ねねと藤吉郎(桶狭間1560)
月のない夜だった。
間口三間の長屋で、娘は主を待つ。
足音が聞こえてきた。闇の中でも迷いはない。
足音が止まる。
「ねねか」
戸口に浮かぶ影が、娘の名を呼ぶ。聞き慣れた声に、胸が高鳴る。
ねねは油皿に火を灯す。鰯の臭いがたちこめる。
「お帰りなさいませ、藤吉郎様。食事を用意してあります」
ねねは、竹皮で包んだ握り飯を差し出した。
藤吉郎は、人好きのする笑顔で受け取る。
「ありがとう。お役目が忙しいでな。いつも助かる」
長屋では、煮炊きに使う井戸と釜は共有だ。搗米は朝にまとめて炊く。
ねねは藤吉郎の分も一緒に炊き、握り飯にしておいたのだ。
藤吉郎が握り飯を食べるボリボリという音が響く。
ねねは耳をすます。
──隣の部屋。無音のまま。聞き耳をたててますね。
この長屋には、百人の足軽とその家族が住む。ほとんどの足軽は若く、独身だ。
ねねは十三才。この時代では結婚適齢期である。
藤吉郎は二十四才。独身だが、結婚してもおかしくはない。
長屋で暮らしている足軽たちの間に、秘事は存在しない。
津島湊のねねが食事にかこつけ、清須の藤吉郎をたびたび訪れるのは、婚活と周囲には思われているし、ねねとしても、その方が都合がいい。
藤吉郎が食事をすませた。ねねは、ちょん、と藤吉郎の隣に座る。
耳元でささやく。
「叔父上から、首尾を確認するようにと」
藤吉郎は答えず、苦い顔になった。
ねねは、耳たぶを引っ張った。
「藤吉郎様?」
がぶり。
思案する藤吉郎の耳たぶを、ねねが噛む。
「いたたた」
「もう日がありませんよ。失敗したとは、いいませんよね」
「失敗かどうかはわからないが……清須様の動きが、おかしい」
藤吉郎は足軽だが、清須城主の三郎信長に抜擢され、近習として仕えている。
「清須様は、繰り返し熱田神宮に使者を送っている。こっそりとな」
がぶがぶ。
「いたたたたたた!」
歯型が残るほど耳たぶを噛まれた藤吉郎が情けない声をあげる。
壁の向こうで、ざわめく感じがあるが、ねねの思考はそっちに向かない。
──熱田神宮に使者? 今になって?
ねねは、津島の浅野又右衛門長勝の養女だ。
藤吉郎は信長の近習ではあるが、津島湊の代理人でもある。
ねねは浅野家からの連絡員として清須城にきている。
「そうだ。今になってだ」
「心、読まないでください」
がぶがぶ。
「いたたた……ともあれ、治部大輔の熱田参拝まで、半月。ここにきて、裏取引がバレるとまずい」
裏取引とは、織田家と今川家の手打ちのことである。
西の織田家と、東の今川家は、長く抗争を続けてきた。
土地を求めてはなく、銭を求めてのことだ。両家とも直接の恩讐はない。
これ以上の争いが得にならないと思えば、双方とも損切りに異論はない。
そうはいっても、武士には面子がある。抗争の手仕舞いには、誰もが納得する裏付けがいる。武士の信仰を集める草薙神剣を奉じる熱田神宮なら、手打ち式にはもってこいだ。
「津島では叔父上が根回しをすませました。後は熱田神宮に治部大輔様と清須様がそろって参拝して……ひゃんっ」
さわさわ。
尻を撫でられたねねが、押し殺した悲鳴をあげる。
「兄様! 何やってるんです!」
「耳を噛まれた分、役得をもらわないとな。それにしても、兄様とは懐かしい
