表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ねねと藤吉郎(桶狭間1560)

作者: 銅大

挿絵(By みてみん)


 月のない夜だった。

 間口(まぐち)三間(5.4m)長屋(ながや)で、娘は(あるじ)を待つ。

 足音が聞こえてきた。闇の中でも迷いはない。

 足音が止まる。


「ねねか」


 戸口に浮かぶ(シルエット)が、娘の名を呼ぶ。聞き慣れた声に、胸が高鳴る。

 ねねは油皿(あぶらざら)に火を(とも)す。(いわし)の臭いがたちこめる。


「お帰りなさいませ、藤吉郎(とうきちろう)様。食事を用意してあります」


 ねねは、竹皮(たけかわ)で包んだ握り飯を差し出した。

 藤吉郎は、人好きのする笑顔で受け取る。


「ありがとう。お役目(しごと)が忙しいでな。いつも助かる」


 長屋(ながや)では、煮炊きに使う井戸と釜は共有だ。搗米(つきごめ)は朝にまとめて炊く。

ねねは藤吉郎の分も一緒に炊き、握り飯にしておいたのだ。

 藤吉郎が握り飯を食べるボリボリという音が響く。

 ねねは耳をすます。


 ──隣の部屋。無音のまま。聞き耳をたててますね。


 この長屋(ながや)には、百人の足軽(あしがる)とその家族が住む。ほとんどの足軽(あしがる)は若く、独身だ。

 ねねは十三才。この時代では結婚適齢期(けっこんてきれいき)である。

 藤吉郎は二十四才。独身だが、結婚してもおかしくはない。

 長屋で暮らしている足軽たちの間に、秘事(プライベート)は存在しない。

 津島湊(つしまみなと)のねねが食事にかこつけ、清須(きよす)の藤吉郎をたびたび訪れるのは、婚活(そういうこと)と周囲には思われているし、ねねとしても、その方が都合がいい。

 藤吉郎が食事をすませた。ねねは、ちょん、と藤吉郎の隣に座る。

 耳元でささやく。


「叔父上から、首尾(しゅび)を確認するようにと」


 藤吉郎は答えず、苦い顔になった。

 ねねは、耳たぶを引っ張った。


「藤吉郎様?」


 がぶり。

 思案(しあん)する藤吉郎の耳たぶを、ねねが噛む。


「いたたた」

「もう日がありませんよ。失敗したとは、いいませんよね」

「失敗かどうかはわからないが……清須(のぶなが)様の動きが、おかしい」


 藤吉郎は足軽だが、清須(きよす)城主の三郎信長に抜擢(ばってき)され、近習(きんじゅう)として仕えている。


清須(のぶなが)様は、繰り返し熱田神宮(あつたじんぐう)に使者を送っている。こっそりとな」


 がぶがぶ。


「いたたたたたた!」


 歯型が残るほど耳たぶを噛まれた藤吉郎が情けない声をあげる。

 壁の向こうで、ざわめく感じがあるが、ねねの思考はそっちに向かない。


 ──熱田神宮(あつたじんぐう)に使者? 今になって?


 ねねは、津島(つしま)浅野(あさの)又右衛門(またえもん)長勝(ながかつ)の養女だ。

 藤吉郎は信長の近習(きんじゅう)ではあるが、津島湊(つしまみなと)代理人(エージェント)でもある。

 ねねは浅野(あさの)家からの連絡員(れんらくいん)として清須城にきている。


「そうだ。今になってだ」

「心、読まないでください」


 がぶがぶ。


「いたたた……ともあれ、治部大輔じぶのたいふ熱田参拝(あつたさんぱい)まで、半月。ここにきて、裏取引(うらとりひき)がバレるとまずい」


 裏取引(うらとりひき)とは、織田家と今川家の手打ちのことである。

 西の織田家と、東の今川家は、長く抗争(こうそう)を続けてきた。

 土地を求めてはなく、銭を求めてのことだ。両家とも直接の恩讐はない。

これ以上の争いが得にならないと思えば、双方とも損切り(ていせん)に異論はない。

 そうはいっても、武士には面子がある。抗争(こうそう)手仕舞(てじま)いには、誰もが納得する裏付(うらづ)けがいる。武士の信仰を集める草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を奉じる熱田神宮なら、手打(てう)ち式にはもってこいだ。


