの、このまま元康の振る舞いを許してしまっては隣国の遠江に影響が及ぶ可能性がある。今川家の支配は確立されつつあるが、一部の国衆の中には今川家に不満を抱いている者が居るとも聞く。代替わりしたから付け入る隙があると思われてはいけないのだ。
斯くして、今川家当主・氏真にとって最初の戦いとなる松平討伐戦が幕を開けた。名門今川の矜持を賭けた戦いに臨む心境は、まるで龍になる事を夢見て川を遡上する鯉のようであった。
西三河と奥三河の一部を治める程度の版図だった松平家討伐は、氏真が思い描いていた通りに進まなかった。
三河国には松平家の支配を快く思わない国人勢力も一定数存在していたが、それ等の勢力が今川方に与しなかったのが一つ目の誤算。二つ目の誤算は、東三河で松平家の切り崩しに応じる構えを見せた国人衆に対し三河国を任せていた今川家家臣が厳しい対応を見せた事で、逆に離反を促してしまった事。そうこうしている間に元康は永禄五年〈一五六二年〉に織田信長と同盟を結び、東へ注力する環境が整ってしまった。翌永禄六年〈一五六三年〉に元康は“家康”と改名、義元から偏諱を受けた“元”の字を捨て、今川家との訣別を内外に示した。
それでも永禄七年〈一五六四年〉家康の失政を発端に三河国内で一向一揆が勃発、反松平勢力や浄土真宗を信仰する松平家家臣が一揆側に加わるなど家康は一時窮地に立たされるも、これを凌ぎ切り一揆を鎮圧。氏真は形勢を挽回する事が出来ず、永禄九年〈一五六六年〉には家康に三河統一を果たされた。
松平家に鉄槌を下せず滑り出しから躓いた氏真は、求心力を低下。三河国内で今川家と鎬を削る中で遠江国内の一部国人が松平家の調略に呼応する形で離反の動きを見せるなど、足元が揺らぎ始めた。
一事が万事……とはいかないが、氏真は向かい風に晒されながら舵取りを迫られる事となる。