呼び方ではないか」
ねねが顔を真っ赤にする。
「骨ばってるお尻なんか触って、どんな役得になるんですか」
「これはこれで、味わいがある」
「兄……藤吉郎様は、ぷにぷにしたお尻の方が好きだと思ってました」
「いっちょ前に、悋気か?」
「兄様!」
ねねが耳たぶを噛もうと口を開く。藤吉郎が顔をねじって避ける。
ねねの口が追いかける。ふたりの顔が近づき、見つめあう。
揺れる灯りの中で、口と口が重なった。
先手はねね。ねねの舌が藤吉郎の口の中に入る。
藤吉郎も負けじと自分の舌で、ねねの舌を絡め取る。ふたりの舌が、
ねちゃねちゃと唾液の音をたてる。ねねはちっちゃな鼻でふーふーと
息をするが、呼吸が足りず、酸欠で顔が赤くなっていく。
──この裏取引。どうにもきな臭い。
甘く濃厚な口づけの一方で、藤吉郎の思考は冷たく冴えていく。
これは、藤吉郎の癖のようなもの。
周囲からは女好きと思われているが、藤吉郎にしてみれば、女を抱くのは
仕事の一環だ。後の世ならば煙草や珈琲をのむ感覚で、女を抱く。
そも、藤吉郎は信長の近習である自分を武官だとは思っていない。
商人寄りの文官だと思っている。
──百姓が読み書きを学べるのは寺だけ。わしは寺で小坊主として学んだ縁で、
又右衛門様と出会えた。ねねとも、その頃からの付き合いか。
息が続かなくなったねねが、ほんのり逃げようとするのが舌の動きでわかった。藤吉郎は片手でねねの頭を抱き、舌を強く吸う。
──ねねはまだ童だったな。
寺で学んだ、といっても教科書があるわけではない。百姓出の小坊主だ。貴重な経典は、書写であっても触らせてもらえない。
藤吉郎が練習のために書き写したのは、寺を仲介して行われる商取引の書状だ。
楮が舟で何艘。支払いが銭で何貫。寺には守護不入の権があり、読み書きできる
僧もいる。
小坊主として勉強する一方、藤吉郎は蔵に荷を出し入れする作業も担った。
中世における商取引は、信仰と深くつながっている。津島は牛頭天王。熱田は
草薙神剣と熱田大神が祭られている。銭も荷も、まず寺社の中に運びこまれる。
寺社での商取引が増えるほどに、小坊主の数も増える。
だが、信仰だけでは足りない。信仰には建前があっても強制力がない。取立を庇護する門徒侍が必要となる。さらに、門徒侍を束ねる総代も。
──清須様の前の前。織田弾正忠家の祖父が、津島の総代となった。
津島の総代となった祖父に続いて、父は熱田も手中におさめた。
手中におさめたといっても、商人の利権と門徒侍の面子がぶつかるから、平穏無事とはいかない。
ねねの養父の浅野又右衛門長勝は、織田弾正忠家の足軽頭だ。清須派閥の
ひとりだが、津島には他の派閥もあって合従連衡を繰り返している。
──又右衛門様がこたびの首尾を気になさるのも、当然だな。
熱田神宮で今川と織田の手打ちが成功すれば、伊勢から尾張を経由し、三河・
遠江・駿河へとつながる一大経済圏が完成する。立役者である浅野家の津島での
地位は、盤石なものとなる。
信長とのつなぎ役で清須城にいる藤吉郎の足軽長屋に、養女のねねが送り込まれたのも、浅野長勝の意気込みを表していた。
──だが……本当に清須様は、この取引を受ける気があるのか?