「津島では叔父上が根回しをすませました。後は熱田神宮に治部大輔よしもと様と清須のぶなが様がそろって参拝して……ひゃんっ」


 さわさわ。

 尻を撫でられたねねが、押し殺した悲鳴をあげる。


(あに)様! 何やってるんです!」

「耳を噛まれた分、役得(やくとく)をもらわないとな。それにしても、(あに)様とは懐かしい

呼び方ではないか」


 ねねが顔を真っ赤にする。


「骨ばってるお尻なんか触って、どんな役得(やくとく)になるんですか」

「これはこれで、味わいがある」

(あに)……藤吉郎様は、ぷにぷにしたお尻の方が好きだと思ってました」

「いっちょ前に、悋気(りんき)か?」

(あに)様!」


 ねねが耳たぶを噛もうと口を開く。藤吉郎が顔をねじって避ける。

 ねねの口が追いかける。ふたりの顔が近づき、見つめあう。

 揺れる灯りの中で、口と口が重なった。

 先手はねね。ねねの舌が藤吉郎の口の中に入る。

 藤吉郎も負けじと自分の舌で、ねねの舌を絡め取る。ふたりの舌が、

ねちゃねちゃと唾液の音をたてる。ねねはちっちゃな鼻でふーふーと

息をするが、呼吸が足りず、酸欠(さんけつ)で顔が赤くなっていく。


 ──この裏取引。どうにもきな臭い。


 甘く濃厚な口づけの一方で、藤吉郎の思考は冷たく冴えていく。

 これは、藤吉郎の癖のようなもの。

 周囲からは女好きと思われているが、藤吉郎にしてみれば、女を抱くのは

仕事の一環(いっかん)だ。後の世ならば煙草や珈琲をのむ感覚(ノリ)で、女を抱く。

 そも、藤吉郎は信長の近習である自分を武官(サムライ)だとは思っていない。

 商人寄りの文官(サーバント)だと思っている。


 ──百姓が読み書きを学べるのは寺だけ。わしは寺で小坊主(こぼうず)として学んだ縁で、

又右衛門(あさの)様と出会えた。ねねとも、その頃からの付き合いか。


 息が続かなくなったねねが、ほんのり逃げようとするのが舌の動きでわかった。藤吉郎は片手でねねの頭を抱き、舌を強く吸う。


 ──ねねはまだ(わらべ)だったな。


 寺で学んだ、といっても教科書があるわけではない。百姓出の小坊主だ。貴重な経典きょうてんは、書写しょしゃであっても触らせてもらえない。

 藤吉郎が練習のために書き写したのは、寺を仲介して行われる商取引の書状だ。

(こうぞ)が舟で何艘。支払いが銭で何貫。寺には守護不入(しゅごふにゅう)の権があり、読み書きできる

僧もいる。

 小坊主として勉強する一方、藤吉郎はくらに荷を出し入れする作業も担った。

 中世における商取引は、信仰と深くつながっている。津島は牛頭天王ごずてんのう。熱田は

草薙神剣くさなぎのみつるぎ熱田大神あつたのおおかみが祭られている。銭も荷も、まず寺社の中に運びこまれる。

寺社での商取引が増えるほどに、小坊主の数も増える。

 だが、信仰だけでは足りない。信仰には建前があっても強制力がない。取立を庇護(けつもち)する門徒侍(ヤクザ)が必要となる。さらに、門徒侍ヤクザを束ねる総代(おやぶん)も。


