序:亡国の暗君
江戸時代中期に“寛政の改革”を主導した松平定信は、自らが著した随筆『閑なるあまり』の中で、治政者として悪い例をこう述べている。
『油断するは東山(足利)義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ』
守護大名の対立を発端とした“応仁の乱”では戦乱を収められず、室町幕府の衰退にトドメを刺したとされる第八代将軍・足利義政。
一時は中国地方西部から北九州にかけて一大版図を築いたものの文治派の登用を機に滅亡まで追い込まれた大内義隆。
この二人に並べられているのが、今川家最後の当主・氏真である。
室町幕府を開いた足利家の支流で、清和源氏の流れを汲む名門・今川家。嘗て『御所(足利家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ』と言われ、もし仮に足利将軍家に後継者が居なくなった場合は吉良家の次に継承権があるとされた、それくらい特別な家柄であった。
鎌倉以来の由緒ある名家が戦国乱世の荒波に呑まれて滅亡した例は数多ある中で氏真が代表例に名前を出されたのは何故か? その理由は、氏真が文化人の印象が特に強いからだと推察される。
定信が挙げた歌道(和歌・連歌)はさることながら、蹴鞠に関しては当代随一の腕前を持っていたとされる。その為に“政や武将として著しく才能を欠いていたが故に国を滅ぼした暗君”という印象が付いてしまった。
確かに、氏真は文化人として有名だった事実はある。しかしながら、戦国時代の有名な剣術家・塚原卜全から剣術の指南を受け、その腕前は確かなものだった。また、今川家が滅んだ後も氏真に付き従う家臣も少なからず居たとされる。
彼は滝を登り龍になろうとするも叶わなかった鯉なのではなかろうか。これは瀑布に呑まれた一匹の鯉の物語である――。