織田・今川の係争地に、鳴海城と大高城がある。信長は、ふたつの城の周囲に砦を築き、自家の縄張りを主張している。
手打ちとなれば、砦は破却される。では、ふたつの城は誰のものとなるか。
──三河松平家の竹千代様だな。尾張と三河の最前線は、以後は鳴海城と大高城ということになる。
信長にとって、損しかない結末だ。
なのに信長は、手打ちの後に城をどうするか曖昧なままにしている。
「あに……兄……さま……」
ぱんぱん、とねねが藤吉郎の手を叩く。降参の合図だ。
藤吉郎はふっ、と笑って、ねねの舌を離してやる。
唾液でべとべとになった顔をぬぐい、ねねが藤吉郎を睨む。
「すまんな、ねね。つい夢中になってしまった」
「兄様のウソつき」
「ウソではないぞ。ねねの唇は柔らかいし、舌の動きも巧みだ」
「そ、そんなの……本当に?」
ねねが口に手をあてて隠す。
嬉しそうではあるが、藤吉郎は気づかない。
「ああ。口吸いだけで、ここまで覚醒したことはない」
すんっ。
ねねの表情が冷たくなる。
「清須様に、茶を点ててもらったことがあるが、あれより頭の冴えはよかった」
ぽかり。
ねねが藤吉郎を殴る。
「なんだよ。ほめてるだろ」
「ほめてません。ぜんっ、ぜんっ、ほめてません!」
「いたっ、本気で痛いぞ、ねね」
ぽかぽかとねねが藤吉郎を殴り続ける。
隣の部屋で聞き耳をたてていた男女は、顔を見合わせてうなずいた。
藤吉郎が浮気をし、幼なじみのねねに怒られているのだと理解したのだ。
おおむね、間違いではない。
殴られながら、藤吉郎は思考を重ねる。
──今川と織田。これ以上の戦いは、損にしかならない。清須様も、そこはわかってるはず。だとすれば……抗争を終わらせようという気持ちは本当だ。
翌朝。
青あざを作った藤吉郎をみて、清須城主の三郎信長はにやっ、と笑う。
「聞いたぞ藤吉郎。昨夜は、ずいぶんと派手にやったそうじゃないか」
「お恥ずかしいかぎり」
藤吉郎は、信長の様子を伺う。
この時、三郎信長は数えで二十七才。父信秀の後を継いで、毎年のように四方八方で戦を重ねてきた。決断力、行動力、いずれも横溢している。
「殿。しばらく長屋に居づらいので、道普請など、お命じいただければ」
「道普請、とな」
信長の目が、蛇のように鋭くなる。
当たりを引いた、と藤吉郎は考える。
「熱田神宮への参拝が近い。清須から熱田までの道を修繕せよ」
「はっ」
昼前に長屋に戻った藤吉郎は、ねねを呼んだ。わざと、長屋の外で。
周囲には人の目がある。聞き耳もたてられている。
「ねね。昨夜はすまなかった。わしは、これからしばらく清須様に命じられて道普請だ。長屋には戻らない」
ねねは目を見張り、はにかむように顔をうつむかせて藤吉郎に抱きついた。
声をひそめて、藤吉郎にささやく。
「叔父上には、なんと?」
「何もいうな」
「なぜです?」
「清須様は、この機会を利用して独自の企みを抱いている。もしかしたら、又右衛門様の思惑通りになるかもしれん。だが、違うとしたら……」
「企みを知っている人間は、少ない方がいい、ということですね……ひゃんっ」
藤吉郎は、ねねの尻を掴み、撫でた。
十三才の尻は、青く硬い。それでも、思考が冴えていくのがわかる。
「清須様が兵を用いるとしたら、道普請は絶対に必要だ。熱田に兵を集めてから
動くはず」
土を均しただけの道は風雨にさらされればすぐ不通となる。濃尾平野のように、木曽三川が荒れる土地であれば、なおのこと。
一人二人ならともかく、百人単位の集団が迅速に移動するには、修繕された道が絶対に必要だ。
──清須様は、電撃戦を仕掛けるつもりだ。
信長は、今川家から、商人を通した非公式の打診で和議を求められたのを
いいことに、のらくらと言質を与えず過ごし、今川軍の手立てに関する情報を
集め続けている。
──今川軍は大軍であるほど、事前の日程に動きが縛られる。
対して、織田軍は少数であればこそ、信長の判断で臨機応変に動ける。
和議の前に今川軍に痛打を与えることに成功すれば、内外で信長の評価は
上がる。そうなれば、熱田神宮での手打ち式の後、義元が横死した義父道三に
かわる信長の新たな支援者になってくれるはずだ。
──清須様は、東を気にすることなく北の美濃攻めに本腰を入れられる。
「藤吉郎様。人と銭は手持ちで足りますか?」
「ちょっとばかり、足りぬな」
「なら、私が浅野家の名で用意しましょう」
「よいのか?」
「浅野家には私から説明します……だめなら、私を連れて逃げてくださいね、
兄様」
「ありがとう、ねね」
見透かされてるな、と藤吉郎は思った。
出かける前にねねを呼んだのも、道普請の話をしたのも、この展開にもっていくためだ。
「又右衛門様にはわしからも……うひゃあっ」
股間を握る細い指の感触に、藤吉郎が奇声をあげる。
尻を撫でられているねねが、藤吉郎を見上げる。
「はい。一緒に怒られましょうね、兄様」
ねねは微笑みを浮かべた。
時に、永禄三年(西暦1560年)五月二日(6月12日)のことである。