 ──清須(のぶなが)様の前の前。織田弾正忠(だんじょうちゅう)家の祖父が、津島の総代(おやぶん)となった。


 津島の総代(そうだい)となった祖父(のぶさだ)に続いて、(のぶひで)は熱田も手中におさめた。

 手中におさめたといっても、商人の利権と門徒侍(もんとざむらい)の面子がぶつかるから、平穏無事(へいおんぶじ)とはいかない。

 ねねの養父の浅野あさの又右衛門(またえもん)長勝(ながかつ)は、織田弾正忠(だんじょうちゅう)家の足軽頭だ。清須(のぶなが)派閥の

ひとりだが、津島には他の派閥もあって合従連衡(がっしょうれんこう)を繰り返している。


 ──又右衛門(あさの)様がこたびの首尾を気になさるのも、当然だな。


 熱田神宮で今川と織田の手打ちが成功すれば、伊勢(いせ)から尾張(おわり)を経由し、三河(みかわ)

遠江(とおとうみ)駿河(するが)へとつながる一大経済圏が完成する。立役者(たてやくしゃ)である浅野家の津島での

地位は、盤石(ばんじゃく)なものとなる。

 信長とのつなぎ役で清須城にいる藤吉郎の足軽長屋に、養女のねねが送り込まれたのも、浅野長勝の意気込みを表していた。


 ──だが……本当に清須のぶなが様は、この取引を受ける気があるのか?


 織田・今川の係争地(けいそうち)に、鳴海(なるみ)城と大高(おおたか)城がある。信長は、ふたつの城の周囲に砦を築き、自家の縄張りを主張している。

 手打ちとなれば、砦は破却(はきゃく)される。では、ふたつの城は誰のものとなるか。


 ──三河松平(みかわまつだいら)家の竹千代もとやす様だな。尾張と三河の最前線は、以後は鳴海(なるみ)城と大高(おおたか)城ということになる。


 信長にとって、損しかない結末だ。

 なのに信長は、手打ちの後に城をどうするか曖昧(あいまい)なままにしている。


「あに……(あに)……さま……」


 ぱんぱん、とねねが藤吉郎の手を叩く。降参の合図だ。

 藤吉郎はふっ、と笑って、ねねの舌を離してやる。

 唾液でべとべとになった顔をぬぐい、ねねが藤吉郎を(にら)む。


「すまんな、ねね。つい夢中になってしまった」

兄様(あにさま)のウソつき」

「ウソではないぞ。ねねの唇は柔らかいし、舌の動きも巧みだ」

「そ、そんなの……本当に?」


 ねねが口に手をあてて隠す。

 嬉しそうではあるが、藤吉郎は気づかない。


「ああ。口吸(くちす)いだけで、ここまで覚醒(かくせい)したことはない」


 すんっ。

 ねねの表情が冷たくなる。


清須(のぶなが)様に、茶を()ててもらったことがあるが、あれより頭の冴えはよかった」


 ぽかり。

 ねねが藤吉郎を殴る。


「なんだよ。ほめてるだろ」

「ほめてません。ぜんっ、ぜんっ、ほめてません!」

「いたっ、本気で痛いぞ、ねね」


 ぽかぽかとねねが藤吉郎を殴り続ける。

 隣の部屋で聞き耳をたてていた男女は、顔を見合わせてうなずいた。

 藤吉郎が浮気をし、幼なじみのねねに怒られているのだと理解したのだ。

 おおむね、間違いではない。

 殴られながら、藤吉郎は思考を重ねる。


 ──今川と織田。これ以上の戦いは、損にしかならない。清須(のぶなが)様も、そこはわかってるはず。だとすれば……抗争を終わらせようという気持ちは本当だ。


 翌朝。

 青あざを作った藤吉郎をみて、清須城主の三郎信長はにやっ、と笑う。


「聞いたぞ藤吉郎。昨夜は、ずいぶんと派手にやったそうじゃないか」

「お恥ずかしいかぎり」


 藤吉郎は、信長の様子を(うかが)う。

 この時、三郎信長は数えで二十七才。父信秀の後を継いで、毎年のように四方八方(しほうはっぽう)で戦を重ねてきた。決断力、行動力、いずれも横溢(おういつ)している。


「殿。しばらく長屋に居づらいので、道普請(みちふしん)など、お命じいただければ」

道普請(みちふしん)、とな」


 信長の目が、(へび)のように鋭くなる。

 当たりを引いた、と藤吉郎は考える。


「熱田神宮への参拝が近い。清須から熱田までの道を修繕せよ」

「はっ」


 昼前に長屋に戻った藤吉郎は、ねねを呼んだ。わざと、長屋の外で。

 周囲には人の目がある。聞き耳もたてられている。


「ねね。昨夜はすまなかった。わしは、これからしばらく清須のぶなが様に命じられて道普請(みちふしん)だ。長屋には戻らない」


 ねねは目を見張り、はにかむように顔をうつむかせて藤吉郎に抱きついた。

 声をひそめて、藤吉郎にささやく。


「叔父上には、なんと?」

「何もいうな」

「なぜです?」

清須(のぶなが)様は、この機会を利用して独自の企みを抱いている。もしかしたら、又右衛門(あさの)様の思惑通りになるかもしれん。だが、違うとしたら……」

「企みを知っている人間は、少ない方がいい、ということですね……ひゃんっ」


 藤吉郎は、ねねの尻を掴み、撫でた。

 十三才の尻は、青く硬い。それでも、思考が冴えていくのがわかる。


清須(のぶなが)様が兵を用いるとしたら、道普請(みちふしん)は絶対に必要だ。熱田に兵を集めてから

動くはず」


 土を(なら)しただけの道は風雨(ふうう)にさらされればすぐ不通(ふつう)となる。濃尾(のうび)平野のように、木曽(きそ)三川(さんせん)が荒れる土地であれば、なおのこと。

 一人二人ならともかく、百人単位の集団が迅速に移動するには、修繕(しゅうぜん)された道が絶対に必要だ。


 ──清須(のぶなが)様は、電撃戦(ブリッツクリーク)を仕掛けるつもりだ。


 信長は、今川家から、商人を通した非公式の打診で和議を求められたのを

いいことに、のらくらと言質(げんち)を与えず過ごし、今川軍の手立て(さくせん)に関する情報を

集め続けている。


 ──今川軍は大軍であるほど、事前の日程(スケジュール)に動きが縛られる。


 対して、織田軍は少数であればこそ、信長の判断で臨機応変(りんきおうへん)に動ける。

 和議の前に今川軍に痛打を与えることに成功すれば、内外で信長の評価は

上がる。そうなれば、熱田神宮での手打ち式の後、義元が横死した義父道三に

かわる信長の新たな支援者になってくれるはずだ。


 ──清須(のぶなが)様は、東を気にすることなく北の美濃攻めに本腰を入れられる。


「藤吉郎様。人と銭は手持ちで足りますか?」

「ちょっとばかり、足りぬな」

「なら、私が浅野家(おじうえ)の名で用意しましょう」

「よいのか?」

浅野家(おじうえ)には私から説明します……だめなら、私を連れて逃げてくださいね、

(あに)様」

「ありがとう、ねね」


 見透かされてるな、と藤吉郎は思った。

 出かける前にねねを呼んだのも、道普請(みちふしん)の話をしたのも、この展開にもっていくためだ。


又右衛門(あさの)様にはわしからも……うひゃあっ」


 股間(ふぐり)を握る細い指の感触に、藤吉郎が奇声をあげる。

 尻を撫でられているねねが、藤吉郎を見上げる。


「はい。一緒に怒られましょうね、(あに)様」


 ねねは微笑(ほほえ)みを浮かべた。

 時に、永禄三年(西暦1560年)五月二日(6月12日)のことである。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